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「なまえ」

 終えたばかりの任務の報告を済ませるため、それらの管理がなされている一室へ向かっていたなまえは自身の名を呼ばれて足を止めた。
 後の火影邸となるこの建物で、なまえの目的地はもう少し廊下を進んだ先にあったのだが、事の報告をすべき相手が現れたので進路を変更する。そこは書や巻物が押し込められた本棚の並ぶ小さな資料室だった。
 開け放たれた入口から覗き込めば、なまえを呼んだ声の主である柱間が零れるような笑顔を浮かべて手招きしていた。
 天真爛漫を体現したような男だ。こんな陰湿な場所よりも大空の下で伸びやかに過ごすほうが彼らしいだろうに。
 断りを入れて入口を跨ぎながらなまえは心の内で呟いた。

「どうだ、大名達の相手をするのは。骨が折れただろう」
「いえ……書状をお渡しするだけだったので」
「突然頼んでしまってすまなかったな。まだ日にちがあるものだとうっかりしていた」

 柱間は「おかげで助かった」となまえの肩を叩いた後、机に散らかしていた書物を集め始める。なまえは自らも手伝おうと手を伸ばしたが、大丈夫だからと制止されて袖口を静かに垂らした。

「ずっとここで作業を?」
「まあな……。それよりなまえ、先日した話を覚えてるか?」

 柱間は机の端に書物を揃えてなまえに尋ねる。
 なまえは要領を得ない質問に頭を捻りつつ柱間の挙動を観察した。長い時間部屋に籠っていれば、普段の彼なら肩が凝っただとか不満の一つでも漏らすはずなのにどこかいつもと様子が違う。

「どのお話ですか?」
「嫁入りするつもりはないかと聞いた」

 あの事かと理解したなまえは首を縦に振って肯定を示す。

「こちらの条件が通るなら考えてみてもいいとお前は言ったな」
「はい。言いました」

 なまえは妙な空気を感じて、そばにあった椅子の木目に視線を落とした。

 数週間前、今日と同じく任務帰りだったなまえに何気なく尋ねた柱間。それまで結婚についてなど考えたことがなかったなまえは戸惑いながらも対応した。
 すでに両親を亡くしているし、そんな話をする友人も持たないため正直よくわからないというのが本音だった。独身のまま過ごすのも差し支えないだろうし、万に一つ自身が望まれるのであれば家に入ったって構わない。ただ、柱間の言ったように「条件さえ通れば」という前提があるのだが。
 なまえは己の身の振り方にさして関心がなかった。

「なまえ」

 なまえは静かに顔を上げた。そして書物を集める時の弾むような指先も、疲労など感じさせない表情も、気のせいではなかったのだと確信する。

「お前に会わせたい男がいる」

 この上ないほどの満面の笑みをたたえた柱間がなまえに告げた。
 なまえは目を伏せ、恐らくこのために先日の質問を寄越したのだと悟る。まさかこのような事態に繋がるとは思いもしなかった。

 なまえは女ではあったが幼い頃より忍として厳しく育てられた。うちはの血筋と本人の素質が相成り申し分ない成長を遂げていった。
 だが、戦乱の世は女子供とて容赦をするはずもない。なまえが真に一人で生き抜けるほどの力を付けるまで戦場に立つことは許されなかった。
 戦に加わって五度目となる出陣は、うちはが千手に敗れ終戦を迎えた日になった。その後里作りが始まり忍としての仕事を受けて現在まで続けているが、それを含めてもなまえが他人と関わってきた時間は多くない。異性に憧れを抱くことも、まして婚姻を望むことも一度としてなかった。
 なまえが述べた条件は妻を娶りたい側からすれば到底飲めないであろう内容だった。だがそれは虚言を吐いた訳ではなくなまえが本当に心の底から願う事である。
 そして万に一つそれを承諾してまで一緒になることを望むとすれば、自分という存在を真に求めてくれた者に違いない。
 あの日尋ねられた時、なまえはそこまで思考を巡らせて条件を提示した訳ではなかった。今、柱間の言葉を聞き、迫りつつある状況を理解して、自身を励ますために無理矢理そう納得させたのだ。

 柱間はなまえに退室するよう促し、明かりを消して自らも廊下へ出る。秋の日足の短さ故か、すでに夕方の淡く滲むような長い日が差し込んでいた。
 歩みを進めながら、この後の予定がない事を確認してくる柱間をいかにも弱ったというふうに対応するなまえ。すると柱間は珍しいと思ったのかきょとんとした顔をして見つめてきた。

「あの……今からってことですよね?」
「都合が悪かったか? 今日の仕事はもう済んだだろう」
「いえ、こういうのって……その、いろいろ準備して、場を整えてっていうものじゃないんでしょうか」

 なまえがおずおずと申し出れば、柱間は「うーん」と唸って顎に手を当てた。
 結婚の話とはつまり縁談で、顔合わせとなれば見合いだろう。なまえはそう考えたが、どうやら少し違うらしい。

「あいつはもう飲んでるんだ」
「飲む?」
「なまえとの結婚に乗り気だってことだ」
「えっ?」
「だから後はお前次第で決まる」

 いよいよなまえの頭の中は混乱が極まってくる。言葉を知らぬ幼子のように聞き返すばかりだった。

「私がはいと答えたら結婚が決まるんですか?」
「そういうことだ。流石に今日この場で判断しろとは言わんだろうがな」

 自身を望む人間がいたという現実に、これから対面を果たすという現状に、なまえは頭を抱えたくなった。

「心配するな、なまえ」

 足取りの重くなるなまえの背中を優しく叩き、柱間は相変わらずの愛嬌を滴らせる。
 今までどれだけの人間が彼の明朗さに救われ、偽りのない笑顔に勇気を貰ってきたのだろうか。
 なまえはその煌めきを一身に受けて、やはり行くしかないかと覚悟を決めた。せめて数日前に知らせておいてくれたら心の準備もできたのに、と思った。

 一つ上の階の西側にある部屋の前で柱間は振り返る。目線だけで見上げたなまえにもう一度微笑んで、取っ手に指を掛けた。
 音を立てて開く扉の隙間から差し込んだ陽に瞼を狭める。入口を跨いだ柱間に続こうとして先を見たなまえは、その光景に驚愕の色を表した。
 壁に背を預けて腕を組む男。無造作に伸ばされた真っ黒の髪は夕焼けの朱をきらきらと反射している。
 ゆっくりとした動作で顔を向けたその姿は、うちはの人間なら知らぬ者はいない。一族の長である男、うちはマダラだった。
 なまえもうちはの人間だ。だからこそ、尚更、彼がここに立っている状況が理解できない。
 立ち尽くすなまえを余所に、話は進み始める。

「待たせたか、マダラ」
「いや……。柱間、お前はいい」
「そうしたいところだが……」

 そう言って柱間が目配せすると、マダラの視線がなまえに向けられる。それを受けてハッと我に返ったなまえは当事者であることを自覚して慌てて口を開いた。

「すみません。大丈夫です、柱間さん」
「……そんな顔で言われてもな……」

 付き合いはそう長くはないが、柱間はこれほど動揺したなまえの姿を見るのは初めてだった。元はと言えば二人を引き合わせたのは他でもない柱間自身なので、事が少しでも良い方向へ進むよう今はなまえのそばにいてやるべきだと判断した。
 なまえの手を引いて部屋に招き入れ、自身は少し離れた所から二人を見つめる。すぐに口を挟んでしまうのは、この時ばかりは耐えなくてはならない。

「……話は聞いてるな」

 マダラは退室する様子のない柱間を一瞥してなまえの前に立った。
 なまえは頭一つ分ほど高い位置にあるマダラの顔を見上げると、そこでようやく、彼が決して威圧的ではないことに気付く。これまで関わったことがなくても、一族の長という肩書にそう感じさせられていたのだろう。
 問いに対して頷きを返すとマダラはなまえをじっと見つめて言葉を続けた。

「お前が嫌ならいい。お前が決めろ」

 なまえはマダラに関して特別何かを知っているわけではない。うちはの長で、それに見合う強さを持ち合わせていることと、終戦が決定づけられたあの日の光景。
 脳裏に焼き付いているその時と、今目の前にいるマダラは同じ瞳をしていた。

「……答えが出たら柱間にでも伝えておけ」

 なまえは、どういう訳かその瞳を見ていると諸々の疑念など消え去っていた。
 部屋の僅かに開かれた窓から秋の深まりを感じさせる冷たい空気が流れ込み、その向こうで紫陽花色の夕空が広がっている。
 マダラは少しばかり目を伏せ、用が済んだことを暗に示して足を踏み出した。それに合わせて揺れる長い髪が背後から差す光彩を踊るように弾く。
 そしてなまえの横で一度止まり、沁み込むような声で静かに零した。

「オレはお前を知らない訳じゃない」

 なまえの与り知らぬところでマダラはなまえを知っていた。いい加減に見目形や出鱈目で選り出したのではないのだと、確かに思うところがあってこの場にいるのだと伝えたのだ。
 その一言はしっかりとなまえの耳に届けられた。そしてそれはマダラにとって己の歩幅よりずっと大きな一歩となったことに違いない。柱間はすぐにでも友を称賛したい衝動に駆られたが、今は空気を読まなければと必死に抑えた。
 ほんの数分のやり取りではあったがなまえは本質を見逃すほど鈍感ではない。出口に向けてマダラが踵を浮かせるよりも早く、今度はなまえが一歩を踏み出した。

「待ってください」

 しんとした空気を震わせた声にマダラは顔だけを向ける。無言で先を促せば、なまえは少し間を置いて口を開いた。

「お受けします……」

 なまえが真っ直ぐに見上げると、マダラも真意を測るためかその瞳を見据える。
 この時柱間は確信を得た。やはりこの二人には相通ずるものがある、と。
 やがて満足したらしいマダラが「わかった」と了承すると、いよいよ我慢のできなくなった柱間が躍り出た。

「決まりだ! なあ、式はいつにする? こういうのは早いほうがいい。我が一族も呼んで盛大に……」
「必要ない」
「ないわけがあるか! 大切な事だぞ、二人でしっかり話し合って……」
「ならお前は首を突っ込むな」

 呆れを含んだ声でマダラが咎める。柱間は納得がいかない様子だったが、これ以上言っても耳を貸さないであろうことを悟り、溜め息をついて項垂れた。
 二人のやり取りを静観していたなまえは、柱間が含みを持たせた視線を寄越したのに気付いた。「お前はそれでいいのか」と訴える視線だ。それに対して、僅かに口角を綻ばせて首を振った。

「いえ、それで構いません。呼ぶ人もいないし」

 なまえが言うと、柱間は眉間のしわを一層深くした。柱間の気持ちもわからない訳ではないがなまえにも思うところはあるのだ。
 家族がいなければ友人もいない。一族の中に親しい人間もいないし式を挙げたところで「あの人、誰?」となるのは火を見るよりも明らかだ。無論マダラがやると言うなら彼の立場があるためやむを得ず従っただろう。

「……二日後の朝に迎えを寄越す。荷物をまとめておけ」
「わかりました」

 マダラはチラッと柱間を見た後、二人を残して部屋を出て行った。

 外は夕闇が迫ろうとしており、窓を施錠した柱間は空を仰いで思いを巡らせる。

「あいつはあの通り無愛想だが……根は優しい男だ」

 その背中から並々ならぬ情を感じ取ったなまえは静かに目を伏せた。

「お前ならきっとマダラを真に理解して寄り添ってやれる……オレはそう信じている」

 柱間はマダラという男を心の底から思い、案じている。それは二人の間柄を詳しく知らないなまえにさえ痛いほど伝わった。
 柱間が語っているのは本心だ。いつだってそうだが、今はそれ以上の切実さを胸に感じる。
 なまえは恐らくマダラだけでなく柱間にも望まれてここに連れて来られたのだと悟った。マダラの瞳を見て、柱間の本心を聞き、自身の考えでは及ばないところで自分という存在が必要とされたのだと知った。

「……柱間さん」
「ああ、すまん。いろいろ準備があるんだろう。早く戻らないとな」

 感傷的になっているせいか、普段よりゆったりとした動きでなまえを振り返った柱間は、最後に真剣な眼差しを向けて言った。

「マダラをよろしく頼む」

 なまえはいつもと変わらない声音で「はい」と答えた。
 柱間の切実な思いはしっかりとなまえの胸に届いている。