飛行機雲が時間とともに消えていくように、なめくじの体が塩分に溶けていくように、世の中に溢れるすべてのものは、時間とともに形を変えていく。一度変化してしまったら、完璧に元に戻すことはむずかしい。馬鹿みたいに青い空を見上げながら、私はそんなことを考える。
南側から日差しが差し込み、机の上に白い影を落とす。カンカンとホワイトボードをならしながら、教卓に立つ男は長々と喋り続ける。黒板には細胞壁がどうだとか、浸透圧がどうだとか、高校受験で頻出する問題の解説が広がっている。濃度の高い溶液が低いものから水を引き寄せる力。今から遥か大昔の時代に、どこかの誰かが見つけた定義。それが世界共通の一般常識とされ、果てのない必修科目の渦の中にひっそりと漂っている。
ずっとホワイトボードを眺めているだけだと肩が凝るので、小さく伸びをしながら窓の外へと視線を寄越す。せっかく天気がいいんだから、このままここを飛び出して、どこか遠くへ行ってしまいたいと思った。窓の外から見えるのは大きな道路と、そこを行き交う車たち。バイクが重低音を鳴らしながら通過していくのをぼんやりと眺める。この車たちは目的地に向かって真っ直ぐに進んでいるんだろう。
外の世界は寒そうなのに、この教室だけは変な熱気に包まれていた。ガリガリと音を鳴らしながらシャープペンシルを滑らす人、大きな音を立てながら採点をする人。ここにいる人たちは、一体何を目指してこんなところで缶詰になっているんだろう。将来やりたいことのため? でも、そのやりたいことというのは、果たして本心からの言葉なのだろうか。
冬期講習なんてくだらないし面倒くさい。いっそのこと全部サボりたかったけど、欠席すれば親に連絡が行くのは予想される出来事だ。お金を出して貰っているのは事実だし、もしサボった暁には、家でみっちり説教されることも目に見えている。こんなところで面倒くさい種を増やしたくないから、つまらないことも我慢しなければならない。なんとも世知辛い世の中だ。
車を運転すること。お酒を飲むこと。働くこと。夜遅くまで外出すること。誰にも何も言われず、自分の好きなことをすること。大人になったらできることなんて、手のひらで数えられないくらい存在するだろう。でも、大人になってからでは遅いことだってたくさんある。中学二年生の冬なんて、人生で一度きりしかない。それに、中学二年生の三輪君と一緒に居られる時間だって限られているだろう。
【塾終わったら三輪君の家寄ってもいい?】
お昼休み、各々がお弁当を広げる教室の中で、私は三輪君にそうメールを送った。大してやりたくもない課題に追われ、一日中テストを消化してるくらい頑張ってるんだから、少しくらいの寄り道は許容して欲しい。
ふう、と一息ついて、私もお弁当を広げようと鞄をごそごそしていたら、ぶるると携帯が震えた。いつもは遅いくせに、今日は随分と返信が早い。画面を広げると、そこには【分かった】とぶっきらぼうな文字が並んでいた。無愛想だけど、きっと三輪君も楽しみに思ってくれてるんだろうなあ、なんて勝手な想像をする。
今日の講義が全部終わった後のご褒美に三輪君が待っていると思えば、これからのテストなんて簡単に乗り切れそうな気がしてくる。その場でちいさく伸びをして、小ぶりのミニトマトを口に放り込んだ。噛んだ瞬間ぐちゅりと漏れ出る液体は、まだ熟しきっていないせいか少しすっぱかった。
「……お疲れ様」
「三輪君! ありがとう!」
あれから燃えるようにテストに取り組み、やることをすべてやりきった私は、塾から一直線に三輪君の家へ向かった。家の中からオフモードの三輪君が出迎えてくれる。首元がよれたスウェットを着ているが、髪の毛はつるっと丸い状態で、寝癖はひとつもない。彼は私の顔を見るなり、優しく声をかけてくれる。
「今日は何してたの?」
「日中は本部に行ってた。さっき帰ってきたとこ」
「……もしかしてメール見て帰ってきてくれた?」
「たまたまだ」
三輪君は即答したけど、これはきっと嘘だ。彼が本部にいるときはいつも遅くまで帰ろうとしないし、日が昇っているうちに帰ってくるなんて珍しいもの。それなのに、三輪君はなんてことないような顔をして目を逸らした。気を使わせたくないのか、はたまた恥ずかしいのか。私はその両方だと思うなあ。心の中で呟きながら、にやにやと三輪君の顔をじっと眺める。
三輪君は、玄関、廊下、居間へとずんずん足を進めた。私もそれに付いていく。一日中座っていたせいか、足がなんだか浮腫んでいるように感じる。
「今日はどうしたんだ?」
「理由がなきゃ来ちゃ駄目?」
「……そういうわけじゃないけど」
「ふふふ、ちょっと意地悪言っちゃった」
ばつが悪そうな顔の三輪君を横目に、私はリビングのソファに座った。硬すぎず、柔らかすぎない灰色のソファは、部屋から浮くこともなくその場に馴染んでいる。このソファは、ひょっとしたら三輪君より周りに溶け込むのが上手かもしれない。
今日はおばさんもおじさんもお仕事みたいだ。この頃おじさんには会えていないなあと思い、少し寂しくなる。口数が少ないけれど穏やかであたたかい三輪君のお父さん。お父さんもここで息子と一緒にテレビを見たりするのだろうか。二人は一体何の番組を見るんだろう。大河ドラマ? 動物系? 並んでテレビに向かう姿を想像すると可愛くて、なんだか笑っちゃいそうになるな。
「……そういえば、ちょうど蛇石に報告があって」
「報告?」
にやにやしていたら、急に低い温度の声が入ってきてどきりとした。こんなに改まっちゃって、一体何の報告だろう。原因の種をぐるぐると頭の中で探してみたけれど、特に心当たりは見つからない。悪い報告じゃないといいけど。そう心の中で願ってみる。まあ、会ったときからの三輪君も暗い表情ではないから、そんなに悪いものではないんだと思う。三輪君は隠し事ができずに顔に出ちゃうタイプだし。
三輪君はちらりと私の方を見た後、電源の付いていないテレビの方へ視線を移した。そっと口を開く彼をただ待つ。
「ここ最近、ボーダーの規模が大きくなって、隊員数の母体がかなり増えてきているだろ」
「うん」
「そのこともあって、これからは部隊ごとのランク戦制度を始めることになったそうだ。俺は試作部隊として選抜された」
「は」
私の脳味噌が追いつかない中、三輪君は流暢に口が進んでいく。ランク戦に試作部隊。聞き慣れない単語が頭の中に飛び交ってチカチカする。選抜されるなんて、一体何がどうなってこうなったのか。頭の中を二周三周してみても、しっかり理解できずに消化不良を起こしている。
「えっと、待って。誰が?」
「俺が」
三秒前に聞いた衝撃の言葉たちが頭の中に並ぶ。ちょっと待ってほしい。これは予想もしなかった展開だ。確かに三輪君は順調に力をつけてきて、前までの危うさも少しずつなくなって安定してきているけれど。でもそんな、急にチームを組まされる展開になるとは思わないじゃない。上層部も上層部で、少しでもその話が出てるんなら私たち下々の隊員にも知らせなさいよ。ていうか、三輪君絡みの話なら個人的に全部タレ込んで欲しいのに。何をすれば横流ししてもらえるのだろうか。コネでもあったらまだ現実的な話になったのかもしれない。
「ちょっと待って……。何それ、初耳なんだけど!」
「俺も今日初めて言われたからな」
混乱をそのままぶつけると、冷静な様子の三輪君から返答が戻ってくる。確かに今の三輪君の様子を見るに嘘はついていなさそうだ。しょうがないので、私はここで押し黙る。
今日彼が聞いたことをすぐ私に伝えてくれるところにも、彼からの誠意は十分感じられる。責めるなら、着々と実力をつけてきた三輪君相手にするべきだろうか。ほどほどに力を抜いてくれれば目には止まらなかったかもしれないけれど、そんなのは三輪君とはかけ離れた行動だ。三輪君が三輪君である以上、今回の出来事は避けられなかったかもしれない。
「……メンバーは誰なの」
「東さんと二宮さん、加古さん、月見さん」
納得しない気持ちのままじゃしょうがないので、現実を受け入れるべく私も歩み寄る。すると、ぽん、ぽんと聴き慣れない名前が四つ並んだ。一番最初に出た「東さん」については有名人だからすぐ分かった。二宮さんって人もぼんやりとはわかるはず。
「……加古さんってあの人でしょ。顔が派手な人」
「そうだな」
「月見って人は男? 女?」
「女の人だ」
「え! やだ!」
「やだと言われても……」
三輪君は困ったような声でそう言った。そんな不服そうな顔をされても、嫌なものは嫌に決まってる。私の大好きな三輪君と他の女が過ごす時間が増えるなんて、それは由々しき事態ではないか。やすやすと三輪君の帰りを待っていられるわけがない。今から志願したら私も入れてくれないだろうか。もう少しだけ時間を貰えれば、今三輪君が立っている土俵に少しでも近づける……かもしれないのに。
「……一体どれくらいの時間拘束されるの」
「どうだろう。始まってみなきゃ分からない」
「えー、私と過ごす時間より長くなっちゃ嫌だ!」
「……」
別に三輪君が悪いことをしたわけじゃないけれど。それでも、どうしようもなく嫌な気持ちになってしまう。部隊で行動する時間がどれくらいか分からないけれど、私よりも長い時間を過ごすかもしれない隊員たちに、三輪君のいいところはひとつだって知ってほしくない。ただでさえ、ボーダー内では一緒にいられる時間が少ないのに。
私が我が儘をぶつければ、何もかもが変わる世の中だったらいいのに。そうすれば、三輪君だってずっとそばにいて、ずっと私だけに愛を送り続けてくれる。でも、そんなことを考えても所詮幻想は幻想で、心地いい世界に身を投じることは叶わない。思い通りにならない現実たちを、上手に消化していかなければならない。
「……じゃあさ、三輪君が隊に拘束されるのと同じくらいの時間、私に頂戴」
真っ暗なテレビの画面に私たちの顔が反射する。私は三輪君の顔を見ず、テレビの方を向いてそう伝えた。テレビに反射する三輪君は、私の方を眺めているみたいだった。でも、テレビ越しじゃ、彼がどんな顔をしているのかが分からない。
「……それは」
声にひかれて、ゆっくりと真横の三輪君を見た。ゆっくりと瞬きを三回繰り返す。割れ物みたいな綺麗な褐色の瞳だ。
三輪君の全部が全部を手に入れることはできないけれど。私の渾身の我が儘は、それを仕方なくわかってあげた上での言葉だった。私だって、与えられないことにただ駄々をこねるだけの子供じゃいられないのは分かっている。
「約束できないけど」
「……は!? なんで約束してくれないの!」
期待外れの返答に思わず声が上ずる。何その軽やかな返事。今の流れは頷かなきゃいけないやつだったでしょう。でも、こういうところが三輪君らしいから腹が立つ。
真面目な三輪君のことが好きで嫌い。その中でも特に、融通の効かないところがすごく好きでもあり、嫌いでもある。
「……でも、努力はする」
優しくてふわりとした笑顔が、彼の中で静かに咲いた。努力をするという言葉。それは言ったままの意味を持つのだろう。
優しい顔した彼のことをじっと見つめてみる。彼の顔はモデルみたいに整っている顔という訳ではないけれど、雑誌の中で見るどの男の子よりも、私は三輪君の顔が好き。薄い唇も、ちょっと不健康に見える血色も。三輪君の顔をじろじろ眺められる、この距離が好き。
「……ふふん。じゃあたくさんお出かけしよ。いつも家ばっかだったしさあ、たまには三輪君と外に出かけたいな」
「……遠すぎなければな」
遠すぎない場所って、三輪君の感覚ではどこまでが許容範囲なのかな。三輪君と行きたいところ。何気なく生活している時にはたくさん見つけられるけど、いざ改まって考えるとなかなか出てこない。
「三輪君と一緒に出かけるの、楽しみだなあ」
頭の中の私と三輪君は、手を繋ぎながら見慣れない道を歩いている。三輪君が自然と歩幅を合わせてくれて、二人でのんびりと足を動かす。それを想像するだけで胸がいっぱいになるのだから、これからの私はどうなってしまうんだろう。何処に行くとしても、そこが私たちの思い出の場所になることにはかわりない。
それにほら、中学二年生の私を堪能できるのも今のうちだよ? そう言って笑ってみせると、三輪君は呆れた顔でなんだそれ、と言った。蒲公英みたいに素朴な笑顔。その顔とまん丸い頭をみていると、胸がじんわりと温かくなる。
私ね、どこか外へ出かけたいって行ったけど、三輪君と一緒だったら本当にどこでもいいの。近所のコンビニでも、図書館でも、ボーダーまでの道のりでも。三輪君と一緒だったら、どんなに見慣れた場所でも特別なデートに変わるんだよ。
でも、三輪君が初めて行く場所に私もついていって、一緒の時間を共有したいとも思った。そうすれば、これから三輪君がそこへ出向くときには、必ず私のことを思い出すだろうから。あの日、私と一緒に出かけたな。それが一瞬思い浮かぶだけでいい。
そんな思い出を植え付けたいと思うことは、ひょっとしたら一種の呪いと同じなのかもしれない。母が私に植え付けたのと同じようなもの。でも、三輪君が私のことを忘れなければいい話なのだから。私はそう思いながら、一歩先を歩く三輪君の背中を一心に見つめていた。