1  遠い国のかみさまのこと

 運命の赤い糸。そんなものはあるわけがない。
 大体、運命なんて言葉は胡散臭いものだ。愛する人と結ばれたくて堪らない、夢見がちな誰かが勝手に作り出した幻想に過ぎない。
 生涯の中で、幸福や不幸を受け取る運命は、人の力を越えたところであらかじめ決まっている、なんて言葉を聞いたことがある。
 でも、そんなことはあり得るはずがない。もしもあらかじめ決まっているとしたら、大して努力もしない人間が成功を収め、一生懸命上を目指す人間がどこかで地に落ちてしまうなんて悲劇があり得ることになる。現に、実際の世の中はそうなっていないし、自分の選択した事柄が、幸福や不幸に形を変えて返ってくるだけに過ぎない。努力をしない人間はそもそも評価されていないだろうし。

「……そこで、不思議に思った女は、男の袖口に糸を縫い付けた。男が帰った後にその糸の先を辿っていくと……」
 疲れも溜まる六時間目。つまらない古典の授業中、国語教師が「赤い糸伝説」を話し始めて早十分が経過した。珍しく教室が静まりかえっているが、眠気に負けている人間がほとんどなので、真剣に話を聞いている人はいないだろう。
 教師が熱弁する「赤い糸伝説」というものは、とある一人の乙女が素性も知らない男と恋に落ち、どこで何をしている人なのか気になった女が男の服に糸を縫い付けると、それが神様の宿る森まで繋がっていた、という話らしい。話をぎゅっと要約すると、その女は神様と恋をしていた、ということだ。ただのくだらないおとぎ話だ。
「神様と恋をしていた」。たったそれだけの理由で、勝手に運命と解釈するのはどうなのだろう。それに、そもそも素性も知らせない男など信用できない。だから、こんなフィクションだらけの物語は興味をそそられることなんてなかった。それなのに、こんな馬鹿げた話をキラキラした目でできるこの人は、やっぱり世間から感覚がずれているんじゃないかとも感じる。
 いつしか母が、「教員なんて変な人ばかりよ」と愚痴を漏らしていたのを思い出す。小学校時代の担任の中に、とびきり変な先生がいたらしい。私は、私のことを丁寧に扱ってくれる人が大好きだったので、母が嫌いな担任というのはいったいどの学年の先生だったか知らないし、そんなことどうでもよかった。でも、中学生になった今なら、母の言う「変な担任」のことを見破ることができるかもしれない。
 変な国語の教師が熱弁する「赤い糸伝説」は、今授業でやっている内容とはまるっきし外れているので、当然テストに出るわけもない話だ。そんなことよりも、この溜まりきった教科書の内容を早く進めてほしいと、思わず貧乏揺すりをする。こんな無駄なことに時間を費やして、年度末になって駆け足で進むなんて事態になったら恨むからな。そう思いながら、全く進まない授業にイライラする。
 私は古典という科目にあまり面白みを感じない。文法を押さえればテストの点数はとれるのでとても楽だけど、物語の内容が現実離れしすぎていて好きではない。どうして昔の話はあり得ないような空想とか、神様のこととか、そういう非現実的なものが多いのだろう。現実をみていてはやりきれない何かがあったのだろうか。もしそうだったとしても、やっぱり私にはまったく理解ができない。そんな内容を生き生きと話す先生に温度差を感じ、ますます古典との距離が広がっていく。
 冷める気持ちとは裏腹に、教卓の方ではさらに話が白熱し、しまいには板書まで始めてしまった。こんなのをノートにとったって、テスト前に見返したときに訳が分からなくなりそうだ。ノートにとるフリをして、隅の方に「みわくん」と一言落書きをする。ノートを見返したとき、くすりと元気をもらえるかなと思って。
「みわくん」という四文字の並びは、ただひらがなを組み合わせただけのものなのに、これだけで私を元気にさせる。みわくん。みわくん。わたしだけのみわくん。

 左斜め前の、窓側から二番目の列。思い浮かべた人物をちらりと盗み見る。授業の中の八割くらいの時間は、彼の後ろ姿を眺めるために費やされている。特別大きいわけでもなく、小さいわけでもない背格好の彼は、机に目を落としたまま、ただただじっとシャープペンシルを握っている。
 三輪秀次という男は、頭のてっぺんからつま先まで余すことなく魅力に溢れていて、かつ、私の心をつかんで離さない人だ。四六時中考えてしまうくらい、飽きることなく私の琴線に触れ続け、どうしようもなく愛おしい気持ちにさせる。そんな三輪君の隣が許されるのは、この世界中で私ひとりだけだと思っている。
「三輪秀次」という名前の並びは、漢字の見栄えはもちろん、語感の響きさえも完璧で非の打ち所がない。だけど唯一気がかりなことは、私の下の名前である、桔梗という言葉の響きと名字とあまり合わないことだ。三輪桔梗。確かに居そうな名前だけど、発音するときに口がモニョモニョするし、今の名字に比べるとしっくりこない。いっそのこと、三輪桔梗になるよりも蛇石秀次になってもらった方が、なんて考えていると、私の頭の中の三輪君は大袈裟に拒否をした。きっと、本人に伝えたら耳を真っ赤にさせて、「まだそんな話は早いだろ!」って怒るんだろうなあ。「まだ、って何よ。三輪君も、私とずっと一緒に居る気満々じゃん」って、私はからかいながら笑うんだろう。

「次回の授業は今日の続きからやります。資料集を忘れないように」
 教師の話を強制的に終わらせるチャイムが鳴り響いて、やっと五十分の長い授業が終わった。終盤は三輪君のことを考えていたから、いつの間にか時間が過ぎ去っていてラッキーだったな。
 今日もいつもと変わらない一日が過ぎていく。机にみっちり入っているノート達を取り出して、お気に入りのチャームがついたスクールバッグの中に詰め込む。向きを揃えて丁寧に入れれば、気持ちもすっきり整う気がする。
 支度が終わったクラスメイト達が各々の時間を過ごす中、三輪君の席の方向をちらりと見る。でもそこに三輪君の姿はなかったので、少しがっかりしてしまった。代わり映えのしない退屈な毎日を彩るのは、やっぱりあの人しかいないのに。飽きるほど見ているその姿も、何度見たって見慣れることはないし、できるだけ視界に留めておきたいとすら思う。
 かったるそうな担任が教室へ入ってくる。やっと長い長い一日が終わった。下校はいつも通り三輪君と一緒だ。つまらない繰り返しの毎日を送っている私の、かけがえのない大切な時間だ。

「ねえ三輪君、国語の時間何考えてたの?」
 秋空の下、私に合わせてゆっくりと歩いている隣の彼に問いかけた。そろそろ半袖の制服が肌寒くなってくる気候だ。
 私は学ランを着ていたころの三輪君の記憶がほとんどない。三輪君の透けるように白い肌は、さぞ学ランの黒に映えるんだろうなあと、今から衣替えの季節を想って浮足立ってしまう。
「え? 何って、授業のことだけど」
「ちがーう! 先生が赤い糸の話してたとき!」
「……あー、あれか。あんまり聞いてなかった」
 ちょっと気まずそうに視線をそらしながら三輪君は答えた。先ほどの、左斜め前にいた後ろ姿を思い返す。
「ふふ、やっぱり。私後ろから三輪君見てたけど、下向いたまま動かなかったもん」
「……勝手に人のこと観察するな」
 そう言って、三輪君は少し恨めしそうな顔をする。分かったよ、なんて口先だけで答えたけど、それだけは約束できないなあ、と心の中で呟く。だって、三輪君を視界に入れない生活なんて、味気なさ過ぎてつまらないんだもん。
「ねえ、三輪君はああいう伝説信じるタイプ?」
「全然」
「あはは、私と一緒。『赤い糸で繋がってるよ』なんて言われたら一瞬で冷めるから、三輪君がそういう人じゃなくてよかった」
「……そんなの言えるわけないだろ」
「でも世の中には居るんだよ、そういう気の知れない人が」
「……そうか」
「そうなの」
 私は頭の中で、三輪君がキザな台詞を言っているのを想像してみる。『もう離さない』? 『一生守る』? あ、『一生守る』って言葉、確か最近言われた気がする。何だ三輪君、言えるわけないって言っておきながらちゃっかり言ってるんじゃん。
「……ねえ三輪君」
「何」
「手、繋いでもいい?」
 三輪君はその場で立ち止まったので、私も数歩遅れて立ち止まる。二歩分空いた距離を埋めたのち、彼は肯定の返事の代わりに、ズボンのポケットから左手を取り、こちらに差しだした。そこにすかさず右手を絡ませると、止まっていた三輪君は静かに歩き出した。
「ふふ、赤い糸なんかよりこっちの方がいいよ」
 三輪君の手は少し冷えていたけど、とてもあったかく感じた。きゅっと握り返すと、三輪君は控えめに握り返してくれる。すぐに切れてしまう糸なんかよりも、こうやって手の平の温度を感じながら繋がっていた方がずっといい。
 ゆっくりと、自分の小指を三輪君の小さな小指に絡みつける。三輪君は指がそんなに長くない。手の平は私よりも一回り以上大きいけど、指の長さだけなら私が勝っている。ちょうど手を合わせたら同じ長さになるくらいだ。
何も考えずに手をすりすり触っていると、それを何かの合図だと思った三輪君が突然そわそわしはじめた。ああ、ごめんごめん。そう思って手を放そうとしたけど、そんな顔を見てしまったら大人しく家に帰れるわけないじゃない。私はいつも立ち寄る公園の方向へと手を引っ張って、少しだけ歩く速度を速めてみた。三輪君は黙って歩いてる。

 ふと上を見上げてみると、想像しているよりも空が高くてくらりとした。
 秋の空は一年間で一番薄い水色をしている。たしか御空色と言うんだっけ。小さい頃、一緒に歩いていた母が言っていたような気がする。
 御空色は、人を寂しくさせる力があると思う。だからこんな空の日は、大好きな人からの愛情がたまらなく欲しくなる。人気のない公園で、静かに三輪君と私の間にある距離を詰めた。言葉以外の方法でも、私が抱えている大きな気持ちを伝えるために。

◇ ◇ ◇

 窓から吹く風が、お風呂上がりの体に染みて気持ちがいい。冷暖房も何もいらない、この季節が私は好きだ。外からは季節の変わり目特有の匂いがする。
 ベッドの真ん中に腰かけ、柔らかいマットレスに体重を預ける。無機質な呼び出し音が耳の中で響き渡るなか、私はあの人のことを考えていた。
『……もしもし』
「あ、三輪君。今日はお疲れ様」
 何度目かのコールの後、ボソボソとした男の子の声が聞こえてきた。耳元を掠める心地よい音。三輪君の声は高すぎず、低すぎず。騒がしい所では通りにくい声質だけど、そこもまた愛おしいのだ。
『ん。ありがとう』
 きっと今の三輪君は、部屋の中でしずかに笑ってるんだろうなあ。声色だけで情景が想像できて、思わずにこりとする。
 今日の三輪君は、「仮入隊」という制度のため、放課後はすぐにボーダー本部へ向かっていった。仮入隊というものの自体を知らなかった私は、朝三輪君に説明してもらって初めて知った。
 彼の説明によると、仮入隊というものは、隊員としての適性を見極めるとともに、ボーダーでやっていける覚悟があるかどうかを本人に判断してもらう、という期間らしい。三輪君は何か覚悟したような、そんな硬い表情で話してくれた。
「今日は何してたの?」
『一人一人面談してから、それぞれに合った武器を提案された。今日はその使い方を教えてもらった』
「へえ、なんか軍隊って感じだね。三輪君はどんな武器を提案されたの?」
『刀みたいな武器』
「ふうん」
 確かに、三輪君は球技っていうよりは、武道とか剣道の方が似合いそうだもんなあ。体育で剣道をやっているところは見たことないけれど、頭の中の三輪君は結構様になっていた。
「私も戦ってる三輪君見たいなあ」
『残念だけど一生見れないと思う』
「え。ボーダー外では変身できないの?」
『まだ正隊員どころか訓練生でもないし』
「じゃあ昇進楽しみにしてるね」
『お前な……』
 三輪君は、やれやれ、とでも言いたそうに溜息をついた。だって、好きな人のことはなんでも知りたいじゃない? なんて返したら、三輪君はまた呆れるんだろう。でも、内心喜んでるってことくらい私には分かってるよ?
 でも、その仮入隊とやらには、一体どのくらいの女の子がいたんだろう。三輪君はその子たちと話した? なんて聞いてしまうのは負けな気がしてやめた。だってそんなの、自分に自信がない人が言う台詞みたいじゃない。

「なんと私は今日ね、珍しく庭の手入れを手伝いました」
『おお。蛇石の母さんと?』
「そう。三輪君いないと暇すぎて退屈だったからね。あの人すごいんだよ。所狭しと鉢植えを置く癖があるの。それで、枯れた鉢植えは早々に植え替える」
『確かに玄関いつも綺麗だもんな』
「それでね、あの人ひどいんだよ。せっかく手伝うって言ったのに、私が触ると変になるからって、水やりしかさせてもらえなかった」
『……プッ』
「あ! 笑った!」
『だって……フッ……。いつも何でもできるお前も、母親の前では無力だな』
「私だってやろうと思えばできるはずなんだからね。できない訳じゃないよ」
『それは失礼した』
「よろしい。失礼されました。……あははっ、おかしい」
 三輪君と話してると自然と口角が上がってくる。三輪君の環境が変わっても、こうやって繋がっていられるから大丈夫。だから、何の問題もない。
 三輪君の言葉は私の中にすっと入っていく。どんどんと三輪君だけ吸収していくスポンジみたいだ。むしろ、そんなスポンジになってしまえたらいいのに。むくむくと膨れ上がって、三輪君に呆れられるくらいまでの大きさになりたい。こんなことを言っても、また馬鹿なことを言ってると思われてしまうだろうけど。

 夜はどんどん更けていく。明日の朝また会えるというのに、電話を切るのが名残惜しくなってしまうのは何でだろう。夜更かししていることを家族に悟られないように灯りを消して、暗闇の中で電話音を堪能する。
 いっそこのまま意識を手放してしまって、朝まで三輪君と繋がっていたい。