今年は暖冬なのだそうだ。自分からは滅多に点けないテレビの、天気予報のお姉さんがそう言っていた。
今までの冬をいちいち覚えていないが、確か去年は寒かったような気がする。
毎日エアコンの下にタイツが吊るされていた記憶があるし、毎日コートの下にさらに重ね着をして学校へ通っていたような気がする。否、これは一昨年のことだったかもしれない。やはり覚えていない。
朝食のカップスープを飲み干しながら、わたしはこの後ある英語の小テストの単語を思い返していた。
今朝のリビングも相変わらず平和だ。片付けられた室内、空調が効いていて、BGMの代わりにニュース番組の流れるこの空間。
家を出てもきっと、代わり映えのしない日常がそこにはある。わたしはそんな平和を愛している。
今日はまだマフラーは必要なさそうだと、テレビの端の予想気温の数字を見ながら思った。画面の中央では見覚えのあるようなないような女優が、何やら新しく始まるドラマの番宣をしているようだった。
どうやらその内容は、今まさに画面の向こうで健気に番組のアピールをしている女優演じる主人公が、周囲を巻き込みながらも一生懸命に自らの幸せを追い求めていく、といういわゆるラブコメのようだった。
他人事だな、と思う。分かっている。目の前のそれは創作の一つで、ノンフィクションでも、ドキュメンタリーでもない。わかっている。
――わたしが幸せになることを諦めたのは、いつからだっただろう。
別に、取り立てて嫌なことがあったわけではない。誰かから嫌がらせを受けていたとか、変なことを吹き込まれたとか、大きな壁にぶち当たって挫折感を味わったとか。
強いて言うならば、似合わないな、と思った。テレビの向こうの大恋愛も、成功談も、クラスメートたちの浮き足立った噂話も、自慢話も。わたしには縁遠いものだと勝手に決めつけて、そして追いやっていた。
いつの間にか、わたしはわたしであることだけに固執するようになっていた。そしてその不確かな自分像というものに、自ら踊らされていたのだと思う。
本は好きだ。テレビとの違いは、その共感性の高さの違いかもしれない。ページを捲る速度を調節できる上、まだ解釈の余地の残される活字と違って、テレビでは映像に音声まで伴って一方的に脳内に流れ込んでくる。その強迫的な理解の求め方がわたしの性にあわないのだ。そんな気がする。
今年の冬も、何事もなく終わればいい。食器と食器の軽くぶつかる音を聞き流しながら、そう考える。
ぬるま湯に浸かっているような、そんな平穏が何より尊いのだろうと、わたしはそう信じている。