忘却の姫子
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出立の船 
 冬が終わりを告げ、気候は緩やかに暖かく、春先も間近に迫っていた。
 老人の話を聞きながら、脳裏に浮かぶ "ある光景" を瞼を閉じて追った。

 そうだ。
 雪が降っていた "あの惨劇" から、ふた月が過ぎようとしているのだ。

「時代は変わりましたな。私がまだ子供の頃は、今ほどはそう簡単にウルディアスへと渡ることは出来なかったですからな」

 老人の言葉に、男は閉じていた瞼を開いた。

「そうですね」
「今の陛下は有能な方です。レイズヴァーグがここまで豊かになったことが私は嬉しいです」
「…………」

 老人にとってはレイズヴァーグが故郷なのだ。
 それに気が付き、古びて錆び付いた剣のように心が嫌な音を発てて軋んだ。

 国が豊かに大きく発展していく裏側ではどれだけの犠牲が関わっているのか、あなたはそれをご存知か。

 ともすれば、なんの関係もない老人を詰りそうになった。手のひらに爪を食い込ませて堪える。
 唐突に黙り込んだ男を、老人は不思議そうな笑顔でもって見つめてくる。

 男は老人に軽く頭を下げると、そのまま踵を返した。

忘却の姫子