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 数日後、少年が意識を取り戻した。その少し前に目を覚ましていたマダラは、戸惑う彼の元へ歩み寄り、状況の説明を始めた。
 なまえは離れた場所からその様子を見ていた。心配ではあったが、まずはマダラが一人で話をすると言ったからだ。白い体の男達も今は身を潜めて大人しくしている。
 仲間の所へ帰りたい。少年の悲痛な叫びが響く。その体では無理だとマダラは言った。それに、この地下空間には出口がないのだと。彼がそう話すのをなまえは静かに聞いていた。
 混乱の渦に飲まれながらも、やがて落ち着きを取り戻した少年は体を元通りにするためリハビリを始めた。名前をうちはオビトと言った。本当にうちはの子供だったのだ。
 オビトはなまえの正体を知ると怪訝な顔をしたが、最早何があっても不思議ではないのだと自らを納得させ、その存在も受け入れるようになった。
 マダラは二人の接触を禁じることはなかった。駄目だと言ったところでなまえがうちはの子供を放っておくはずがないからだ。
 なまえはオビトを心配し、偽りのない優しさを向ける。それはオビトの心に伝わり、鬱陶しさを感じる時があっても決して蔑ろにはしなかった。ここには訳のわからぬ話をする老いぼれと白い体の奇妙な男達しかいないのだ。唯一まともに意思の疎通ができるなまえに対し、オビトは次第に気を許すようになった。

 光の届かぬこの場所では時の流れを確かめる術はない。それでもオビトは里へ戻るために、起きている時間のほとんどをリハビリに費やしていた。
 その休憩中、オビトは地面に寝転がって右手を開いたり閉じたりしていた。貼り付けられた細胞がついに指の先まで再生したのだ。まだ完全には馴染んでおらず違和感は残るが、ここまで元通りになったことに僅かな喜びを覚えていた。

「綺麗に戻ったね」

 いつもマダラのそばに座っているなまえが上から覗き込んできた。天に向けて開いていた手の平に彼女の小さな手がかざされる。オビトは微笑むその顔を見上げた後、ゆっくりと体を起こした。

「感覚はまだ鈍いけどな。物に触った感じとかあんまりわかんねえ」

 そう言ってオビトはなまえの手を掴んだ。少し驚いた様子の彼女を余所に反対の左手でも触れてみた。
 右手とは違い、その体温がはっきりと感じられる。それはこの暗く冷たい空間に存在する唯一の温もりのように思えた。

「……お前はここから出たいって思わないのか?」

 小さな手を見つめたままぽつりと尋ねた。オビトには不思議でならなかった。木に繋がっているマダラとは違い、自由に動くことができるなまえ。彼女は、こうしてオビトと話している時以外はマダラのそばにじっと座っているだけなのだ。この状況に対して不満はないのだろうかと常々疑問に思っていたのである。
 なまえは俯く少年に目を向けた後、今も眠り続けているマダラへと視線を移した。そして、顔を上げたオビトに首を横に振ってみせ、少しの間を置いてその理由を口にする。

「マダラさんがいるから」

 馬鹿馬鹿しい、とオビトは思った。たったそれだけの理由でこんな所に閉じこもっているのかと。しかし、その瞬間だけふっと緩められた表情を見て、それらの言葉は喉の奥に飲み込んだ。
 緩やかに手を解き、マダラの元へ戻っていくなまえ。事情を知った今でも、やはり彼らの姿は爺とその孫娘というようにしか見えない。

「……そうかよ」

 短い溜め息をつき、温もりの残る手の平を見つめる。その熱は本来なら触れられるはずのなかったもの。彼女の行く末を自身が案じる必要はないとわかっているのに、何故だか胸の中がさっぱりとしない。
 だが、オビトの一番の目的は仲間がいる木ノ葉の里へ帰ることだ。何があろうともそれが揺らぐことはない。意志を込めるように拳を強く握り締め、リハビリを再開させるのであった。



 自らの行いはいずれ何らかの形で返ってくるものだ。己の身に何かが降りかかった時、かつての自身の行動がこの事態を招いたのだと、なまえはいつもそのように考えていた。
 けれども、それは本当に正しいのだろうか。闇に引きずり込まれた少年から目を背けながら、なまえはドクドクと脈打つ胸を強く押さえる。彼がうちはの子供であると知った時に感じた妙な胸騒ぎ。そのよからぬ予感が現実のものとなったことに動揺を隠しきれなかった。
 つい先程、オビトは人造体の男から仲間の危機を知らされて外に飛び出していった。そのまま里へ帰るのだろうと思っていたのに、彼は血に汚れた姿で地下空間に戻ってきたのである。そして目を覚ましたマダラと話を始め、その間、なまえは外で何があったのかを人造体の一人に聞いた。
 仲間の元へ辿り着いたオビトが目にした光景。それは、彼がよく口にしていたカカシという友人が、リンという少女の心臓を貫いている姿だった。
 オビトは岩に半身を潰されて助からないことを悟った時、自身が原因で片目に傷を負った友人に写輪眼を譲った。思いを寄せていた少女を、自分の代わりに守ってくれるよう頼みながら。
 希望であった光が目の前で絶たれた。信じていたものがわからなくなった。目指していた夢が、思い描いていた未来が消え、世界が絶望に染まった。その時少年は、マダラが語っていたことの意味を初めて理解したのだ。
 何故、となまえは心の内で問う。話を聞いた限りでもオビトは悪い行いなどしていない。人を助けてきた彼がどうしてそんな苦しみを与えられなければならないのか、なまえにはわからなかった。
 だが、もしも。失われるはずだった命を救ったことで、その運命を歪めてしまったのだとすれば。
 少年を地獄へと導いているのは他でもない自分達ではないか。その考えに至ったなまえは、腹の底から込み上げてきた恐れに全身を粟立たせた。
 以前、マダラに聞いたことがあったのだ。オビトを里に帰してやらないのか、と。その問いに対してマダラはこう答えた。

「それは、本人が決めることだ」

 まるでこうなることがわかっていたかのような言葉だった。なまえは不安に揺れる瞳をマダラに向ける。彼が何をしようとしているのかわからない。オビトに話していたことも、おぞましさを感じる巨大な木の正体も。いや、本当は気付いていたのに、今日までずっと見て見ぬふりを続けていたのだ。
 子供の体になった自分。老いたままのマダラ。柱間の細胞を培養して生まれた人造体に、突然現れたうちはの少年。そして、世界を作り変えるという話。
 それらをもって何かが始められる時、それが別れの日となるであろうことは薄々感付いていた。だからこそなまえは全てから目を逸らし続け、その日が来ないことを心の奥で願っていた。マダラのいない世界に、今のなまえが生きる意味はないからだ。
 けれども、動き出した時間は止まることなく、望まぬ現実を無慈悲に突き付ける。マダラはあらゆる知識をオビトに授け、全ての準備を整えた後、なまえをそばに呼び寄せた。

「なまえ……しばしの別れだ。お前はオビトと共に行け」
「……マダラさんは……」
「ここで眠りにつく。時が来るまでな……」

 なまえはじっと足元を見たまま顔を上げない。マダラはゆっくりと片膝をついて目線の高さをなまえに合わせた。

「外の道はお前のほうが詳しいはずだ。オビトの助けになってやれ」

 俯くなまえの頬に手を伸ばす。ようやく顔を上げたその目尻から涙が零れ落ち、マダラは柔らかな表情を浮かべて指先に滴を染み込ませた。

「……心配するな。必ずまた会える」

 そう言って立ち上がり、「行け」とオビトに視線を送る。オビトは何も言わずなまえに近付き、その手を掴んで歩き出した。
 なまえは何度も何度も振り返った。彼女の頬に伝う涙を、マダラはもう拭ってやることができない。
 背に繋いでいた根を切り離し、大きな椅子にもたれて座る。その姿が見えなくなった後、彼は静寂の中で息を引き取った。


 なまえを連れて地上に出たオビトは、術を使って入り口を塞ぎ、その存在を誰にも悟られぬよう覆い隠した。
 外は夜だった。月の光は雲に遮られ、辺り一面は漆黒に染まっていたが、それでもあの空間よりはずっと明るいように思えた。
 なまえは閉ざされた入り口の前に立ち尽くした。袖で強く擦った目元が赤みを帯びている。オビトはその横顔を一瞥し、マダラの意志を宿した人造体のゼツに初めの目的地を聞き出した。
 なまえには二人の話し声など聞こえていない。たった今自分が出てきた場所を見つめ、またじわりと視界を滲ませる。

「……私……やっぱりここに残る……」

 独り言のように零された声が耳に届き、オビトは話を止めて振り返った。俯くなまえの背は小さく、今にも闇に溶けてしまいそうだった。

「あいつはもう死んだ。ここに残ってどうする? 死体と暮らすのか?」

 容赦のない言葉に、なまえは両手を握り締めた。オビトの言った通り本当に死んでいるのだとしても、離れたくないという思いが足を縫い留める。
 なまえはこの体になって夢から覚めた日のことを思い出す。あの時、マダラはなまえのそばにいた。次に目を覚ます時、そばにいてほしいと言ったなまえの言葉を彼は守ったのだ。何十年という長い時間を孤独に過ごしながら。
 自分がここを離れてしまえば、彼は今度こそ本当に一人になってしまう。あの冷たく暗い空間で、一人に。そう思うと、なまえには置き去りにすることなどできなかった。

「オビト……私がいなくても大丈夫でしょ? 私のことはいいから……」

 なまえは目元を拭い、隣に戻ってきたオビトを見上げた。彼の顔は右の目以外が人造体で覆われてしまったため、その表情を知ることはできない。

「そうか……なら、二度とあいつにも会えなくなるな」

 前を見据えたままオビトは言った。怒っているのでもなく、呆れているのでもなく、ただ静かな声音を夜の闇に響かせる。

「オレはお前を連れていくように言われた。お前がここを離れないならオレも動けない。あいつが蘇る計画も……ここで止まる」

 オビトはようやくなまえに顔を向けた。面の奥の右目が真っ直ぐになまえを捉える。
 そして、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の小さな手を握った。地下を出た時と同じように。人造体の右手ではなく、本来の温もりを持つ左手で。

「それでもいいなら……この手を振り解け」

 絶望し世界を否定した少年が覗かせる優しさ。見捨てて行くこともできたはずなのに、彼はそうしなかった。
 なまえは繋がれた手を見つめる。振り解くことはできなかった。やがて歩き出したオビトにつられ、短い足で一歩一歩と踏み出していく。
 最後に、もう一度だけ振り返った。本来なら死んでいるはずのこの時代で、自分が生きる意味の全てだった彼はもういない。
 だが、必ずまた会えると彼は言った。歩みを止めない限り。前に進み続ければ、必ず。
 どれほどの道のりになるかはわからない。それが闇の中を突き進む道だったとしても、この少年と共に行けばいつかは辿り着けるのだろう。彼が存在する未来へと。
 なまえは表情が見えない隣の顔を見上げた。その切なる思いはあれども、この時すでになまえは、己に果たすべき役目があることを頭の奥で感じ始めていた。