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 長時間の移動は幼い体のなまえにとってかなりの負担であった。人目を避けるため踏みならされていない道を歩く。足に絡む草葉や小さな枝、転がっている石ころ。かつてはどうと言うこともなかったものが、今のなまえには大きな障害となっていた。
 マダラによって移された柱間細胞は、成長の助けにはなっても無尽蔵の体力を生み出す訳ではない。前を歩く二人に遅れないよう追い付こうとするも、もつれた足が木の根に引っかかって転んでしまう。
 土を擦る音に振り返るオビトとゼツ。なまえは体を起こしたが、限界の状態で歩き続けていたために立ち上がる力はもう残っていなかった。回復するのを待つほかに手段はなく、二人には先に行くように言い、深く息を吐き出した。
 オビトはそんな彼女をじっと見下ろした。そして背中を向けて片膝をつくと、ゼツの手を借りてなまえを背中に乗せた。そのまま歩みを再開させた彼は、どれほどなまえに降ろしてほしいと頼まれても聞かなかった。
 その翌日から、オビトはなまえの様子を見ながら休憩を取るようになった。彼女に無理をさせてまで急がなければならない理由はないのだ。休んでいる間は偵察に向かったゼツを呼び戻して情報を整理していた。
 なまえはいつも「いいのか」という顔をするが、体の成長については今すぐどうにかできる問題ではない。オビトは仕方のないこととして受け入れて彼女のペースに合わせていた。
 ある日川のほとりで休もうとした時、なまえが「そっちは虫がいるから嫌だ」と川に近付くことを嫌がった。些か苛立ちを覚えたオビトは勝手にしろと言って一人で川に向かった。
 少し前にも同様のやり取りがあったのだ。たかが虫くらいでと思ったが、その時は別の場所に変えることで対応してやった。ずっと森の中を歩いてきたのに今更そんなことを言う彼女が不思議でならなかった。
 岸辺に立ち、空を映す水面を見下ろす。ふと、違和感を覚えて上流に顔を向けた。
 微かな煙の臭い。少し先に見える焚き火の跡は、たった今火が消されたものだと気が付く。その瞬間、木々の間から何かが飛んできた。オビトは身構えたが、それらは足元の近くに刺さって動きを止めた。
 手裏剣だ。だが、それ以上は仕掛けてこない。まるで立ち去れと言っているかのようであった。
 直後になまえが駆け出してきた。木陰から見ていたのだろう。わざとらしく足音を立てながら近寄ってくる。

「ねえ、離れよう。町も近いから……」

 オビトを見上げ、小さな声で言った。無闇に戦うべきではない。そう言いたいのだと理解したオビトは、なまえを抱えて川の対岸に渡り、森の中へと姿を隠した。
 しばらく進んだ先でなまえを降ろす。追手が来る気配はない。彼らがあの場所にいた理由などわからないが、他者を近付けたくなかったのだろう。そして、なまえは事前にその存在に気付いていたのだ。
 オビトは片膝をついた体勢のまま目の前の少女の顔を見つめた。なまえはどこか気まずそうに足元へ視線を落としている。
 何故それをはっきりと伝えないのか。それも、彼女の性格を考えればわかるような気がした。

「……前の時もそうだったんだな」

 子供の姿をしているためにどうしてもそう認識してしまうが、本当はオビトよりもずっと多くの経験を積んでいる忍なのだ。助けになってやれとマダラがなまえに言ったのは、オビトに里の外の知識が不足していることを見抜いていたからにほかならない。

「う……うん。ごめんね、ちゃんと言ってたら……」
「いや、謝る必要はない」

 疑問が解け、また一つなまえのことを知る。彼女への苛立ちはとうに失せていた。

「なまえ……教えてくれ、オレに」

 そして、己の未熟さを知った彼は、真っ直ぐな眼差しを向けて教えを請う。
 全てはたった一人の少女のために。


 見るべきもの。聞くべき音。風のにおいや肌に感じる空気など。なまえ自身が兄や扉間から教わったことや自らの経験から得た知識を、実際に歩きながらオビトに教える。感覚派の彼女にはそれらを言葉にして伝えるのが難しかったが、オビトは不思議とすんなり理解してすぐに覚えていった。
 そんな日々を重ねて二人の距離が少しずつ縮まっていった。オビトは初めからなまえを受け入れていたのに、なまえのほうは彼にとって自分は荷物でしかないのだと負い目を感じていたのである。
 だが、少なからず必要とされるようになって考えを改めたのだろう。いつも数歩後ろをついてきていたのが、物を教えるためではあるがしっかりと横に並んで歩くようになった。おどおどしているよりは今のほうがずっといいとオビトは心の内で思った。
 やがて風の国へと到着した。雨隠れの里にいる長門という青年と接触するためだ。彼はマダラの輪廻眼を移植されており、いずれはその眼を使ってマダラをこの世に蘇らせる手筈となっている。
 気候が不安定なこの国では雨がよく降った。ぬかるみに足を取られるせいかなまえの歩みも遅く、仕舞いには泥の上に転げてしまった。
 手を引いてやるべきだったと思いながらなまえを助け起こすオビト。彼女の異変に気付いたのはその時だった。
 ぐったりとしたまま動かないなまえ。呼びかけても返事はない。雨合羽を捲って顔を覗くと瞼は閉ざされ頬が赤く火照っている。もしやと思い額に触れると体温が酷く上がっているのがわかった。
 オビトは溜め息を吐いた後、その体を抱えて立ち上がった。呆れたのは、体調を崩したことではなく限界に達するまでそれを黙っていたことだ。雨脚が強まってきたこともあり、近場の町に入って宿を取ることにした。

 その日の晩、なまえは目を覚ました。部屋の明かりは灯されておらず、外の光が微かに差し込むばかりである。
 薄らと開いた瞼で、そういえば、と思考を始めようとした時、眼前に黒い腕が伸びてきた。なまえは息を飲み、逃げるように布団から這い出る。その拍子に額に乗せられていた手拭いが畳の上に落ちた。

「そんなに驚かなくても……」

 ゼツの半身が呟いた。少し前に合流した彼らはオビトに代わってなまえの看病をしていたのである。白い半身が何かを言っているが、なまえはそれどころではない。
 体を起こして部屋を見回す。窓辺に座るオビトを見つけ、鼓動を激しく打ち鳴らす胸を押さえながら彼のそばに寄った。

「……体調が悪いならすぐに言え」

 窓の外に顔を向けたままオビトが言った。なまえはその抑揚のない声に謝罪の言葉を返し、落ち着かない様子で膝の上に手を組んだ。

「柱間細胞を入れたことで副作用が出ることもあるらしい。異変を感じたら隠さず教えろ」
「……うん……」
「朝になったら発つからな。それまで休んでろ」

 手拭いを絞っているのか、後ろで水の音がする。返事をしながらもなまえは布団に戻る気にはなれなかった。
 嫌な汗が首筋を伝う。そんなはずがない。そう思いたくても、その左目で見た記憶がなまえには確かに残っているのだ。数十年前、里を出てマダラと暮らしていたあの家で。外に倒れ、意識が朦朧としている最中、どこからともなく伸びてきて首を覆った闇色の腕を。
 当時は自らに迫る死がそのような幻影を見せたのだと思っていた。けれども、それは間違いだったのかもしれない。


 しかし、断定するにしてもこの目で見たという他に証拠はない。翌日、長門を含む三人の男女と話をするオビトの傍らで、なまえは考え事に耽っていた。
 彼は柱間細胞からできた人造体にマダラの意志を移したことで生まれた、ということになっているが、なまえはその瞬間をはっきりとは見ていない。
 もしも本当に、過去に見たそれと同じものであったとして。あの時代から今日まで生きていることになる彼の正体は何なのか。自分を手に掛けようとしたのは何故か。何のために、今、自分達と行動を共にしているのか。
 全て思い過ごしであったならばそれでもいい。だがこの忍の世界、何が起こっても不思議ではないのだ。思い過ごしだと決めつけて考えることを放棄していては、この世界を生き抜くことはできないだろう。
 けれども、今の体のままでは思い通りに動くこともできない。ある程度成長するまでは動向を探るだけに留めるべきかと、後方に立つ彼の気配を感じながらなまえは思う。
 行くぞ、という声が聞こえて顔を上げる。その時、赤い髪をした青年と視線が重なった。彼が長門だということはその眼を見てわかった。
 話を終えて三人が去っていく。彼らの姿が見えなくなった後、なまえはオビトに尋ねた。

「あれが輪廻眼?」
「ああ。見るのはオレも初めてだが……」

 オビトはそう返して雨の降る空を見上げた。彼がマダラの声に似せて話すようになってもなまえは何も言わなかった。その日を境に「オビト」と呼ぶことも禁じられ、彼は徐々にマダラへと成り代わっていった。
 しかし、なまえはどうしてもその名で呼ぶことができない。オビトもそれはわかっていたのか、「トビ」というもう一つの名前を教えた。
 長門を勧誘するため約束の場所へ通うオビトになまえも連日同行した。やがて、雨隠れの里と一波乱あった彼ら暁を手中に収めると、次の目的地である木ノ葉隠れの里を目指して移動を始めた。
 里に近付くにつれて見覚えのある道や風景が多くなった。なまえは数十年ぶりの木ノ葉の里に対し、足を踏み入れていいのかという迷いはあったが、今の里がどういう姿になっているか見てみたい気持ちにもなった。
 そこで、つい気になってしまい、里での目的をオビトに聞いた。オビトは足を止め、前を見据えたままその問いに答える。

「木ノ葉が保有している九尾を奪い、里を襲撃する」

 それを聞いたなまえの目が見開かれる。その動揺は、繋いでいる手からオビトにも伝わった。
 いい加減なことを言っているのではないだろう。オビトは本当にそのつもりでなまえに答えたのだ。なまえは、何も知らずに胸を弾ませていた己の愚かさを自覚する。
 言葉を返さない彼女を一瞥し、オビトは再び歩き出す。手を引かれるままになまえの足も自然と動いた。
 里を襲撃する。それはマダラの計画なのだろうか。それとも、この世界に絶望した彼自身の復讐なのだろうか。
 なまえはオビトのように深い絶望を味わった訳ではない。彼の苦しみを本当に理解している訳でもない。だからこそ、その真意を問いたださなければならなかった。

「オビトは、それでいいの?」

 名を口にしたからか、覚悟を問われていると思ったのか。あの地下空間を出てから、オビトは初めて感情を露わにした。

「……オレを否定するのか?」

 ぴたりと立ち止まり、ゆっくりとなまえを見下ろした。その右目は睨みつけるように細められ、怒りを宿しているのがわかった。

「奴に同じことをさせたお前がオレを否定するのか?」
「……え……?」
「とぼけるな。かつて、奴は九尾を操り木ノ葉を襲った。それは史実として誰もが知っていることだ。そして、その動機はお前だと、一族の間ではそう語り継がれている」

 なまえはあまりの衝撃に言葉を失う。史実と言われても、マダラが里を襲ったなど全く知らず、本人から聞いたこともない。とても信じられる話ではないが、オビトが嘘を言っているとも思えなかった。

「マダラはその圧倒的な強さから伝説の忍として歴史に名を残している。その一方でなまえ、お前はマダラを惑わして里に仇なし、うちはの名を貶めた。里で一族の立場が弱くなったのも……そのせいだ」

 オビトが地下空間でなまえのことを知った時、怪訝な顔をしていたのはその話が頭を過ったからだ。

「そ……そんな……私は……」

 繋いでいた手がするりと解ける。なまえは胸元で服を握り締め、顔を俯かせた。
 だが、目の前の彼女は想像していたものと異なっていた。眠るマダラに寄り添い、自分を心配し、別れの際に悲しみを堪える姿はどこにでもいるような普通の女にしか見えなかった。
 言い伝えが間違っているのか、それとも、まだ隠している部分があるのか。オビトはこれからマダラの名を騙って行動していくために、なまえという女を理解する必要があると考えた。だから長い道のりを歩いて移動してきた。決して彼女を一人にしなかった。
 お陰で随分と彼女のことがわかった。語り継がれている話の真偽についても、オビトの中では答えが出ていた。
 それなのに。

「信じられないか? ならその目で直接確かめるといい」

 マダラに代わろうとする自分に覚悟を問う彼女が許せなかった。まるで、己の意思ではないと言われているように感じたのだ。
 烈火の如く赤く染まった眼がなまえに向けられる。視線が交わった時、なまえは為す術もなく、彼のチャクラによって意識を支配された。
 沈黙を落とした後、オビトはなまえの口を開いて舌に呪印を施した。彼女がこの先「オビト」という名を口にすることがないように。
 眠らせたなまえを抱え上げ、里を目指して歩き出す。今更何を言われようとも、やめるつもりはなかった。
 なまえは決して口数が多いほうではない。どれほどの思いや葛藤を抱えていたとしても、表に出すのはほんの一部だけだ。若さ故に精神面が未熟なオビトには、それらに気付いて汲み取ることなどできるはずもなかったのである。



 轟音が腹の底に響く。けたたましい叫び声が聞こえる。意識は暗闇の中にあるのに、感覚だけが別の場所で何かに直面しているようだった。
 思考を巡らそうとしてもぼんやりとした頭では何もかもが曖昧になり、ここに至るまでの記憶も思い出せそうにない。

「おい、大丈夫か?」

 そんな声が聞こえた気がした。体に触れられるような感覚もする。自分に言っているのだと思い、なまえは何とか返事をしようとした。しかし声の出し方がわからず、どうしたものかと悩んでいるうちに、音も感覚も遠ざかっていった。
 なまえは、はっとして体を起こした。見慣れない部屋。手足の先の感覚はしっかりとある。先程とは違い全てが明瞭だ。
 白い布団をはね除けて彼の姿を探す。オビト、と呼ぼうとすると舌に痛みが走りその名を口にすることができなかった。
 ここはどこだろう。ベッドから降りたなまえは爪先を伸ばして窓の外を覗き込んだ。
 壊れた建物、薙ぎ倒された木々。瓦礫が散乱する道を、人々が忙しなく駆け回っている。
 彼らが着けている額当て。この町を守るように囲っている大きな壁。場所を判断するには、その二つだけでも十分すぎるほどだった。
 ここは木ノ葉隠れの里。この凄惨な状況は、オビトが事を起こしたからだと考えて間違いないだろう。
 その目で確かめるといい。その言葉通りになまえはここに置き去りにされたのだ。
 彼の真意を知ることができないまま、災いがもたらされたこの里に。