鏡に向かって手を動かす後ろ姿を、幼いころからずっと眺めていた。そんな記憶を今でも持ち続けている。化粧品特有の香りが漂うドレッサーに、小さい頃の私は無性に憧れを持っていた。
私の目の前でお化粧をするその人は、私の母親でもあり、そして理想の女性像でもあった。形のいい唇に色が加わる瞬間を、まだかまだかと待ち望んでいたことを覚えている。まるで花が開く瞬間を待つような、そんなひととき。母のドレッサーは、子供の頃の自分にとって、まるで魔法道具のようだった。
私は母と同じように、鏡に映る自分の顔とにらめっこをする。瞼を閉じ、ビューラーで睫毛を挟む。目を開ければ、自然なカーブを描いた睫毛が出来上がっている。鏡の中に映る自分は、あの時の母のようになれているだろうか。目の前を見つめながら、ブラシについた余分なマスカラ液を丁寧にとった。
「三輪君に問題です。今日の私はいつもと違います。さてどこでしょう!」
「……は」
日曜日の昼下がり。誰もが気が抜けるその時間帯に、私は三輪君の部屋へ向かった。ドアを開け、開口一番に問題を出す私を見た後、ぽかんという擬音がこの世で一番似合う顔をして、目の前の三輪君は変な声を出した。今まで課題にでも取り組んでいたんだろう。勉強机にはノートが開かれている。
いきなりの来客といきなりの問題。そんな状況に三輪君は困惑していたけれど、目の前の私を上から下まで眺めた後、うんうんと唸りながら考え始めた。馬鹿げた問題でもちゃんと考えてくれるところなんて、三輪君の好きなところランキング上位に位置すると思う。
「……髪の毛か?」
「違いまーす」
「……靴」
「靴は玄関にあります。いつもと変わりません。履いてない状態で問題に出すほど意地悪じゃありません」
「…………じゃあ服装」
「これ先週も着てたよ」
「…………」
「もう、そんなに恨めしい顔しないでよ。分からないの?」
三輪君は手詰まりとでもいった顔で私を見つめている。早く答えを教えてくれとでも思っているのだろう。いつも一緒にいるのだからすぐ答えが出ると思ったけど、彼はやっぱり見た目の変化には気付きづらいみたいだ。普段から自分の身なりにも無頓着だし、他人のものなんてもっと分からないのかもしれない。仕方ないから、私から答えを出してあげよう。そう思いながら、勉強机に向かっている三輪君との距離を詰め、私の顔がよく見えるように近づいてみる。
「正解はメイクでした! ほらみてよ。いつもより睫毛がくりんくりんでしょ」
「……」
「ちょっと、目細めなきゃ分かんないの?」
分かりやすいよう人差し指に睫毛を乗せてあげると、三輪君は目を細くしながら眉間に皺を寄せた。まるでおじいさんが新聞の小さい字と格闘している顔みたいだ。本当に男の人って気がつかないんだね。そう言って笑ってみせると、三輪君はばつが悪そうに視線を逸らす。口を尖らせちゃって、まるで拗ねた子供みたい。
「最近マスカラ買ってみたんだけど、想像以上によく伸びてさ。ほら、目が大きく見えるでしょ」
「もともと大きいんだから、別にしなくてもいいんじゃないか」
「もう、女心を分かってないなあ。そこは『綺麗だね』って言ってあげるところだよ」
「……」
ほらほら、と睫毛の長さを再度アピールしてみたけど、三輪君は大して乗ってこなかった。三輪君の目元は涼しげだ。睫毛がびっしり生えている方じゃないけれど、そのさり気なさが上品だと思う。肌も白いし、化粧映えしそうな顔にみえる。
「ねえねえ、前ネイルしてあげたみたいに三輪君にもやってあげようか?」
「断る。……ていうかそれ、なんか目に入りそうだろ」
「全然入らないよ。可愛くしてあげるからね」
「ちょっと……おいやめろ!」
そう言いながらカバンの中を漁ってみせると、三輪君は焦った声で私を静止した。まあ、私もカバンにマスカラなんて入れてきてないんだけどね。全力で拒否する三輪君が可愛くて、ちょっとした演技をしてあげちゃった。私が動きを止めたことに安堵したのか、三輪君は椅子を机の方に向け、開かれていたノートをそっと閉じる。
「なにそれ。課題でもやってたの?」
「違う。今日東さんに教わったことを忘れないように書き留めてたんだ」
「ふうん……」
もう一度開かれたノートの中には、男の子らしい、少し崩れた文字がページいっぱいに並んでいた。部隊のちらし方の基本、敵を錯乱させるための手立て……部隊で学んできたことを文字に起こし、それを片時も忘れまいという努力をしているようだった。
こうやって努力を怠らない姿勢は素晴らしいし、三輪君らしいとも思う。けれど、三輪君は止まれと言われても自分では止まれない頑固さがある。もう十分努力しているのに、その次を求めて続けてしまうところとか。
「……ねえ三輪君。次のお出かけはいつがいい?」
「そうだな……。やることもあるし」
「やることって?」
「隊のこととか……。自分が足を引っ張ってるのは分かってるし、そっちにも時間を使いたい」
カチカチと、シャープペンシルのノック音が控えめに響く。やっぱり、そう言うと思ってた。前までの私だったら、自分との約束を後回しされることに憤りを感じたと思うけれど、今の私には少し余裕があるのでそんなことで怒ったりはしない。むしろ、目の前の青白い三輪君の顔の方が心配だ。アクセルかけっぱなしの体はとうに悲鳴をあげているというのに、それでも自分の声に耳を傾けることはしないのだ。
「もう時間は十分使ってると思うけどね。あんまりやりすぎると体ぶっ壊すよ」
「分かってる」
「分かってないから言ってるんです〜」
聞く耳持たず。頑固男。心の中でそう呟き、薄い頬をじりじりとつねる。骨格ががっしりしており、あまり肉はなさそうに見える三輪君だけど、頬のお肉は引っ張れば伸びるくらい柔らかい。
「あまりうつつを抜かしていると……」
「三輪君は息抜きという言葉を知ってるかな」
まあ、私も三輪君と会うまではきちんと理解できてなかったけれど。やった分だけ成果が出るなんて甘いことを考え、何もかも時間が許す限り突き詰めていく生活を送っていたから。でも、三輪君と出会ってから、何もかもがうまくいっているような気がする。
三輪君と出会う前の私は、機械のように毎日同じことを繰り返していた。しかし、それもある程度まで到達してしまえば、そこから伸び悩み始める。いつものルーティーンをいきなりやめることは勇気がいるけれど、やめてみれば随分と体が軽くなった。やらなかった分だけ出来なくなるかと思いきや、それは違っていた。むしろ息を抜く時間があることで、今までよりも頭の中が整理され、一回やるだけでも記憶が定着しやすいように思えた。何度も繰り返さなくても、自然と頭に入っていくのだ。
休息が大事。そんなことは頭では分かっているけど、私や三輪君みたいなタイプの人には実践するのに勇気がいる。私だって、三輪君がいなかったらきっと突っ走るだけで、効率なんて考える余裕がなかっただろう。
「でも、何もやらないままだと、できるものもできないだろ」
三輪君は、昔の私がそっくりそのまま考えていた台詞を放った。三輪君の言いたいことはもちろん分かる。でも今の私は、昔の私とは考え方が違う。
「私も前はそう思ってたよ。でも三輪君と出会って息抜きを覚えてからは、ただずっと机に向かい続けてた時よりもなんでも頭に入るんだよ」
「……俺は蛇石みたいに要領が良くないから」
「もう、普段あれだけボーダーにつめてる人が何言ってるの。要領が良い悪いの問題じゃないから。それに、家でもスイッチが入ったままだと体が休まらないでしょ」
私の言葉が正論だと思ったのだろう。三輪君はぐうと押し黙り、持っていたシャーペンを机の上に置く。
「ボーダーにいる時もちゃんとご飯食べてる? ちゃんと栄養が取れてないと頭の回転だって良くならないよ。我武者羅にやったって効率上がらないし」
「ちゃんと食べてる。心配いらない」
「嘘」
「嘘じゃない」
お互い一歩も引かない掛け合いになる。頑固な三輪君は、こっちから休めって言ったって素直に休んでくれない。だから、強制的に休ませてやる。
「ほら、ちょっと疲れてるんじゃない。お昼寝でもしなよ」
勉強机に向かっていた三輪君の手をとり、ふかふかのベッドの方へと引っ張った。椅子から立ち上がった三輪君は少し抵抗しながらも、おずおずとベッドの方へと歩み出す。
「でももう晩飯の時間……」
「十五分経ったら起こしてあげる。目を瞑るだけでもいいから」
「……」
すっかり言いくるめられた三輪君は、何か物言いたげな顔をして黙りこくった。観念したように横になり、静かに目を閉じる。目を閉じた三輪君はあどけなく、中学一年生の三輪君と何ら変わりないように思えた。
ゆっくりと、三輪君の呼吸の音が響き渡る。マスカラを塗った分少し重くなった睫毛を持ち上げ、先ほどまで三輪君が向かっていたノートをパラパラと捲る。三輪君の努力の結晶。何度も読み返しているのか、紙はすでに皺が何箇所も出来ている。
「……ねえ三輪君。十五分経ったけど、もっと寝る?」
「ん……」
時計を見れば既に十五分の時間が過ぎていた。三輪君の肩を叩き、優しく声をかける。寝ぼけ気味の三輪君は、私の手を掴んでそのまま目を瞑った。もうちょっと寝かせてあげようかな。普段は気を張りすぎてあまり熟睡できていないだろうから。
「……いつもごめん」
既に眠りに入ったと思っていたけれど、聞こえたのは三輪君の声だった。顔を覗き込むと、薄く目を開けながらそう喋っている姿が伺える。
「もう、何に謝ってるの」
傷跡ひとつない、真っ白な頬をそっと撫でる。ほんの少しでも眠りに落ちていたせいか、心なしか顔が熱く感じた。そんな心地よい温もりの上に、体温を吸収するようにゆっくり右手を添える。あどけない寝顔という言葉はよく聞くけれど、それはきっと今の三輪君みたいな顔を指すのだろう。
私の前で緩みきった顔をする彼は、ボーダーにいるときの彼と本当に同一人物なのだろうか。それほど私の隣が安心するのかな。自惚れたことを思ったけど、きっとそれは事実だろうからただの自惚れではない。
「……本当に、三輪君は私がいないと駄目だね」
聞こえるか聞こえないかくらいの音量で、ひとりごとのように呟いた。三輪君は、否定も肯定もしなかった。もう夢の世界へ入っているのかもしれない。
前髪を解くようにそっと撫でると、普段は隠れている額が露わになる。この人を形作るものは、どれもありふれているようで、たった一つしかない。そんな宝物のような部品ばかりだ。
このまま一生くっついていれば、いつかひとつになれるのかな。そんなことはあり得ないと、いつもの私なら迷わず言うだろう。でも、この安らかなひと時を過ごせるのならば、あり得る、あり得ないなんて無粋なもの、全てどうでもよくなってしまう。
ひとつになれると信じていれば、いつか本当に叶うかもしれない。彼の黒い髪を撫でる手を休めずに、私はぽつりとそう思った。