2  眦(まなじり)のスパンコール

 あーあ、味気ない。つまらない。かったるい。
 先ほどから連発したおかげで、すっかりあくびも出尽くしてしまった。
 数学の授業だというのに、相変わらず馬鹿でかい体育教師の声が教室中をこだましていく。あまりのうるささに数学教師の話も中断され、換気のために開けていた窓をクラスメイトたちが続々と閉めていく。運動場と教室は結構な距離が離れているはずなのに、あの筋肉馬鹿の声はどこにでも響き渡る。まったく、とんだ授業妨害だ。
 今日の私はいつもよりやる気が出ない。その理由は、斜め前にぽつんとできた空席が物語っている。
 三輪君がいないだけで、気の抜けた私の背中は自然と丸まり、窮屈に閉じていた足の間も自然と開いてしまう。だって、三輪君以外の人間は全てじゃがいもに芽が生えたしょうもない物体にすら見えるんだもん。そんなじゃがいも達にどう思われたっていいし。
眠たい瞼をこすりながら、まだまだ終わらない授業たちに辟易とする。教室中の窓は閉まっているというのに、運動場から「あと一周!」と叫び声のようなものが聞こえてきた。そんなに張り上げなくても、外にいる人は全員聞こえているだろう。ただの騒音にしかならないからさっさとやめてほしい。
先程から時計の針は一向に進まない。とっとと授業を終えて、早く愛しの三輪君に会いに行きたいのに。

 三輪君の欠席の理由はあらかじめ聞いていた。
 なんと本日、三輪君はボーダーへ正式に入隊をするのだ。まあ、入隊式といっても、もうすでに仮入隊で何度かボーダー本部へ通っていたから、彼にとってはそれほど大きなイベントとは捉えていない様子だったけれど。
 入隊式は午前中なので、今日は学校を休んでそっちへ行っている。偶然にも今日は午前授業のため、私が家に着いた頃にちょうど入隊式も終わるはずだ。ちょうどこの時期に教育相談をセッティングしてくれた学校に感謝しかない。
 そんな偶然の重なりのおかげで、午後にまとまった時間を取ることができた。せっかくだから三輪君のために何かしてあげたいと思い、私は悩みに悩んだ挙句、「入隊おめでとうパーティー(仮称)」をサプライズで決行することにした。といっても、私の家には一日中母が居座っているので呼ぶことはできないし、三輪君の家だと準備する時間が十分にとれない。手の込んだサプライズでもやりたかったけど、現実的に考えると厳しい。理想と現実の折り合いをつけたところ、今回は少し妥協して、手作りケーキで祝うのみにした。それだけでも、三輪君を祝うという第一目標は達成だ。
 これからのことを考えただけでついつい口角が緩んでしまう。さすがに授業中に変な顔を晒すわけにはいかないので、他の人にはばれないように頬杖がてら口元を隠す。教室では、すでに聞き飽きたような数学の公式が黒板に書き出される。カツカツ音を立てながら、どんどんチョークは擦り減っていく。チョークの粉は砂時計みたいにどんどん積もり、浮き足立つ私に対して時間の経過を知らせてくれるのだった。

 昨日の夜はパーティの準備のために、それはそれは密度の濃い時間を過ごすことができたのだ。昨日一日の頑張りを誰かに褒めてほしいくらいだ。フルーツ缶詰の売り場が見つけられなくて路頭に迷ったり、生クリームは植物性と動物性どちらがいいかで延々と悩んだりもしたが、買い出しも無事終えて帰宅をすました。
 家に帰ってからは、誰にも見つからないように母のいない時間帯を狙って作業をしていた。ちょうど洗濯物干しが終わった母と鉢合わせたときは鳥肌モノだったが、意外と淡白に「何しているの?」の一言だけ話しかけられてほっとした。三輪君に渡す、なんて口に出せるわけもないので、「いつもお世話になっている子に渡す」という嘘で取り繕った。もっと干渉されると思ったが、母は「ふーん」と興味なさそうに二階へ上がっていき、なんとかその場を乗り切ることができた。いつも過干渉な母にしては珍しい「ふーん」という返事にも引っかかったけど、そのときの私はそんなことを言っている余裕はなかった。黙々と手を進め、ようやくケーキ作りはほとんど終盤に差し掛かる。三輪君、喜んでくれるかなあ。そんなことを考えながら幸せな気分になったりもした。
 夜中にケーキ作りなんて、なかなか可愛いことするじゃん私。一緒にケーキを頬張る二人を想像しながら、ダマひとつなく混ぜられた完璧な液体を型へ流し込み、あとはオーブンに任せて寝る支度に入った。。
 そうして就寝直前に出来上がったケーキは、蛇石家の冷蔵庫の中で日の目を見るのを待ちわびている。入隊式が終わったら連絡をくれると言っていたから、メッセージが来てからパーティーの準備をすれば間に合うだろう。

 学校から無事帰宅した私は、直ぐに制服をハンガーにかけて自室へ駆け上がった。時間の経過とともにぺたんこになった前髪を直すべく、寝癖直しスプレーを吹きかけてドライヤーを当てる。
 せっかく三輪君と会えるのだから、今日は久しぶりにお気に入りのワンピースを下ろしちゃうかな。ああ、三輪君から連絡が来る前に身支度を完璧にしなくては。午前中はあんなに時間が経つのが遅かったのに、今は一分一秒が惜しいくらいに感じる。髪の毛のセットを終えた後、クローゼットに手をかけ、深緑色のワンピースを探した。

 ブー、ブー、ブー。ずっと待ちわびていた振動の音を耳にし、私は即座に携帯を手に取る。三回のバイブレーションは三輪君専用だ。そろそろ入隊式終わったのかなあ。そう思いながら携帯をぱかりと開く。

【ごめん、すぐ帰るつもりだったけどやることができた。今日の約束はまた今度でいいか】

 無機質な文字の羅列を目で追いながら、ひどく気持ちが沈んでいくのを感じた。
 やること? また今度? その文字を一目見ただけで思考が停止し、おもわず瞬きを繰り返す。何それ、意味が分からない。
「……は? ケーキだめになっちゃうじゃん」
 返信してしまえばそのことを受け入れなくてはいけない気がして、メールを既読したまま放置し、携帯をベッドへ投げ捨てた。白いシーツに沈み込む携帯電話を見て、このままメールが消えてなくなってしまえばいいのに、とも思った。あーあ、私、今日三輪君と過ごせるの、すごく楽しみにしてたのに。
 携帯を投げたせいで皺が寄ったベッドを眺めながら、出会った頃の三輪君を思い浮かべた。三輪君は、宇宙人の侵略(三門のことを知らない人にはこの言葉が一番通じるのだ)があった後から、ずっと学校に来られずにいた。そこからなんだかんだあって、私たちは思いが通じ合い、ずっと一緒に居られることになった。そして、三輪君が学校へ来るようになってから、たくさんの時間を過ごすことができたのだ。そう、できたんだけど、最近はボーダー関連の出来事に塗りつぶされている。
 仮入隊だって最初のうちはよかった。段々と回を重ねるごとに電話する頻度も減っていき、何をしているのかすら教えてくれなくなった。二人で過ごせる時間も勉強くらいしかなくなったけれど、三輪君は疲れていることが多いし、そもそも家にいないことも多くなった。したがって、学校以外で会う機会は、出会った頃よりもうんと減ってしまった。
 そして、最近は三輪君と過ごしていても、からっぽの時間がどんどん積み重なっていくようにも感じてくる。ボーダーに入ることは、彼の人生において必要事項なんだろうけど、ここまでして他の生活を犠牲にする必要はあるのかは疑問だ。お姉さんのことはもちろん三輪君にとって大事なことだけど、私はそれよりももっと、目の前の私に目を向けて欲しい。
 でも、もしそうやって伝えたとしても、また私がガーガー畳みかけるだけで、三輪君は何も言わずに俯いてる未来しか見えなくて、何とも報われない気持ちになる。
 好きだけど、大好きなんだけど、何だかなあ。うまくいかない。
 ワンピースを探す気も無くなった私は、その辺にかけてある適当なTシャツと部屋着のズボンを履いて、また一つ大きなため息をついた。

 今日のために用意していたチョコケーキは、生クリームとフルーツを贅沢に使ってしまったので、あんまり日持ちがしない。後日埋め合わせっていったって、その後日は一体いつになるの。そう思うとまたカチンときてしまう。
 このチョコケーキは三輪君に食べられることなく駄目になっていくんだろうな。そう思うと可哀想だから、せめて他の誰かに食べてもらおうと思った。

 珍しく母と話す気が向いたので、この可哀想なケーキを消費してもらうこととした。冷蔵庫で冷やしてあったチョコケーキを取り出し、きっちり6等分に分ける。我ながら見た目は上出来だ。まるでお店のものみたい。でもそうやって自分を鼓舞しても、食べてほしい人の手には渡らないんだからしょうがない。ああ、とめどなく湧き出てくるネガティブな感情を包丁で切り刻んでやりたい。
 チョコレート色のケーキに静かに包丁が沈んでいく。1個は私の分、もう1個は母の分。それぞれお皿に盛り付けて、母の元へ持って行く。テーブルの並んだリビングに入り、「お母さん」と周りに声をかけても何の反応も帰ってこなかった。珍しく母はリビングにはいないみたいだ。もしかしたら、今日は天気がいいから外で洗濯物を干しているかもしれない。
 ベランダへ出ると予想通り、真っ白な洗濯物に囲まれる母がいた。家の中だと言うのに隅々まで作りこまれた顔面は、まるで仮面が張り付いているみたいだ。
「ねえお母さん、昨日のケーキ一緒に食べない?」
「ケーキ?」
 母に声を掛けると、私が最近話しかけたりしないからか、少し不思議そうな顔をしてリビングまで降りてきてくれた。
「これ、本当に桔梗が作ったの? 綺麗に出来てるじゃない」
「うん。これお母さんの分だから、食べていいよ」
「あら、じゃあお紅茶でも淹れましょう」
 母は手際よく戸棚からティーカップを二つ取り出す。ケトルに水をたっぷり入れ、ティーカップを温める用のお湯、紅茶に淹れる用のお湯に分ける。
 母はコーヒーよりも紅茶が好きだ。デパートから帰ってくるときは、いつも華やかな紅茶缶を連れて帰ってくる。そのため、戸棚にはいつも色とりどりの高級そうな紅茶が並んでいるのだ。勝手に飲むと怒られるので、これが飲めるのは母の気が向いたときだけだ。
 カチャリと音をたて、深紅色に染まった紅茶をテーブルに置く。静かに向かい合わせの席に座り、母が手を付けるのをじっと待つ。沈黙の気まずさは、全部紅茶が飲み込んでくれる。
母は控えめな量をフォークで手に取り、ゆっくりと口の中へ運んでいく。味はどうだろう。
「……うん。桔梗にしてはおいしくできたんじゃない」
「……口にあったようでよかった」
『桔梗にしては』。その一言が余分だけど、母に今更求めても意味がない。この人は、他人を下に下げることで自分を保っていられるような、可哀想な人だから。
 そんな哀れみの気持ちを浮かべながら、続けて私も手を付ける。小さく口を開け、しっとりした生地のそれを口の中へそっと置いていく。噛む度にチョコレートの香りが広がるが、冷蔵庫で冷やしすぎたのか、生クリームが固まってあんまりおいしくなかった。それに、甘ったるいだけで何か一味足りない。あんなに頑張ったのに、自信を持って「できた!」とは言えないような味だった。レシピ通りに作ったはずなのにどうしてなんだろう。湯気がたったあつあつの紅茶を流し込み、口の中の甘ったるさを中和する。
 うーん、この中途半端な出来のケーキは、今日三輪君にあげなくてよかったのかもしれない。もっと美味しいものが出来上がると思っていたから、なんだか肩透かしされたような気分だ。
 やっぱり、慣れないことはするものじゃないなあ。

◇ ◇ ◇ 

 真っ白なシーツの上。寝る前よりも少し皺の寄った、肌触りのいいそれに足を滑らせる。鳴り響くアラームの音が煩わしくて布団の中に逃げ込むも、その音の元凶を止める人は誰もおらず、数分粘った後にしぶしぶ布団から這いずり出た。
 時刻は六時三十二分。カーテンから漏れ出た光が鬱陶しい。早くベッドから出てしまえば支度なんてすぐ取り掛かることができるのに、なかなか頭のスイッチが切り替わらない。
 ああ、今日はもう休んでしまいたいな。
そんな言葉がふわふわと頭の中を素通りしていく。あれ、おかしいな。学校に行きたくない理由なんて思い当たらないのに、一瞬でもそう感じてしまった自分が不思議でたまらなかった。

 履き慣れた白い靴の踵を潰さぬようにそっと履き、家を出てすぐの曲がり角にいるであろう彼に会いに行くために玄関を開ける。
「三輪君、お待たせ」
「俺もちょうど今来たところだ」
 ぴったりの時間に着いたつもりだったのに、そこには塀にもたれかかる三輪君が既に待っていた。
 私に気づくと表情が和らぎ、まるでデートの始まりみたいな浮き足立った台詞を交わす。でもそれがデートみたいに見えないのは、お互いの制服姿と、三輪君の目の下に染み込む黒い隈、そして、うまく笑えていない不細工な私の顔が原因だった。
「ねえねえ三輪君。朝ニュースでやってたんだけど、今度隣町にショッピングモールができるんだって。知ってた?」
「へえ。知らなかった」
「なんか最近そういうの多いよね。人が集まるからとりあえず建てとけ〜、みたいなの」
「そうか?」
「……あー、三輪君はあんまりそういうのは興味ないか」
「まあ、どちらかといえば興味はないかも」
「……そっか」
 ああ、会話が宙ぶらりにぶら下がっていく。興味ない話かもしれないけど、明らかに話を展開しようとしないのもどうなのよ。
 三輪君はこの頃よくぼんやりしてる。今も私の顔を見ずに、川沿いに咲く黄色い花ばっかり見ながら話している。花に興味があるわけでもないくせに。
 もともと真っ直ぐ目を見て話すタイプではなかったけど、この頃はそれなんて比ではないくらい、どこか意識が遠くへ行ったような様子にみえる。私はそれが面白くなくて、わざと遅く歩いてみたり、どうでもいいような中身のないことをつらつらと話したりする。それでも、三輪君の気が引けるのはたった一瞬だ。
 一時的に気を引いたって、それは全く意味がないなんて私だってわかっている。何なら、三輪君がぼんやりしてる理由だって重々承知である。だけど、その理由が私の力でどうにかできるほど簡単なものではなかった。
 ボーダーにまで嫉妬しちゃうなんて、私も大概馬鹿かもしれない。
「……最近あんまり会えてないよね。そんなに長い時間ボーダーにつめてるの?」
「まあまあ」
「いつも何してるの?」
「やらなきゃならないことをやってる」
「そうじゃなくて、具体的に何してるのって聞いてるんじゃん」
 あまりに中身のない返答につい声が苛立ってしまった。いけないいけない、そう思いながら語尾を弱める。
「……蛇石に言ってもどうせ分からない」
 カチン。一度自分で消化したはずのイライラがふつふつと湧き上がってきた。
そうですか。私に言っても意味ないから言わないんですか。それ、本気で思って言ってる言葉なの? ねえ、三輪君にとっての私って一体何なの?
 頭の中ではすでに三輪君を責め続けている。私は今すぐにでも三輪君の肩を揺さぶって、何でそんなことを言うの、なんて怒りだしたいくらいだ。でも、今怒ったってどうしようもない。今の三輪君は余裕がないだけ。ただ余裕がないだけ。そう言い聞かせながら、道路に転がる小石を白いスニーカーで軽く蹴った。コロコロと力なく道路脇まで転がるそれが、とてもみじめに見える。
「……でもね、三輪君全然休んでないでしょ。体壊したらそれこそ意味ないよ。私は心配してるんだよ」
「だから、今やらないと意味がないことなんだって。そう簡単に休めない」
 ちょっとだけ力を込めた口調で三輪君が言う。その声を聞いた途端、やってしまったと押し黙り、自分が先ほど言った言葉を頭の中で反芻する。
 違う、私は三輪君を心配しているだけで、苛立たせたかったんじゃない。そうは思っていても、最近十分に会えずに淋しい思いをしたことも事実で、それをどうにか三輪君に伝えたいという気持ちにも嘘はつけなかった。
「……ごめん、今が大切な時だって分かってるつもり。いや、分かってあげたいの。でも、そんなの無理だよ」
 三輪君のことになると、自分でも珍しいほど余裕がなくなってしまう。こんな自分、今まで知らなかった。
「どうしてなのかな。私、三輪君と一緒にいたいって思ってるだけなのに。三輪君だってそう思ってるって言ったじゃん」
 三輪君が思いを伝えてくれたあの日は私を追いかけてくれたのに、いつの間にか私が三輪君ばかり追いかけている。
 もしも私がどこかへ行っちゃったら、今の三輪君は追いかけてくれるだろうか。それとも、どこかへ行ったことさえも気づかないだろうか。
 わざと三輪君が苛立つことをしてしまう。怒られる。でもまた繰り返す。怒られる。私だって三輪君を怒らせるのは嫌だ。でもやめられない。淋しくて仕方ないのだ。怒ってでも良いから、三輪君の瞳に私を映して欲しい。できるだけ長い時間、ずっと。
「……ごめん、今はそこまで考える余裕がない」
 三輪君は暗い目をしながら立ち止まった。追い込みたいわけじゃないけれど、湧き出てくる思いは止まらない。
「私から目を離さないでいてよ」
「……ごめん」
 ごめんって何なの。そう思っても、三輪君からは謝罪以上の言葉は返ってこなさそうだったので、私は喉底へ言葉を飲み込んだ。すっかり疲れ切った顔の三輪君は、私に言われるがまま、自分が何に対して謝っているのかすら理解していないような顔をしている。

 だって三輪君、私とずっと一緒に居たいって言ったじゃん。私を守るって言ったじゃん。
 それなのに今の三輪君は、守る手段であるはずのボーダーに気力を吸われてしまい、すっかり本題がすりかわっている。
 確かに、近界民を殲滅させるという彼の目的は尊重しなくてはならないと思うけれど、それでも私を守るって言ったんだから、もう少し頑張って欲しかった。私がこれだけ想っているだけの分、愛情を返して欲しかった。

 こんな気持ちのまま学校になんて行けるはずもなかった。学校までの道のりはまだあと半分ほどある。肩につきそうなほど伸びた髪の毛が風であおられる。まっすぐ正面に見える一方通行の標識が、私の瞳の中に鮮やかに映った。
「先に行ってて」と一言だけ伝え、少し申し訳なさそうにしながら遠ざかる三輪君の背中をぼんやりと見つめた。三輪君は一方通行の標識の前を通り過ぎ、どんどん遠ざかっていく。それほど大きくない肩幅も、今日だけはとびきり小さく見えた。少し可哀想な気持ちになるも、やっぱり許してあげられない、と頭を振るう。

 秋のすきま風が私の心を通り抜けていく。もう少し、もう少し休憩したら学校へ行こう。それまでに、三輪君とちゃんと話せるように気持ちを整えなきゃ。
 しかし、何度深呼吸をしてもなぜか胸が苦しくなるだけで、一向に心は休まらなかった。

◇ ◇ ◇

 遅刻ぎりぎりで滑り込むなんて、人生で初めてしでかした気がする。担任からは「疲れてるのか?」と声をかけられ、対して仲の良くない友人には「桔梗ちゃんが遅いなんて珍しいね」と心配された。こんな時だけ話しかけてくれるなと内心思いつつ、珍しく寝坊しちゃって、と曖昧に誤魔化す。三輪君はこっちを見ていたけど、私が目を配った瞬間にそっぽを向いた。
 それからも三輪君と話すのが気まずくて、今日一日中避け続けてしまった。向こうも私と話すのが気まずいということは行動からもよく分かった。こうなればもうお互い様だ。
 今日も三輪君は放課後すぐにボーダー本部へと向かったみたいで、帰りの挨拶の直後にはすぐ教室から出ていった。私はその後姿を教室から眺める。私と言い合いした後でも、三輪君は変わらずにそっちへ行くんだね。分かりきっていたことだけど、少し胸が締め付けられる思いがした。

 予定がなくて暇な私は、一人で家にいる時間を少しでも短くしようと、学校に併設されている図書室へ逃げ込んだ。最近私はよくここにくる。
 いつもはここで課題を終わらせてしまうのだが、今日はそれをする気にはなれなかった。ぶらぶらと本棚を回っていると、普段は絶対行かないようなある一冊の本が目に入り、思わず足を止めた。そこには『恋愛で悩んでいる貴方へ』というタイトルの本がぽつりと置かれていた。
 普段の私なら、こんな本を読む人の気がしれない、と悪態をついていたかも知れないが、自分の恋愛がすっかり手詰まり状態の今の私は、藁にもすがる思いで手を伸ばした。99%は信用できないような情報でいい。たった1%だけ、今の状況を打開する方法があれば……。
『押しすぎても意中の相手は逃げるばかりです。恋愛は程よい駆け引きが重要です。押して駄目なら一旦引いて、様子を伺うのがベストでしょう』
「恋愛評論家って一体何なのよ……」
 ペラペラ本をめくっても、書いてあるのは大体同じ事。愛され女子になるテクニックだの、これをすれば素敵な恋人ができる! だの、そこら中で見かけるような、ありふれたワードの温床だった。こんなことを羅列して本にするなんて、恋愛評論家なんてもの、なろうと思えば誰でもなれるのではないかと疑ってしまうくらいだ。
「あーあ、時間を無駄にした……」
 本と本の隙間に、先ほど手に取った恋愛指南書を押し込んだ。ああ、何にもならなかった。

 今、この部屋で同じ時間を共有している人たちは、今までの人生の中で、恋愛において悩んだことがあるのだろうか。こんなにも惨めな思いをして、もがいたことがあるのだろうか。
 私は、どうすればこの先飽きられずに、大好きな人が好意を持ったままでいてくれるだろうか。
 やり方なんて、本にも、インターネットにも、どこにも載っていない。私にはもう、どうすればいいか分からない。
 図書室の中でこんなに真剣に悩んでいるのはきっと私だけなんだろう。他のみんなは何かと順調そうに見えて、それが疎ましくも思えた。