お酒の匂いと酔っぱらい三輪くん
カタカタと、イヤホンの隙間から軽快な音が響きわたる。うるさいくらい鳴り響くキーボードの音も、一時間前と比べればだいぶ落ち着いてきたほうだ。しかし、画面の中にびっしり埋まる文字は膨れ続け、頭の中にはどんどん新しい言葉たちが浮かんでくる。このペースなら今日中に書き終わるかな。一息吐いて、すでに冷め切ったカフェオレに手を伸ばす。ふわりとコーヒーの匂いが鼻を掠め、思っていたよりもひんやりとした液体が唇に触れた。うん、ぬるいくせに甘ったるくて美味しくないなあ。そう思いながら顔をしかめた。
今週末に提出しなければいけないレポートを横目に、視線をマグカップの中へと移す。このカフェオレは三輪君が好きなだけで、私はそれほど好んで飲まない。スーパーに行くと三輪君がいつもカゴに入れる、お得用のスティック粉末になったやつだ。それを消費するのは三輪君しかいないけれど、彼がいない日だけ、無性にこれが飲みたくなってしまう。一口飲んだら満足するのだけれど、私の残り物をもらってくれる人はここにいないので、大人しく一人で消費するしかない。
三輪君はきっと今頃お楽しみ中なんだろうなあ。少し減ったマグカップの中身を見ながら、今頃どこにいるのだろう、なんて考えた。そんなに交友関係が広くない彼は、滅多に夜の外出はないけれど(ボーダーの仕事は別として)、今日は珍しくお友達との飲み会に出かけているので、私は一人お留守番することになった。たまには羽を伸ばしておいで、なんて送り出した私のことを誰か褒めて欲しい。そして、一人で過ごす時間を有効活用して、二人でいられる時間を大切にする。それが私たちにとっての最適解だと思い、今現在もせっせと文字の渦の中に身を投げ出しているというわけだ。
そろそろ休憩も終わりにするか、なんて思いながらゆっくりと伸びをし、再びキーボードへと手を伸ばす。ジャカジャカとイヤホンから鳴り響くメロディーの中に、再度キーボードのカタカタとした音が混じり合い始める。
すっかり画面に夢中になっていた私は、イヤホンの向こう側で聞こえる生活音なんて聞き取ることができなかった。
「わ、」
ふわりと黒い袖が視界に入り、がっしりとした腕が体にまとわりついた。反射的に体が強ばり、軽快に鳴っていたキーボードの音もぴたりと止まる。後ろを振り返らなくてもわかる。これは三輪君だ。それにしても、いつの間に帰ってきていたのか。鍵を開ける音にも気づかないくらい、私は自分の世界に入り込んでいたようだ。
私のすぐ後ろからは、いつもの彼からはしない、お酒と煙草と、少しのにんにくの匂いがする。
「びっくりしたよ。おかえりなさい」
そう言い、後ろから抱きついてくる三輪君の顔を見ようとした。でも、三輪君の顔は私の背中にぴったりと張り付いていて、どれだけ首を回しても見ることができない。心なしか息づかいも荒いような気がする。これは相当飲んできたんだろうなあ。三輪君のトクトクと鳴る心臓が、私の背中越しにも伝わってくる。
そういえば、湯船はもう沸かしたんだっけ。しばらく三輪君は帰ってこないかと思っていたので、お湯張りのことはすっかり失念していた。私も大学から帰ってきたまんまの状態だし、そろそろお風呂に入らなくちゃいけない。レポートが完全に終わってからお風呂に入るか、それとも今入っておくか。ぐるぐるとよそ事を考えているのに察したのか、酔っ払い三輪君は少しだけ腕の力を強めて、何やらもぞもぞと動いてきた。
「……へびいし」
「……なーに、三輪君」
ぼそぼそと、舌足らずの可愛い声が耳元で響く。ああ、こんな甘えたな三輪君の姿、他の人たちは見たのかな。でも今日の飲み会は旧三輪隊のメンバーだし、きっと隊長としてのプライドがあるだろうから、ギリギリまで我慢したのかもしれない。あのメンバー相手なら、今日みたいな酔っ払い三輪君を見ていてもギリギリ許してあげよう。
「三輪君、お風呂先入る? 湯船張ったかどうか見てこようか」
「……いい」
「いいって何よ。どうせお風呂入らなきゃいけないんだよ」
「……だから、いい」
「わっ……」
腕の拘束から離れようと体を動かした矢先、三輪君は私を抱きしめたまま、勢いよく床に倒れ込んだ。私よりも対角の良い人の力には勝てなくて、必然的に私もカーペットの上に転がる。酔っ払ってるくせに、なぜか今の瞬間だけは力が強い。
「ちょっと、もー……」
勢いが良すぎてそこら中が痛いんですけど。そうクレームを入れるべく、三輪君と同じ方向を向いていた私は、向かい合わせになるように体を回した。すると、すぐ目の前に切長の瞳が広がり、鼻と鼻がくっつきそうなほど近づいてしまった。半分くらい開いた瞼の間から、三輪君の赤い瞳が透けている。予想していた通り、今の三輪君の顔は締まりがない。
私、まだレポートもしなきゃいけないし、お風呂も入らなければならないのだけれど。一人で食べた夕食のパスタ皿も洗わなきゃいけないし、洗濯物もまだ取り込んでいない。
やらなければならないことは山ほどあるのに、この人の顔を見た瞬間、そんなものは全部吹っ飛んでしまって、全部投げ出してもいいかなあ、なんて気分になってしまう。床に漂う冷気がひやりとするけれど、三輪君に触れている肌すべてが、ただあたたかい。
「……しまりのない顔」
いつだって眉間に皺を寄せている彼だけど、今日ばかりは優しい顔をしている。まるで子供みたいな顔。ボーダーではシャキシャキと働いているというのに、家ではこんな幼い顔をしている。
「……三輪君、今日の私はカフェオレ味だよ」
意識がうつらうつらとしているであろう彼に、そっと言葉を投げかける。三輪君に届いたのか分からなかったので、私からひっそりと近づいてみる。そっと唇をついばむと、腰に回された手がぴくりと動いたのが分かった。
お酒臭いし、ムードもへったくれもないキスだけれど、私はそんなキスがこの世で一番好き。三輪君と交わすものなら、なんだって価値がある。でも、三輪君はきっと覚えていないんだろうなあ。そんなことを考えながら、三輪君の胸の中にすりすりと身を寄せる。
「……おやすみ」
三輪君の優しい言葉が頭上から降ってきた。おやすみなさい。また明日。手の届くところで毎日伝えられる幸せを噛み締めながら、そっと目を瞑った。
おやすみなさい。私の愛おしい人。