一月八日。
冷めきったミルクティーを免罪符に、駅前のカフェに居座り続けてはや数時間が経過しようとしていた。
カウンター席に数枚のレジュメを広げ、顰めっ面でそれを睨む少女──関祈里(せきいのり)は、無意識に手の中のボールペンをくるりと回す。目の前のレジュメの無機質な文字が脳の裏で踊り始めて、これはいけないと目を閉じた。
「おーい、寝るなよ」
「寝ないし。ちょっと休憩してるだけ」
あっそ、と言いながら、きっとその顔はにやついているのだろう。見えないながらも隣に座る男の顔を想像しながら、祈里はまたペンを回した。
祈里の隣の席に座り、教科書を眺めているこの男の名前は塩谷蓮(しおやれん)である。高校生の頃からの腐れ縁であり、テスト勉強しようぜ、と駅前まで祈里を呼び出した張本人だ。親戚以外の人に会いたくなったとも言っていた。気持ちは分かる、と了承したのが二日ほど前のことになる。
それにしても、異性である祈里を呼び出すだなんて、こいつに友達はいないのだろうか。半分は冗談だが、祈里がそう思ってしまったのはきっと自然なことだろう。まあ、その辺りの事情に興味はこれっぽっちもないのだが。
「なあ、テスト終わったらどうすんの」
「どうするって?」
「いや、なあ?」
なあ、と言われても分からない。祈里と蓮の付き合いはもう四年目、高校一年の時からになるが、正直なところ、祈里にはなぜこの男が自分なんかと一緒にいたがるのかがさっぱり分からなかった。
そもそも初めて交わした言葉も、仲良くなったきっかけも思い出せない。きっとそれくらいに自然なものだったのだろう、よもやそこから三年連続で同じクラスになろうとは、あの時の自分は思いもしなかったが。
しかも大学、さらには学科まで同じだ。ここまで来ると運命のようなものすら感じるが、祈里と蓮に限ってそれはない。そう祈里は断言できた。
関祈里と塩谷蓮は、なんとなく仲の良い、そんな関係なのだ。少なくとも祈里はそう考えている。
「春休みじゃん」
「そうだね」
「あいつ、受験生だろ? ってことは、あいつも春休み長いだろ。どっか誘ったりしねーの」
あいつ――考えるまでもなく、浅岸佑弥(あさぎしゆうや)のことだ。
祈里たちの一つ年下、同じ高校に通っていた後輩のことで、祈里とは中学から同じだった。そしてその頃から祈里が一方的に想いを寄せている相手でもある。どういう訳だか、蓮と話すようになった当時からこのことを蓮に知られてしまっているのであった。
「いや、いやいや……なんて言って誘うの。ていうか絶対断られる」
「誘ってみなきゃ分かんねーだろ」
「いや、ていうかわたしは眺めてるだけで充分というか、そんな、付き合いたいとか、そういうのじゃないので……」
はあ? と蓮が思い切り顔を顰める。祈里は逃げるようにミルクティーのマグに手を伸ばした。ちなみに、蓮のそれはとっくの昔に空になっている。
「分かんねーな。好きって、それだけで我慢できるもんか?」
「……わたしだって、分かんないし」
そう言って祈里は拗ねたようにふいと蓮から顔を背けた。
祈里にとって、恋愛というのは未知のものに等しい。周囲の話や、触れる本やドラマからなんとなくのイメージこそ持っているものの、自分が当事者となれば話は別だ。
現に祈里は生まれてこの方、誰かとお付き合いなるものをしたことがない。告白をしたこともなければ、されたこともない。好きという感情を抱いたのだって、四年以上前、佑弥に対してが初めてのことだった。
確かに、佑弥が誰か他の女子と仲良くしているところを見かける度にもやもやとした。その隣にいるのがわたしなら良いのにと思った。しかし思うだけで実行に移そうとは思わなかった――勇気がなかったというのも、そうなのだが。何より、彼の隣にいる自分が。自分が、彼を笑顔にできる自信が。無かったのだ。
「とにかく、今のままでいいんですよ。うん」
ただ、彼を好きだという気持ちに偽りはない。それは誰にも否定させない。関祈里を構成するものの一つにこの思いがあるのだと、祈里はそう考えている。
しかし蓮はいまいち納得できないようで、不満そうな顔で祈里を見ていた。
「あいつと最後に会ったの、いつだよ」
「……五月?」
「半年以上前じゃねえか……」
確か、佑弥の所属するテニス部のインターハイの地区予選の応援に行ったきりだ。それも、会いにいった、というよりは、単に見にいった、と言った方が正しい。とある筋から彼の所属するテニス部の試合のある日程を教えてもらって、その会場が家から徒歩十数分の近所であったこともあり、散歩ついでだと己に言い聞かせて足を伸ばしてみたのだ。
「もっとアタックしろって。顔忘れられても文句言えねーぞ」
「それは、嫌、だな……」
「ほらあ、嫌なら連絡しろってー」
そのうち後悔しても知らねーぞ、と蓮は続ける。この塩谷蓮という男は、高校の時からこうして祈里の恋を応援し、何度も背中を押してくれているのだった。
祈里の何がそんなに蓮の気に入ったのかは不明だが、それでもこうして話を聞いてくれる存在がいるというのは有難いものだなと、祈里は密かに彼に感謝をしている。絶対に本人には言ってやらないが。
「で、でも、SNSではずっと相互いいねしてる!」
「地味だなー……」
蓮はその声に呆れを滲ませながら、大袈裟にがっくりと肩を落として見せた。よよよ、と下手な泣き真似まで始める。
俯いた彼の金髪頭を見て、祈里はそれをどこか遠い存在のように思った。高校を卒業してすぐに染められた髪、にこにことよく笑う明るい性格。いつも友人に囲まれている。塩谷蓮は太陽のような人だと、よく思う。胸の辺りまで伸ばされた、自身の無難な暗い茶色の髪を指先で触りながら、そんなことをぼうっと考えていた。
「祈里がそんなので、俺は心配だよ」
「いや、余計なお世話……」
話はまだ終わっていなかったらしい。気恥ずかしくなりながら、祈里はマグカップに口をつけた。そろそろ残りが心許ないなと、頭の隅でお代わりの文字がちらつく。
「そもそも祈里、そんなSNSに投稿してねーじゃん。最後に投稿したの、それこそいつだよ」
「……」
「覚えてねーんじゃん」
どうして塩谷は、わたしなんかに構うのだろう。飽きずにそうも考えていた。
結局、それからさらに一時間ほどカフェに居座って、ついに祈里の飲んでいたミルクティーが底を尽きたところで店を出た。
祈里が本屋に寄りたいと言って、そこで用事を済ませてから駅の改札前で解散をする。帰りの手段は祈里が電車、蓮が自転車だ。律儀に見送りをしてくれるだなんてあいつもなかなか丁寧な男だと、祈里はこっそりと笑った。
外の寒さとは対照的に、車内は暖房がよく効いていた。足元のヒーターが心地良い。
この土日で冬季休暇も終わりだと、意味もなく点けたスマホの、日付の表示を眺めながら思う。つまり、期末試験もすぐそこだということだ。気が滅入る。
家族と行った、車を使った少し遠くへ足を伸ばしての初詣では、保険にはなるかという軽い気持ちで単位をくださいと願ったが、果たして祈里の努力は無事に報われるのだろうか。報われてくれないと、今までの勉強時間が無駄になってしまう。
蓮と待ち合わせた駅であり、路線の始点でもある織古(おりふる)駅から、祈里の住む町の最寄り駅である白旦(びゃくだん)駅までは四駅ある。
車窓の向こうを眺めながら十数分ほど電車に揺られていると、白旦駅が目の前であることを車内アナウンスが知らせた。
祈里は外の寒さを思って陰鬱な気持ちになりながらも、ゆっくりと立ち上がった。電車が停まる。人の疎らなホームへと降りながら、祈里はマフラーに顔を埋めた。吐き出す息が白い。
低いヒールがコンクリートを鳴らす。一月上旬、日が短いとはいえまだまだ明るい昼下がりに、傍の自動販売機のコーンポタージュを軽く睨みながら祈里は改札を抜けた。残念ながら、祈里の財布は先程済ませてきた買い物のせいで随分と軽くなってしまっていた。
断じて親戚から回収したお年玉を使って豪遊をした訳ではない。むしろその八割は貯金に回したし、さっき買ったものはずっと追いかけている作家さんの新作のハードカバーとその他諸々で――と、誰へともなく脳裏でそんな言い訳を並べ立てていると、目の前のエレベーターの扉が開いた。乗客と目が合う。あ、と二人ほぼ同時に声が漏れた。
「ヒナちゃん!」
「祈里先輩、お久しぶりです」
ヒナちゃん、と呼ばれた少女は車椅子をこぎ、箱の中から出てくるとにこりと微笑む。祈里は靴音を鳴らしながら早足で少女に駆け寄って、「久しぶり!」と数段高くなった声で返した。
「ヒナちゃんどうしたの、あ、もしかして補習?」
「そうなんですよ。私たちの冬休みなんて、一週間でさよならでした」
「はー、進学クラスは大変だねえ……」
ヒナちゃん──鷲宮秀那(わしみやひいな)は、祈里の一つ年下の後輩である。見覚えしかない制服を着ていることからも、高校からの帰りであることは自明だろう。
この白旦駅は、私立白旦高校──祈里と蓮の母校であり、また現在は秀那や佑弥が通っている。ちなみに五月のインターハイ予選もこの白旦高校で行われた──の最寄り駅でもある。
秀那は数週間後のセンター試験、及び一ヶ月後に迫った大学の一般入試の対策のため、また彼女の在籍するクラスの方針もあって、世の学生たちが猫のように炬燵で丸くなっているこの時期も学校に通っているというのだった。
大学に入ってから電車通学を始めた祈里は高校生であった当時その苦労を知らなかったが、秀那には更に車椅子というハンデがある。これでほぼ年中きちんと学校に通っているというのだから恐れ入る。
秀那は長い黒髪を揺らしながら僅かに首を傾けて、「ほんと、私ったら偉いですよね」とお茶目にそう言った。全くだ。
「本当に偉いよ。あ、コーンポタージュ飲む? 奢っちゃう」
「えっ、良いんですか? なら、私はオニオンスープを奢ってしんぜましょう」
「あら、結構ですわ。ヒナちゃんは誰よりも頑張ってるんだから。おばさんが甘やかしてあげないといけないんですのよ」
互いに妙な口調で、祈里はカバンから財布を取り出しつつ先程一瞥をくれてやったものとは別のメーカーの、券売機の脇にあった自動販売機にコインを入れた。秀那も車椅子をこいで、祈里の後を追いかける。
「おばさんって、先輩……私と一つしか変わらないじゃないですか」
「なんかね、最近老いを感じる。本当にね、制服が眩しいよ……」
「ちょっと、ほんとにおばさんみたいなこと言わないでください」
くすくすと笑う秀那に祈里は「切実なんだけどなあ」と遠い目をした。
ガコン、と鈍い音を立てて缶が受け取り口に落ちる。祈里は屈んでそれを手に取って、秀那にコーンポタージュの缶を差し出した。
ありがとうございます、と眉を下げて秀那はそれを受け取る。わたしなんかと違って、白くて細くて、きれいな指だ。ぼんやりと、そんなことを思った。
「そうだ、先輩こそ今日はどうしたんですか。散財ですか?」
秀那の黒目がちな大きな瞳は、祈里の手にある書店の袋に向いている。かさり、と小さな音を立てながら、祈里は苦く笑った。蓮と一緒にいたことは、話すことでもないだろう。
「……好きな作家さんの、新作の発売日だったの」
「あー! 例の! いいなあ、私も読みたいなあ」
缶を振りながら秀那がそう言った。祈里が過去に何度もおすすめだよと言って聞かせた作家だったから、秀那もそのことを覚えていたのだろう。
祈里は立ち上がってカバンを肩に掛け直し、首を傾げた。
「もしあれなら、読み終わったら貸そうか? わたしも試験近いから、まだ先にはなると思うけど」
その言葉は、本心からのものではなかった。別に貸すのが嫌なわけではない。問題があるとするなら、それは秀那の方にだった。
きっと断られるだろう、と半ば諦めにも似た気持ちで祈里は背の低い自身の肩よりも、少し下にある秀那の顔を見る。
俯きがちではあるものの、案の定どこか憂いを帯びたような、なんとも形容し難い表情をしているのが見えた。
「……いえ、その時は、自分で買いますよ。あっでも、よかったら感想聞かせてください! ネタバレは無しで!」
一転、秀那は花が咲くような笑みを浮かべてそう言った。祈里は何も気にしていない振りをして、「もちろん」と返す。ほら、やっぱりね、と祈里は内心で溜息を吐いた。
これは、祈里もここ数ヶ月の間に気が付いたことだった。──鷲宮秀那は、約束を嫌っている。
過去に何かトラウマでもあるのだろうか。なんて、そんなことを本人に尋ねるつもりは毛頭ないのだが。
「ヒナちゃん、下まで送るよ」
「良いんですか? へへ、嬉しいです」
定期券を再び改札に通して──これを持っている者の特権だ──、同じく改札を通過してくる秀那を待ってから祈里は車椅子を押した。その手つきも今となっては随分と手慣れたものだ。
秀那の乗る予定の電車がやって来るまではあと数分あるらしい。
「そうだ。浅岸、今日も日本史の先生に呼び出されてましたよ」
構内のガラス越しに映る秀那の横顔は、化粧をせずともそれだけで綺麗だと思う。艶のあるストレートの黒髪、寒さのせいか上気したように染まった頬は愛らしい。赤い唇は色付きのリップクリームを塗っているのだろうか、彼女の白い肌によく映えている。来世があるなら、秀那のような顔に生まれたい。とても楽しい人生になりそうだ。
秀那自身、性格もさっぱりしているし、勉強だってよくできる。脚さえこんな状態でなければ、なんて不躾なことをつい考えてしまうのは、きっと祈里だけではないはずだ。もちろん、一番悔しい思いをしているのは秀那だろうが──「先輩?」
は、と顔を上げると同時に、ポーン、と軽快な音が鳴って目の前の扉が開いた。どうやら祈里たちの乗っているエレベーターがホーム階へと到着したらしかった。
いつの間にエレベーターに乗り込んでいたのだろう、と驚いていると、こちらを振り向いて心配そうな顔をしている秀那と目が合った。
「大丈夫ですか、やっぱり今日は真っ直ぐ帰った方が」
「いや、ごめん。ちょっと考え事してた」
「……浅岸のことですか?」
秀那の目が細められて、に、とその口角が上がる。冗談めいた口調だ。
否定するのも面倒で、祈里は「そう、だよ」と下手な笑みを浮かべながら返した。ヒナちゃんのことを考えてたんだよ、なんて、本人を目の前にしてとてもではないが言いたくなかった。
「浅岸、どこの大学目指してるって教えてくれないんですよね。県内か、隣県のどこかだとは思うんですけど」
溜息混じりにそう言う秀那に、そうなんだ、と祈里は硬い声で返す。肩にまで力が入ってしまいそうになるのは、きっと寒さのせいだ。
「先輩も、連絡くらいすればいいのに。後悔してからじゃ遅いですよ」
秀那も蓮と同じことを言う。それに祈里は曖昧に微笑んだ。秀那も、祈里の恋を応援してくれている一人だった。
ちなみに、五月の佑弥の試合のタレコミをしてくれたのもこの秀那である。
秀那と佑弥はクラスこそ違うものの、幼稚園からの幼馴染みらしく、たまに顔を合わせては軽く話をする程度の仲なのだそうだ。内緒ですよ、と幼稚園の卒園アルバムを見せてもらったこともある。幼い佑弥も、もちろん秀那もとびきり可愛かった。
「でも、いま忙しいでしょ? センターとか目の前じゃん」
「まあ、そうなんですけど……」
祈里は電車の一両目、一番扉が来るであろう位置で車椅子を押す手を止めた。いつも通りならこのポジションに乗務員がいて、秀那のためにスロープを設置してくれるはずだった。秀那も何も言ってこないから、今回もそれで合っているのだろう。
「じゃあ、受験が終わったら誘うんですね? どうせあいつ私立しか受けませんよ、部活バカで今まで勉強なんてしてなかったので。一緒に夢の国でも行ってきたらどうですか?」
「……気が向いたら、ね」
幼馴染みだからか遠慮がないなと、笑いながら祈里は言った。そこは向けてくださいよ、と秀那も苦笑する。
夢の国は少々ハードルが高いが、映画くらいなら誘ってみても良いかもしれない。自分のことでもないのにどこか楽しげな秀那を見ながら祈里はそう思う。
そんな話をしているうちに、アナウンスが電車の到着が間もないことを知らせた。近くの踏切の遮断機が降りる音がする。
「祈里先輩、今日はありがとうございました。お家に帰ったらちゃんと暖まってくださいね。試験、頑張ってください」
「ヒナちゃんも、大変だろうけど……頑張ってね。気を付けて帰るんだよ」
はい、と笑って、秀那が電車に乗り込んでいく。乗務員と目が合って、祈里はそれに会釈をした。閉じていく扉の向こうで秀那が手を振って、祈里もそれに振り返す。
電車が走り去っていって、強い風が吹いた。くしゅん、と誰もいないホームに祈里のくしゃみの音が小さく響いた。