三輪くんに置いていかれたくない
私の心の中を写すような、真っ暗で分厚い雲が三門市上空を包んでいる。今にも雨が降り出しそうな天気だ。真っ直ぐ前を見据えれば、つい数日前まで戦場となっていた区域まではっきりと視界に入れることができる。
目の前の景色を現実に感じながらも、私の頭の中はいまだに現実から逃げている。ぼんやりとした頭で思う。もしもあの日がなかったことになれば、私はこんな惨めな気持ちにならなかったのだろうか。いつまで経っても、私は三輪君の頭の中にある「一緒に戦う人」という選択肢にはいないような気がして、分厚い石の壁のようなものを壊せないような気でいた。
全く人と会う気分になれなくて、こうやってボーダーに来ていても隊室やランク戦ブースに足は向かず、いつの間にか人気のない本部の屋上に辿り着いた。ここは三輪君が悩んだ時によくきている場所だ。今の彼に会いたいという気持ちは持ち合わせていないはずだが、ここに辿り着いたということは、心のどこかで会いたいと思っていたのかもしれない。まあ、あてが外れたようでここには誰もいなかったけれど。
本日何度目かのため息をついて、灰色の無機質なコンクリートに目を移す。雨でも降ってくれれば、三輪君は私を探してここにきてくれるかもしれない。だから、三輪君が今ここにこないのは雨が降らないせい。そんな無責任な空想に想いを馳せては、何も起こらないことを自分じゃない誰かのせいにしたがっている。絶対に解けない知恵の輪に対面しているような、どうにもならない問題に頭を悩ませているような、そんな気がする。いっそのこと全て手放してしまえたならいいのに。
「……蛇石先輩、ここは冷えますよ」
「……古寺」
急に男の人の声がして肩を揺らした。反射的に後ろを振り返ると、そこにいたのは、三輪隊の隊員でもある古寺章平という人物だった。こつ、こつと音を鳴らしながら、土埃色のブーツが規則正しく動いている。律儀に上までチャックが閉められた隊服は、今の私が一番見たくない色をしていた。頭の中に別の人物を連想したけれど、ここにいるのが彼ではないという事実が突きつけられ、思わず目をそらす。
「……別に寒くなんてない。トリオン体だし」
「……そうですか」
古寺は缶コーヒーをふたつ持っていた。右手に持っているそれはすでに封が開いており、そこからもやもやと湯気が立ち上る。古寺は冷やかしや同情を意味する表情をこちらに向けず、ただ真面目な顔をして私を見ていた。
「……三輪先輩、城戸指令のところに行くって言ってました」
「……そう」
心のどこかで「三輪君が探しにきてくれるかもしれない」と思っていた自分が粉々に砕けた。そう、三輪君はそういう人だった。三輪君は私だけを追いかけてくれる訳じゃない。だって、今回のことだって私に一言も相談してくれなかったんだものね。そのことを考えると、怒りを通り越してもはや呆れてしまうんだから仕方がない。こうやって、三輪君に勝手に期待して待っている自分にも、もう呆れてしまう。
「……おれは蛇石先輩が怒るのも無理ないと思います」
数秒だけ変な間があいた後、少し重たそうな口調で古寺はそう言った。そんな、他人に私の気持ちを理解されるなんてたまらないわ。心の中でそう吐き捨てて、ゆっくりと古寺の方を向く。私がじっと見つめている間でも、彼は決して顔を向けなかった。手に持ったふたつの缶コーヒーに目を落としながら、古寺も私と一緒に怒っているような顔をしている。そんな姿を前にして、わざわざ意地悪な言葉をぶつけなくてもいいか、と目線を緩めた。
特級戦功、A級7位部隊隊長、三輪秀次。そのことについて詳しく聞くまでの間、私は三輪君が風刃を使ったことはおろか、風刃が手に渡っていたことすら知らなかった。迅悠一が手放した黒トリガー、風刃。今までずっと手放そうとしなかったそれがこのタイミングで手放されたのは、今回の物語の結末が大きく関係しているんだろう。
「本当にたまらないわ。全部が全部、馬鹿みたいだもん」
自嘲気味に笑った私の声は力無く、ただ空間に溶けて消えた。それは隣にいる男以外の元には届いてくれやしない。すると古寺は相槌の代わりに、手に持っていた缶コーヒーをひとつ差し出してきた。最初から渡すつもりで持ってきただったろうに、ちょっと渡すのが遅いんじゃないの。なんて小言をいう気力もなく、差し出されたそれを黙って受け取る。買ってから時間が経っているだろうに、缶コーヒーは意外と熱を保ったままだった。
「古寺は三輪君が風刃をもらってたこと知ってた?」
「……知りませんでした。だからおれもびっくりしました。もし差し出されたとしても、三輪先輩が素直に受け取るとは思わなかったので」
ぼそぼそと、それでいて淡々とした声色で古寺はそう話した。全て喋り終わった後、私の返答を待たずに右手を上にあげる。ごくり、と喉仏が動いて、辺りに珈琲の香りが漂った。彼は私の方を向かずに真っ直ぐ前を向いている。緑色の眼鏡の中には何が見えているのだろうか。そんな古寺から視線を外し、私は本部下の警戒区域の方へ目線をやった。
「そうよね」
三輪君の目的は、近界民を倒すこと。ただの近界民じゃなくて、お姉さんの無念を晴らすことに何年も必死になっている。今まで間近で見てきたのだから、そのことは誰よりも理解できているつもりだった。
だから、大幅な戦力補強が見込める黒トリガーなんてものは三輪君にとってうってつけのものだろうけど、彼の性格を考えればそれを進んで受け取るとは思えなかった。けれど、現に三輪君は受け取っていて、さらにそれを利用している。三輪君が風刃を使ったという事実、それが頭の中で回り続けるだけで消化はできなくて、急に三輪君が知らない人みたいに見えてくる。頭の中の三輪君と、現実の三輪君がとった行動の齟齬が、いつまでも私を苦しめてくる。
「……古寺はさ、こんな大事なことを黙ってた三輪君のこと怒ってないの」
怒っていて当然だよね。私から出てきたものは、明らかにそんな意味を孕んだような声色になった。刹那、少しの沈黙が私たちの間に流れる。私はプルタブに右の人差し指をかけ、思いっきり手前に引いた。かぽ、と間抜けな音がした後、ワンテンポ遅れてゆっくりと湯気がわき立ってくる。ああ、そういえばこの匂いは苦手だった。
「……別に怒ってはないですけど、少し寂しいです」
その言葉を聞いた後、私は視線だけ古寺の方へ向けた。怒ってないけど、寂しい。私はてっきり、古寺は一緒に怒ってくれているんだと思っていた。だって彼はさっきまで置き去りにされた子供のような顔をしていたから。でも、今ここにいる古寺はさっきまでの表情とは違う。どうにもならないことに頭を悩ませる子供ではない。他人の気持ちを汲み取って消化しようとする大人の顔に見える。
「でも三輪先輩なら、何か考えがあったんじゃないかなと思います。それに、隊の存続に関わることなら、まずおれたちに言ってくれると思うから」
隊長である三輪君を心底信頼しているような台詞を聞いて、私は心と体が真っ二つに切り離された気がした。それ以上古寺の言葉を聞きたくなくて、思わず耳を塞ぎたくなる。何もかもが耳障りでたまらない。もう何も話さないでほしい。そう思ってしまうほど、古寺の言うことが信じられなかった。
古寺が信頼を寄せる三輪君の姿は、きっと私がよく知っている三輪君とは違うものだ。その事実を突きつけられ、どうすればいいのか分からない気持ちになる。
私のよく知っている三輪君は、昔から肝心なことは何も教えてくれない人だった。いつだって一人で考えて、一人で行動していってしまう。たとえ私のことを思いやって動いたことだったとしても、ちゃんと本人に説明もないままじゃ意味がないじゃない。何回でも、何十回でも口を酸っぱくして伝えてきたつもりだった。私は三輪君のことはなんでも知っておきたいし、三輪君の考えることは何でも理解してあげたいのに。そんな私のことを三輪君はいつも思い遣ってくれない。今回の出来事は、今までのものの比ではない。
「三輪先輩は隊を解散する気はないと、おれは信じたいです」
いっそ三輪隊が解散してしまえばいいのに、なんてことを思った。三輪君が隊員たちを見捨てて、上にあがってしまえばいいのに、とも。そうして、古寺の中に確立された三輪君をぶっ壊してやりたかった。ねえ、信頼していた三輪先輩が本当は全然違う人だったら、古寺はどんな気持ちになる? まあ、彼は他人の信頼を裏切るようなことはしないと分かっていたから、そんなことを考えたって意味がない。それすら悔しかった。
他人の頭の中に他人が解釈する三輪君が存在するなんて、私にとって不愉快だ。三輪君は、私の中だけに居ればいいのに。私の中だけに居てくれやしない三輪君に苛立ち、さらに私の嫌いな珈琲の香りが広がっていることにすら苛立ってしまい、わざとらしく咳払いをする。
本当、後輩にこんなことを思うなんて大人気ない。頭の表面でそう思っていても、奥底では真っ黒い感情が抑えられないからどうしようもない。何でこんな大切なことを隠されて、平気な顔で待っていられるんだろう。私だったら三輪君に見捨てられたって思うよ。自分なんて相談するに値しない存在だったんだって感じるよ。そんな気持ちにならない古寺のことが疎ましくて、だから傷つけたくてたまらなかった。
「……あっそ」
かろうじて持ち合わせていた先輩としてのプライドを引き摺り出して、これ以上きたない自分を見せないようにメッキをかけることにする。これ以上一緒にいたら、私は彼に何を言ってしまうか分からない。抑えのつかない気持ちのまま、彼をここから突き落としてしまうかもしれない。
「……蛇石先輩、おれ……」
「古寺、珈琲ありがと。私はもうちょっとここにいるから」
「……はい」
これ以上無様なさまを晒さぬよう顔に力を入れ、無理やり口角を上げる。心の中でシャッターをそっと下ろす。はい、これでおしまい。明日からは私もあなたに優しくできるし、こんな大人気ない面は見せないから。だから、お願いだから今は一人にさせて。
古寺は私の顔を見て、少しだけ苦しそうな顔をしながら、いつものように眼鏡に手をかけた。私の言わんとする言葉を汲み取ったように、素直に返事をした後踵を返す。その後ろ姿を見た途端、張り付いた笑顔が急に崩れた。ああ、本当に不吉な紫色だ。
大規模侵攻の前、迅悠一に言われた言葉を思い出す。「秀次を頼んだ」なんてことを言っておきながら、あいつはこの未来を選んだ。あいつの目には、今の私みたいに苦しむ蛇石桔梗の姿も見えていたんだろうか。
どうせあいつにとって私はただの駒だし、三輪君だって同様なんだろう。三輪君だって、そのことを分かっていただろうに、それでも駒として動いた。
私はどうせ何にも抗えない。何も変えられやしない。迅のような力も持ち合わせていないし、三輪君を私のそばに繋ぎ止めておくこともできない。その事実を突きつけられた気がしてくやしかった。
三輪君が、私の知らない三輪君に変わっていく。古寺の中に存在する三輪君。私の知らない三輪君。何もかも頭の中から消したくて、手に持っていた珈琲を一気に飲み干した。吐きそうな気持ちを全部抑えこんで、奥底で流れる鋭い嫌悪全てに蓋をした。こうでもしなければ、私は私を保ってられない。
ねえ三輪君、何も言わないまま勝手に行かないでよ。