優しい声のバーテンダー

5年付き合った彼氏に別の女がいた。鉢合わせはしてないものの、隠す気もない証拠の数々に呆れてそのまま彼の部屋を出てきた。捨て台詞は「さようなら」。
グーでアイツの顔、殴ってやればよかった。体のいい浮気相手だったのは、相手の女の方か、それとも私か。その真偽は今となっては分からない。

「お姉さん、こんなとこで1人で飲んでて寂しくない? 俺たちと一緒に飲もうよ」
「……うるさい」
「はあ?」
「うるさいって言ってんの!」

私だって別にこんなとこで飲みたいなんて思ってない。ただ酔ってないとやってられないからわざわざスト缶買ってこんなとこで飲んでんの。大体なんでこんなタイミングでナンパなんかされんのよ。どうせだったらもっといいタイミング今までにいっぱいあったでしょうよ、私の人生!

「調子乗ってんじゃねえぞブス!」

ちょっと大きな声を出しただけなのに、男は私に向かって拳を振り上げた。なんなの今日は! ああもう! 最悪! 最悪最悪!

「ねえ、俺のツレになんか用?」
「……え?」

振り上げられた拳が私を攻撃することはなかった。私を隠すように立った一人の男がそれを止めたから。

「お待たせ。ごめんね、遅くなっちゃって」
「え、あ……」

圧倒される私の耳元で彼は「俺に合わせて」と呟いた。

「先始めてていいよとは言ったけどさ。お店入っててって意味だったんだけど」

くすくす笑いながら彼は私の腰を抱いて「行こっか」と呟いた。目の前のナンパ男たちは呆然としたかと思えばそそくさと逃げていった。

「……あ、あ! ありがとう、ございます」
「飲みすぎ、じゃない?」

ひょいと缶を奪われる。「返して」と手を伸ばせば、体がぐらりと揺れ、彼の方へと倒れてしまう。

「ほら、ふらふらじゃん」
「いいんですー! 酔いたいの!」
「……じゃあせめて店ん中で飲みません? 外、危ないんで」
「え、いや……」
「いいから」

私の腰を抱いたまま彼は歩き始める。どこ行くの、なんて聞くことも出来ないまま、彼に連れられた。
時折彼は、あれこれ他愛もない話をしてくれたけど、何一つ覚えてない。年齢を聞けば私とそう変わらなくて「敬語やめよ」と言ったことくらいしか覚えてなかった。頭の奥でぼんやりと、ああこの人に持ち帰られるのか私……なんて考えてたせいだなんて、到底言えるわけもない。

「ここ、俺の店」
「……店? ホストなの?」
「何でそうなるの」

肩を震わせて笑う彼に「違うの?」と聞けば「違うよ」とデコピンされた。

「階段気をつけて」
「ありがと……」
「はい、お水」
「……ありがと」

彼は店に入ってすぐペットボトルの水を出してくれた。それをごくごくと喉に流し込んでいく。
こんな風にエスコートされるなんて初めてで戸惑いが隠せない。アイツとは大違い。

「ん」
「え?」
「飲み足りないんでしょ」

そう差し出されたのはモヒートだった。「いただきます」と呟いて流し込めば、喉の奥がきゅうと締まって、深く息を吐いた。

「美味しい……」
「良かった。ちょっと甘めにしたけど、大丈夫だった?」
「うん、これ好き」

くしゃりと笑う彼は月明かりの下で見るよりも幼く見えて、でもどこか色香を孕んでいて目をそらすことが出来なかった。

「水、ちゃんと飲んでね」

そう言いつつも彼は次のカクテルを用意していた。いい具合に酔いが回ってきて、目の奥がとろんと蕩けていく。頬杖をついて、彼を眺めれば「眠い?」と笑われた。くしゃくしゃと私の髪を撫でる彼の手つきは優しくて、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。

「……帰り、送ってくから、寝てていいよ」

吐息混じりのハスキーな声が鼓膜を揺らした。こくりと頷き、彼の言うままに私は数分と経たないうちに眠りについてしまった。


***


「……ん」
「あ、起きた。おはよ」
「おは……よー……。どこ、ここぉ」
「タクシーの中。今、俺ん家向かってるとこ」

寝起きの頭は回転が遅くて困る。二拍ほど置いてから、俺ん家に向かってるって言葉を理解したせいで「え?」と上擦った素っ頓狂な声が漏れた。

「仕事は?」
「今日、客入り悪かったから早めに店仕舞いしたよ。ずっと寝てたね」

彼の言うとおり。ずっと寝てた。だいぶ酔いも醒めて、倦怠感だけが体に残っていた。「寄りかかってていいよ」と彼が私の頭を自分の肩に寄せるもんだから、その優しさに甘んじることにして、肩を借りた。

「……ほんと、無防備すぎない?」
「え?」
「今から男の家に行くって、ちゃんと分かってる?」

耳元で囁かれればとくりと心臓が跳ねた。熱っぽい瞳に魅入られて、為す術もなく首を小さく縦に振る。どうなったっていい、なんてやけじゃなくて、彼とだから、どうにだってなれる、って思ってしまった自分のしりの軽さに嘲笑してしまう。
今はまだ、それでいい。間近の過去をかき消すために、私は彼の誘いに乗った。