鼻血が出た三輪くん


 突然、鼻の奥にツンと痛みが走り、どろりと何かが伝っていくのが分かった。鼻水のようだけど鼻水ではないもの。これは、と思った時にはすでに鼻腔をものすごい速度で滑り落ちている最中で、背筋がひやりとしながらも咄嗟に鼻を押さえる。留まらずに流れる液体は鼻尖まで到達した後、ポタリとあっけなく落ちていった。間髪入れずに二粒、三粒とフローリングを汚していく。血痕が残った廊下をぼんやりと眺めた後、俺はその場で我に返る。これ以上床を汚してしまわないようにと、そのまま洗面所まで小走りで駆け抜ける。
「三輪君?」
 小鼻を抑えながら止血していると、後ろから馴染みのある声が聞こえてきた。突然の鼻血に気を取られてしまっていたのかもしれない。鏡越しに右隣の彼女へ視線をやる。すると、興味深そうな顔でこちらを凝視する蛇石桔梗の姿が見てとれた。
「鼻血が、」
 駄目だ、無理に喋ろうとすると血が口の中に流れてくる。喉にどろりとした液体が流れ込んだ後、口の中に鉄の味がじんわりと広がる。気持ち悪くなりそうだったので、そこで喋るのを中断した。小鼻を抑える右手には赤い液体が伝ってしまっているし、白色のトレーナーにもそこらかしこが赤く染まっている。くそ、最悪だと思いながら下を向く。何やら熱い視線を感じるけれど、鼻血が止まるまで俺は何もしてやれない。
「ふふ、鼻血見るのなんて何年ぶりだろ」
 能天気なことを言いながら、蛇石は洗面所から出ようとしなかった。こんなところを見ていたって何も面白くないのに、壁にもたれながら楽しそうにニヤニヤと笑っている。何か変なことを企んでいるような顔にも見えたので、こんな時に勘弁してくれという意味の視線を送ってみるが、彼女の前では何の効果もなかったみたいだった。
「ねえ三輪君、上を見て?」
「は、なんで……」
 上なんて見たら口の中に血が入るだろう。そう言葉を続けようとするも、それは彼女の行動でかき消された。鼻を押さえたままの顔を無理やり上に向かせるように、彼女の華奢な手のひらが顎先を持ち上げる。反対の手で頭頂部を抑えられてしまい、抵抗も虚しくそのまま上を向かされてしまった。何を考えているのかが全くわからない。そのうちに鼻出血は喉を伝い、口内へと流れ込んでしまう。血の味が広がり最悪の気分だ。反射で嘔吐きかけたところで、頭頂部をぐいぐい押してきた手は離れていく。そのまま下を向こうとしたのに、それを阻むように蛇石の顔が近づいてきた。
「……うっ、」
 まるで捕食するかのように、ぬるりと人間の温度が蠢いているのがわかる。鼻腔からは絶えず血液が流れる感覚がするし、小鼻を抑えていないとすぐにでも流れ落ちてしまうだろう。でも、このままじゃ酸素が足りない。頭がくらくらする中で息継ぎをしようと離れるも、蛇石はしつこく追いかけて逃がしてくれない。生理的な涙が出そうになった頃、彼女は唇を甘噛みした後、ゆっくりと距離をあけていった。はぁ、はぁと思わず息が切れてしまう。口元を流れる液体が血液なのか唾液なのか全くわからない。彼女の白い頬の上に、どろどろとした赤い血痕が残っている。
「……三輪君の血の味がした」
 口元に残った血溜まりを拭いながら、彼女はその場で不敵な笑みを浮かべた。蛇石桔梗という女はやっぱりネジが外れているのかもしれない。そう思わざるを得ない不可解な行動の数々に、思わず長いため息を漏らしてしまう。誰が血の味を確かめたいだなんて思うんだ。鼻血が出ているというのに呼吸を奪おうとするんだ。薄靄みたいに不快感が広がっていく中でも、彼女は表情を崩さず、瞳に熱を浮かべたままだった。
 そんな彼女に熱を持ってしまう自分も、もしかしたらどこかのネジを外されたのかもしれないなんて思った。

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