69


 呆然と窓の外を眺めていたなまえは、やがてベッドの脇に揃えられていた草履を履いて部屋を出た。静かな廊下を人とすれ違うことなく歩いていく。
 ここが病院であることはすぐにわかった。どうやら被害を免れたらしい。中の様子も昔とそれほど変わりなかった。
 朧げに耳に残っている轟音と悲鳴。巻き込まれて負傷した人は大勢いるだろう。怪我もないのに病室のベッドを占領していたことをなまえは申し訳なく思った。優先して助けられるべきはこの時代に生きている人達だ。
 なまえは災厄を引き起こした一人であるという自覚があった。里の惨状や傷付けられた者を目にするのは辛いことであり、早く里を離れなければと思いながら階段を下りていた。
 踊り場を曲がって誰かが上がってくる。なまえは顔を下に向けた。相手の姿さえ視界に映さないようにしながら一段一段と下りていく。
 小さな足音を立てながら二人がすれ違う。なまえが踊り場に差し掛かった時、階段を上がっていたその誰かが足を止めた。

「ん……? おいお前……」

 他に誰もいないのだ。声をかけられたのが自分だということくらいわかる。なまえは少し躊躇ったが、やがて首だけを向けてそちらを見上げた。

「やっぱり……。奥の部屋で寝てた子だろ? 目が覚めたんだな」

 なまえよりも少し背の高い黒髪の少年が踵を返して下りてきた。気さくな笑みを浮かべているが、どこか知性を感じさせる顔つきをしている。

「オレが倒れているお前を見つけてここに運び込んだんだ。あんな状況だったから家族までは探せなかったが……」
「…………」
「家に帰るなら途中までオレも一緒に行くよ。まだ瓦礫が残ってる所もあるからな。一人だと危険だ」

 子供ながらになまえのことを心配しているようだ。少年はなまえの返事も待たず、肩を軽く叩いて先に階段を下り始めた。

「お前、名前は? 里に住んでる人のことは大体知ってるんだ。家の場所もある程度わかると思う」

 動かないなまえを振り返り、安心させるように微笑みを浮かべる。優しくて、温かい心を持った少年だ。里の子供達は皆この子のように育っているのかと思うとなまえは胸が苦しくなった。
 きっと未来を奪ってしまった子供もいるのだろう。なまえは何も知らずに手を差し伸べてくれる少年から目を背け、彼の問いに答えを返す。

「……うちはなまえです。親はいません。助けてくれて……ありがとうございました」

 そう言って、立ち止まったままの彼の横を通り抜ける。
 彼の背中の家紋にはすぐに気が付いた。だから隠さずに名乗った。オビトの話が真実ならば、これで少年は諦めてくれるはずだ。再び静寂が訪れた空間で、なまえは息が詰まるような思いになりながら階段を下りていく。

「……うちは、なまえ……?」

 少年の小さな声が背中から聞こえる。なまえは、やはりそうなのかと思い一層視線を落とした。
 これ以上誰かと関わり合いになる前に出ていこう。増していく罪の意識に耐え切れそうにない。
 一度、軽やかな足音がした。顔を上げると少年が目の前にいた。先程まで後ろにいた彼は、階段を飛び下りてなまえの前に立ちはだかったのだ。

「なまえって言ったよな? オレも……オレもうちはなんだ! うちは、シスイ!」

 聞き間違えるなと言わんばかりに名前の一文字一文字を強く発した少年。うちはシスイ。彼は真っ直ぐになまえの目を見つめている。まるで何かを探るように。ほんの僅かな心の動きも見逃さないように。
 しかしなまえには彼の期待していることがわからない。恨みをぶつけられることを想像していたのに、どういう訳か彼は瞳を輝かせている。
 なまえは困惑の色を浮かべて顔を背けた。それでも、彼は諦めなかった。

「そうだ。オレ達の居住地は前と違う所に移されたんだ。場所、わからないだろうから案内するよ」

 さあ行こう。シスイはなまえの手を掴んだ。喜びさえ感じさせる彼の弾んだ調子になまえは戸惑うばかりだ。

「わ……私は……」
「大丈夫だ。オレと一緒に行こう」

 力強く手を引かれる。なまえはそれを振り払うこともできず、ただ彼の後ろをついていく。
 忍術や写輪眼を使えば不可能ではないのだろう。しかし敵でもない彼を攻撃するような真似はできない。
 どこかで離れられるタイミングがやってくるはずだ。それまでは流れに身を任せることにして、なまえはこの奇妙なうちはの少年と行動を共にするのであった。


 病院を出てしばらく歩いた。里の至る所で復旧作業が行われていた。九尾襲撃の瞬間を目にしていなくとも、その強大な力の恐ろしさは辺りを見ただけでも十分に伝わってくる。
 そんな里の中を迷いのない足取りで進んでいくシスイ。なまえは相変わらず固く手を握られたままその後ろを歩いていた。
 シスイが話したように、うちは一族の新たな居住地は里の端のほうに作られていた。もともと空いていた土地ということもあり彼らは一足先に新たな住まいを得ることができたのである。
 集落への入り口となっている門を潜った。石畳の道が先まで続き、左右には家々が連なっている。
 シスイは早々に住宅地を抜け、裏手にある杉の林との境の道を歩き始めた。二人の他に人の姿はなく、微かな葉擦れと小さな足音が穏やかに続く。
 なまえはずっと下を向いて周りを見ようとしなかった。いつになったら解放してくれるのだろうかとそればかりを考えていた。集落の景色を見せようとしている彼の意図に気付こうともせずに。
 散策するように歩き回った後、シスイは南賀ノ神社の前で足を止めた。鳥居を見上げる横顔はとても穏やかで、およそ彼くらいの年齢の子供が見せる表情にしては随分と大人びていた。

「新しい集落……少し見て回って、どう思った?」

 俯いたままのなまえにシスイは優しく問いかける。なまえが返答に時間を要しても、彼は急かすことなく神社を眺めて待っている。
 何かを言うまでずっとこのままの状態が続くのだろう。しかし、どうと答えられるほど周囲を見ていなかったなまえは、ありきたりな言葉を返すことしかできない。

「のどかで……いい場所だと思います」
「……その話し方やめてくれよ。同じうちはで、他人じゃないんだ」

 シスイは呆れたように肩を竦めた。一貫して壁を作ろうとしている彼女の態度を物ともせず、彼は話を続ける。

「大人達は里の端に移されたことに怒ってるみたいだけどさ……オレはこの場所も悪くないと思ってるんだ」

 沈み始めた陽の光を浴びて、くせ毛の下の額当てが黄金色に染まる。彼の表情が寂しげに見えるのは、きっと夕日のせいだけではない。
 シスイは神社から視線を外してなまえへと向き直った。彼女もまた夕日に照らされており、漆黒の髪が美しく色を変えている。

「なまえ、帰る所はあるのか?」
「…………」
「あるならそこまで送ってやる。ないなら、オレの家に来い」

 二つを迫られた時、なまえはようやく顔を上げた。シスイは真剣な目をしている。ないものを「ある」と答えても即座に見破られてしまいそうで、なまえは返答に窮した。
 どうしてこの少年はこれほどまでに自分に関わろうとするのだろう。なまえは再び下を向き、握られている手を自身のほうに引いた。けれども、シスイは頑なに離そうとしない。

「……大丈夫だから、もう放っておいて……」
「断る。離したら里の外に行くんだろ。こんな子供が外へ出てもすぐに殺されるだけだ。うちは一族だとバレたら……死ぬより酷い目に遭う可能性だってある」

 シスイはなまえが里を出ようとしていたことに気付いていたのだ。彼は先程までの穏やかな雰囲気とは打って変わり、容赦なくなまえを追い詰めようとする。

「仮に写輪眼を持っていたとしても、単純な力の差で大人には勝てない。歩幅の差もあるから逃げ切ることも難しい。現に病院を出た時からずっとオレの手を振り解かなかっただろ。力では敵わず、逃げたところで追いつかれるとわかっていたからだ」

 怒るというよりは諭すような声音で突きつける。それらは一つとして間違っていなかった。なまえは反論できず、苦しげな表情を浮かべて口を閉ざす。彼は全てを見透かしたうえでなまえを連れて歩いていたのである。

「死ぬのがわかっているのに外へ行かせる訳にはいかない。たとえどんな事情があったとしてもだ。……なまえ、オレは一度お前を助けたんだ。それくらいの心配をする権利はあるだろ?」

 やがて彼はまた優しげに微笑んだ。なまえが腕の力を弱めたのがわかったからだ。
 すでになまえは彼から逃れる機を失っていた。病院ですれ違った時に足を止めていなければまだチャンスはあっただろう。平然と振る舞いながらも隙を見せず、曖昧な言葉で凌ごうとしても鋭い指摘で阻まれる。少年は、その何倍も年を重ねているはずのなまえより一枚も二枚も上手だった。
 彼が本当に心配して引き留めようとしているのはなまえにもわかった。だがそれは彼よりも幼い姿をしているからというだけの理由だ。正体を明かし、九尾事件に関わっていることも知れば、この身を案じる者など里に誰一人としていないだろう。
 彼は自分を保護するつもりでいる。この心優しい少年を傷つけることになっても、真実を告げるか突き放すかしなければ。彼を騙して里に留まるなど誰よりも自分自身が耐えられそうになく、なまえは決断を迫られる。

「シスイ……」
「まあシスイちゃん。こんな所までお散歩かい?」

 なまえが意を決して口を開いたのと同時に、後ろからやってきた高齢の女が声をかけてきた。少し背中の丸まっている女はにこにこと笑顔を浮かべて二人を見ている。

「隣の子はお友達? 手なんて繋いで、仲がいいんだねえ」
「いや、この子は……」

 なまえは一度だけ女に目を向けて再び足元に視線を落とした。それを見たシスイはほんの僅かな間に思考を巡らせて、言い淀んだ言葉の先を改めて口にする。

「なまえです。うちはなまえ」

 なまえに名乗った時のようにはっきりと発音した。誰も見ていないところでなまえは僅かに眉根を歪める。

「うちは……なまえ? なまえって……そう言ったのかい、シスイちゃん」

 そう確かめる女に対し、シスイは「はい」と頷いた。すると、女の様子が一変する。

「あんた、親は誰だい。誰がその名前を付けた? それは一族の人間なら誰もが知っている……うちはの名を汚した忌まわしい女の名前だ!」

 次第に怒りを伴い始めた女の声が辺りの空気を震わせた。シスイは豹変した女の目をじっと見つめる。繋いだ手を通してなまえの心の動きを感じ取りながら。

「化け狐もお前が呼んだんだろう! お陰で一族はこの有様さ! 呪われているんだよ、その名前は! これ以上災いを招く前に里から出ていけっ!」

 オビトが言っていたことは本当だったのだ。それを理解したなまえは、決して顔は上げずに一歩後ろへ下がる。
 そうだ。これが正しい反応だ。自分は恨まれて然るべきなのだ。里にいることを許される存在ではない。それらを実感して、胸に痛みが広がっていく。
 けれども、シスイは手を離そうとしない。彼は力を緩めるどころか「逃げるな」と言わんばかりに強く握ってくる。

「ごめんなさい……」

 女とシスイ、どちらに向けた謝罪だったのか。なまえはチャクラを練り、雷の性質に変化させたものを微かに手の平に放出した。彼が驚いた隙に手を解き、杉の林がある方向へ駆け出す。

「なまえ!」

 シスイの声が飛んでくる。彼もよくわかっただろう。一体どういう存在を守ろうとしていたのかを。あの女がきっかけを作ってくれたのだと思い、なまえは痛みの中で感謝を零す。
 シスイは当然のようになまえの後を追う。しかしその前に。未だ眉を吊り上げている女に振り向き、臆することなく言葉を放つ。

「なまえは、そんな奴じゃない」

 女の反応も待たずに駆け出した。


 なまえは杉の林を真っ直ぐに走った。この向こうには高い壁がある。それを越えたら里の外に出られる。
 オビトが見せようとしていたものは確かに見た。もう十分にわかった。ここでの用事は済んだのだ。これ以上留まる必要もない。
 白い壁が見えた。もう少しだ。そう思った時、目の前に降ってきた黒い影に道を阻まれた。
 後に「瞬身のシスイ」と呼ばれるようになる彼から逃れられるはずがなく、なまえは足を止めてその顔を見上げた。

「……ごめんな。びっくりしただろ。皆、少し誤解してるだけなんだよ」

 シスイは困ったように眉尻を下げて笑う。さあ戻ろう。彼は手を差し伸べた。まだなまえを連れ帰るつもりでいるのだ。
 底知れぬその優しさになまえは静かに首を横に振る。これ以上関わっても彼に悪い影響を及ぼすだけだ。

「誤解じゃないよ。全部本当のことだから……もう私に関わらないで」

 己の罪を認めるのは勇気のいることだ。なまえは声が震えないように拳を強く握り締める。

「……誤解じゃないって? それは本気で言ってるのか?」

 しかし、シスイはいつまでも冷静だった。

「本当にお前が九尾を操って里を滅茶苦茶にしたのか?」

 冷静に、容赦なく真偽を確かめようとする。

「どうなんだ、なまえ?」

 九尾を操り里を襲う。なまえはその計画を知りながら何もできずにいた己を責めているに過ぎない。実際にそれを行ったのはオビトだが、なまえは問いに対してどちらとも答えることができず黙り込む。

「……違うんだろ。適当なことを言うのはよせ」

 些か呆れた様子でシスイが言う。しかし、正確には違うというだけで、自分にも一因があることを誤魔化したくないなまえは、全てを明かすつもりで口を開いた。

「シスイ……私は……」
「お前のその顔はな。止められなかった、っていう奴がする顔だよ」

 なまえは瞠目するしかなかった。一体この少年はどこまで見透かしているのだろう。自分と同じように体だけが子供になっているのではないかと疑ってしまうほど、彼は聡い。

「お前はやってない。だから堂々としていればいい。あのおばあさんのような人にはオレが説明するから心配するな」

 全てわかっているような素振りを見せながら、シスイは尚もなまえを里に留まらせようとしている。
 何をしても彼に敵わないことを悟ったなまえは、逃げようとする考えも失せてしまい、半ば観念した様子で彼に尋ねた。

「どうして……そこまでするの?」

 すると、シスイはふっと表情を緩めた。彼は、目の前の少女を安心させるべく笑みを浮かべるのだ。何度拒絶されようとも、決して諦めずに。

「やっと聞いてくれたな」

 喜んでいる、というよりは安堵を含んだ声音だった。シスイは、それについてなまえが問うのをずっと待っていたのである。

「見せたいものがある。一緒に来てくれるか?」

 差し伸べた手を戻す。繋ぎ止めなくても、彼女が逃げ出すことはもうない。やがて小さく頷いたなまえを見て、シスイはとある場所へ向けて歩き出した。


 壁伝いに歩いた先でシスイは止まった。そして、「ここだ」となまえを隣に立たせると、その壁に目を向けたまま話を始めた。

「……オレが生まれるよりもずっと前のことだ。一人の子供が、悪い大人に連れ去られる事件が起きた」

 シスイの隣で、なまえは白く高い壁を大きく仰いだ。彼の声に耳を傾けながら徐々に視線を下げていくと、その一部だけ僅かに色が違っていることに気が付いた。

「その子供は里内での任務の最中、どうしても気になることがあって里の外に出た。そこを狙われて誘拐されたんだ」

 子供は縄で縛られ、離れた場所にある小屋の中に閉じ込められた。けれど、彼と知り合いだった女性がすぐに助けに来てくれた。
 その人は子供を背負って里のすぐそこまで戻ってきたが、追っ手に囲まれて足を止めた。それでも、子供だけでも無事に帰そうとして最後まで諦めなかった。

「この壁、よく見るとその辺りだけ色が違うだろ? その女の人が子供を逃がそうとして壁に穴を開けたからなんだ」

 それを修復したために色が少し変わってしまったのだ。とはいえ、里を守るための壁を破壊するなんて普通じゃできない。シスイはそう呟いて小さく笑った。

「その二人は同じ一族の生まれだった。女の人の名前は、うちはなまえ」

 大切なものへ語りかけるようにその名を紡ぐ。シスイは、ゆっくりとなまえのほうを向いた。

「そして、子供の名前はうちはカガミ。……オレの祖父だ」

 あちこちに跳ねているシスイの髪がそよ風に揺れる。なまえは、その面影が彼のものであったことを悟った。