おあずけ


 帰宅して玄関の戸を閉めた時、マダラは微かな違和感を覚えた。草履を脱ごうとしていたのを止め、しんとした空間を見渡す。
 花瓶の位置が少しだけずれている。そんな程度の違和感だった。
 だが、今は花瓶を出していないし、置き場所を変えられるような飾り物はこの家にほとんどない。変化があるとすればマダラやなまえの草履の有無くらいである。
 なまえの草履はあった。先に帰っていたらしい。マダラは草履を脱いで家に上がり、その隣に揃えて置いた。
 そんなことに異変を感じるはずがない。一体何なのだろう。そう思いながら廊下を歩いていると、何となくその原因に気が付いた。
 家にいるはずのなまえの気配がない。寝室、居間、台所と普段なまえが過ごしている部屋を見て回る。風呂場も確認したがどこにもいなかった。
 マダラが帰宅した時には必ず「おかえりなさい」と言いに来るのだ。昼寝していたり、取り込み中であったりしない限り。
 マダラは少し心配になりながら、ほとんど使っていない書斎へと向かう。何かを仕出かした時、なまえはこの部屋に隠れることがあった。
 今朝はいつもと変わった様子もなく、先に家を出る彼女を見送った。それから顔を合わせることはなかったためマダラにはなまえが隠れる理由など見当もつかない。けれども、不思議とここにいるような気がしてならなかった。
 もしかすると本でも読んでいるのだろうか。自分の家であるため遠慮なく襖を開ける。
 そこになまえはいた。
 家の中だというのに外套を着込み、部屋の隅で壁のほうを向いて座っている。まるで視線を遮るかのように顔の目の前で開いている本は上下が逆さまになっており、慌てて手にしたであろうことが見て取れる。
 気配まで消していたのだ。何かを隠しているのは明らかである。無言で視線を送るマダラを、なまえはそろりと振り返った。

「お……おかえりなさい」

 ちらっとだけ目を向けて、再び本で顔を隠したなまえ。字を読む近さではない。頭まで覆った外套のせいで、露出しているのは本を持つ手のみだ。あまりにも不審な様子のなまえを放っておくこともできず、マダラは部屋に入った。
 隠し事などをしても大抵ろくなことにならない。問題を抱えているなら早めに聞き出して対処するのが最善である。マダラはこれまでの経験からよくわかっていた。
 なまえから話を聞くため、膝をついて目線の高さを合わせる。

「何かあったのか?」

 本の隙間からちらりと覗くなまえ。未だに上下が逆になっていることに気付いていない様子からも、それを読んでいないのは明らかだった。

「……オレには言えないことか?」

 口を閉ざしたままのなまえに問う。手を差し伸べてくれる者は他にもいるため、その時になまえが頼りやすい相手を見つけたらいい。マダラはいつもそう考えていた。それはなまえにも伝えていることだ。
 それでもやはり一番に助けを求めるのは自分であってほしい。そんな本心を隠しながら向ける眼差しは変わらず優しいものであった。

「…………」

 その思いを感じたのかなまえはようやく本を下ろした。壁に向けていた体を少しだけずらしてじっとマダラを見つめ返す。
 その瞳から微かな困惑が感じられた。言いたいが、言えない。そのような雰囲気だった。
 しかし、その時マダラは気付く。
 外套で覆われたなまえの腰の辺りから微かに衣擦れの音がすることに。
 瞬きの後、マダラはなまえから視線を外してそちらに手を伸ばした。目に見える何かがあるなら見たほうが早いと考えたのだ。
 するとなまえははっとして体勢を変え、マダラの手から逃れた。それは、そこに原因があるというのを白状したも同然であった。
 こうなってしまえばもう誤魔化すことはできない。それは本人がよくわかっているだろう。
 マダラはなまえに視線を戻した。勢いよく動いたためか頭まで被っていた外套が半分ほど捲れている。
 あるはずのないものが、そこに見えた。
 マダラは眉を寄せる。そしてなまえに防がれるよりも早く頭の外套を引っぺがした。
 完全に露出したなまえの頭部。そこにあったのは、二つの尖った耳。顔の横にある本来の耳とは別に、頭の上に生えている。
 なまえは息を呑み、両手で耳を隠した。雑に巻き付けていただけの外套が肩からずるりと落ちていく。
 ――なら、先程の腰の辺りの衣擦れは。
 もしやと思い、マダラは今度こそそこを確認するべく手を伸ばす。観念したのかなまえはじっとして動かなかった。
 ずり下がった外套をそっと脇によける。マダラの想像したとおり、なまえの腰の後ろにそれは生えていた。
 マダラはもう一度なまえを見た。なまえは頭部を押さえたまま、視線を合わさぬように余所を見ている。
 無言の間も、それはふりふりと左右に揺れていた。
 どうしてかなまえは、犬のような耳と尻尾を生やしてしまっているのだった。


 尻尾が潰れるためかなまえは服を捲り上げて座っていた。下着と肌が丸見えになるのを不憫に思い、マダラは外套を返した。するとなまえはすぐさま体に巻きつけて全身を覆い隠した。その顔は、少し赤く染まっている。

「変化か?」
「たぶん……」
「たぶんとは何だ」
「……任務先でちょっと……」

 任務に関わることだから詳しいことは話せない。暗にそう言っているのだった。

「戻るんだろうな」
「効き目が切れたら戻るはずだと……」

 曖昧な言葉を聞きながら、なまえに下を向かせるマダラ。ぴんと立っている異物に触れようとすると、まるで迎え入れるかのように耳が外側へ倒れた。顔に手を添えながら付け根を探る。やはり、どう見ても生えていた。
 なまえの髪と同じ黒い毛に覆われている。尾も黒だった。色が違えばもっと目立っていただろう。
 そして、頭越しに見えるその先で外套が一定の間隔で揺れているのがわかった。その下で何が起こっているのか考えて、そのままぼんやり見ていると、体勢に疲れたのかなまえが少し寄りかかってきた。
 その時、頭を撫でたのは無意識だったかもしれない。すると尻尾があるはずのその部分の揺れも速くなり、マダラはまたその様子をしばし眺めて、尋ねる。

「……尾は自分で動かしているのか?」
「え? いえ、勝手に……」

 体を離したなまえは外套の上から腰の辺りを押さえる。また、恥ずかしそうに頬を赤く染めながら。
 これは、とマダラは僅かに目を細める。
 犬が尻尾を揺らすのは嬉しい時や楽しい時、喜んでいる時だというのは誰しも聞いたことがあるだろう。
 普段言葉にされないなまえの感情がそこに表れているのだとしたら。
 ――少し、困ったことになるかもしれない。


 ひとまず、いつまでも家の中で外套を着ている訳にもいかないため、マダラは古くなった服をなまえに持ってこさせて尻尾を出すための穴を開けた。尻尾に触れられるのはくすぐったいらしく穴に通すのは自分でやっていた。奇妙な光景でしかないが、快適になったことになまえは喜んでいた。
 しかし、根本的な部分の解決には至っていないのだと気付くと尻尾をだらりと下げて寝室のほうへ歩いていった。
 なまえの表情に比べると何倍もの感情の動きがそこにあり、マダラはつい見比べてしまう。
 忍であるが故に日頃から表情を抑えているのか、それとも、尻尾の揺れが大げさなだけなのか。
 今まで目に見えなかったものが見えてしまうというのは、なかなかに厄介なことである。
 それからなまえは寝室の日陰になる場所に座り、縁側の向こうに見える庭を眺めていた。何をする気にもなれないのだろう。好きだったはずの昼寝もせずに、ただじっと膝を抱えて元に戻るのを待っている。
 マダラは心配になって様子を見にいった。ゆっくりと、廊下から部屋の中を覗き込む。
 尻尾は垂れたまま微動だにせず、憂いを帯びた表情で外を見ている。風が入って髪が靡くと、どうしてかその瞬間だけ、異質な耳の立つ横顔に妖艶さを見てしまった。
 ついじっと見つめていると不意になまえが振り返った。視線が合った途端、尻尾が持ち上がり、控えめに揺れ始める。なまえの表情にはあまり変化がないにもかかわらず。
 マダラは声さえかけず、そっとその場を離れた。少し様子を見にきただけで用事があったのではないからだ。期待させてしまったことを悪く思いながら、台所で水を一杯飲んでまた居間へ戻る。
 通り過ぎる時にちらりと見ると、尻尾は再び垂れ下がっていた。


 夜になってもなまえの体は元に戻らなかった。そのため買い物にも行けず、残っていた食材を使って夕飯を用意した。
 多少質素になったところで不満を覚えるマダラではない。食後は片付けを自ら行い、その間になまえを風呂に入らせた。
 他者からすればたいしたことでないように思えても、当の本人にとっては一大事である場合もある。マダラはなまえの気持ちを軽んじることはしなかった。
 今夜は早く寝て、憂鬱な一日に幕を下ろせばいい。明日目が覚めた時には全てが元通りになっていて、いつもと変わらぬ日常が帰ってくるだろう。
 片付けを終えたマダラはそんなことを考えながら布団の用意をしていた。風呂を上がったなまえがすぐにでも眠れるように。
 シーツを掛けて整え終えたところで、ちょうどなまえが戻ってくる。

「マダラさん、次どうぞ」

 顔を上げて、そこにあったなまえの姿にマダラは一瞬動きを止めた。
 普段のなまえからは考えられないほど露出した脚。なまえが着ているのは上に羽織った一枚のみで、それも下着が見えるか見えないかという丈のもの。
 先程、尻尾を通す穴を開けたのはなまえの仕事着である。捨ててもいいくらい着古したものを一着犠牲にしたのだ。
 しかし、非常事態とはいえ仕事着で布団に入りたくはないだろう。マダラの服なら穴を開けずとも窮屈にはならないということで、寝間着の上を一枚貸してやったのである。
 なまえは髪を拭いながら畳の上にぺたりと座った。「ありがとうございます」と布団を敷いたことに礼を言われると、マダラは一度立ち上がりなまえの近くに行って腰を下ろした。

「他に異変はないか?」
「はい、他は何も……。この耳も音が聞こえる訳じゃないみたいです」

 なまえは本来の耳を塞いでみせた。そうか、とマダラが零すと、なまえは手を下ろしてその顔を見上げる。

「もしかして……心配してくれていたんですか?」
「当たり前だ」

 マダラはなまえがそうなった経緯を詳しく知らないのだ。薬を盛られたとか、罠に嵌められたとか、悪い想像をして心配するのも無理はない。マダラが即答するとなまえは申し訳なさそうな顔をして下を向く。

「体は大丈夫なんです、本当に……。でも、こんな変化の一つも解けない自分が情けなくて」

 毛先から落ちる滴のように、なまえの口から零れる胸の内。なまえは基本の忍術である変化が扱えないことを気にしているようだった。
 マダラは内心でほんの少しだけ呆れた。人の心配など物ともしないくせに、誰も問題にしていないところを気にして落ち込んでいるなまえ。
 そんななまえを見ながらマダラは言葉を返す。

「誰にでも得手不得手はある」

 なまえの手から手拭いを攫い、途中でやめてしまった彼女の代わりに拭いてやる。犬の耳はどう扱えばいいかわからないためそこには触れないようにして。

「……マダラさんにも?」

 そうしていると、なまえは突然顔を上げた。

「マダラさんにも、苦手なことがあるのですか?」

 ずいっと迫りながらなまえが問う。前傾の姿勢になれば、隠れていたはずのものが視界に映る。

「ああ、ある」
「もしかして、変化とか……」
「あれはできんほうが珍しいな」

 マダラにそう言われてなまえはがっくりと項垂れた。同時にその向こうの尻尾も垂れ、連動している様がどうにもおかしく、マダラはつい笑いを漏らしてしまった。
 基本的にできないことのないマダラが不得手とするもの。それはなまえの心の動きを読むことだった。なまえに関してだけは思い通りにいかないことのほうが多く、翻弄されてばかりであった。だが、マダラはそれで構わなかったし、そんな彼女のことを受け入れていた。
 けれども、今日は少し違う。なまえの表情以上に動く尻尾が教えてくれる。これまで見えなかったものを、今だけは知ることができる。
 たとえば、視線が合っただけで喜んでいるらしいこと。真面目そうな顔をしていても嬉しがっている時があること。頭を撫でるのは歓迎されていたこと。マダラが近くにいる時、尻尾は常に揺れていた。素っ気ないふりをしている間も。
 自惚れてしまいそうだった。いつも、なまえの気持ちはあったのだと。
 マダラはくしを取ってきてなまえの髪を梳かした。耳が少し邪魔だったが綺麗に整えることができた。艶のよさに満足しながら、もしなまえが本物の犬だったら毛並みは抜群に美しかっただろうなと訳のわからないことを考える。
 そして、マダラは一つのことに気が付いた。今は緩く揺れている尻尾。頭に手を伸ばそうとすると大振りになり、耳も倒れる。そして実際に撫でると小刻みに高速に揺れる。期待から喜びへと変わる流れが目に見えるのだ。つい、そこを見ながら試してしまった。
 大人しく、されるがままのなまえ。嬉しくも恥ずかしいような表情と、マダラの服に身を包んでいる格好が艶めかしさを醸し出す。
 マダラは、この愛らしさの化身を前に屈せざるを得なかった。
 初めに見た時から思っていたのだ。今までは理性的に頭の隅に追いやっていただけで。
 言葉の代わりに感情を目一杯表現してくれる耳と尻尾。恥じらいながらも触れられるのを期待しているようななまえの様子。そして、マダラの服一枚という無防備な格好も。全てが合わさって、自分に可愛がられるためだけに存在しているのではないかと錯覚してしまう。

「なまえ……」

 最後に、確かめるようになまえの両頬に触れた。その指先の熱に気付いたなまえは不思議そうにマダラを見つめ返す。熱を帯びるのは血が上っている証だ。
 指を滑らすとなまえは気持ちよさそうに目を細め、耳を倒し、尻尾を揺らした。マダラはどこか冷静な頭でそれを眺めながら、そうだ、と考えを巡らせる。
 こんなにも好き合っているのに何を遠慮する必要があるのだろうか。自分達は夫婦なのだ。愛を確かめ合うことに問題などあるはずがない。
 ――こんなものを生やしているからいけないのだ。
 マダラは何かに言い訳ばかりをしていた。なまえの体を抱き寄せ、横に敷いている布団にゆっくりと倒れ込む。
 その瞬間、なまえが悲鳴を上げた。
 マダラは驚きながらも飛びついてきたなまえを支えて起き上がった。なまえは「折れた、折れた」と言ってマダラにしがみ付いている。

「絶対、折れた……」

 何事かと思えば尻尾のことだった。後ろに倒された際に自分の重みで潰してしまったのだろう。その存在はわかっていたはずなのに、配慮するというのが頭になかった。
 マダラは申し訳なく思いながら尻尾に手を伸ばす。あまりの痛みに確かめるのを恐れている本人に代わって優しく触れた。

「……折れてはなさそうだ」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ……。悪かった」

 謝るマダラになまえはしがみ付いて離れない。慰めるように抱き締めると垂れたまま左右に揺れだす尻尾が見えた。いろいろな感情がせめぎ合っているなまえの内心が垣間見え、マダラも複雑な気分に陥る。
 なまえにとっては元の体に戻るのが一番なのだ。マダラは自分勝手な欲をぶつけようとしたことを反省しつつ、痛みにべそをかいているなまえをしばらく慰めた。
 落ち着いた頃、マダラはようやく風呂に入った。先に寝ているだろうと思いながら寝室に戻るとなまえはまだ起きていた。布団に足を入れ、本を読んでいる。
 マダラに気付くと顔を上げて尻尾を揺らしはじめる。やはり、今のなまえに見つめられると妙な気分にさせられる。マダラは髪を拭いながら布団の脇に座った。

「戻る気配がないな」
「はい……明日もこのままだったら休みをもらうつもりです」

 なまえは本を閉じる。向きは逆さまになっておらず、今度はちゃんと読んでいたようだ。

「新しい本か?」
「はい。一人の忍と相棒の犬が旅をする話です」

 何故、今そんな本を読んでいるのかマダラは聞いてみたくなった。

「ありがちな話だ」
「犬が人の言葉を話すんですよ。そのせいであまり犬っぽくなくて」
「忍犬なら喋ることもあるだろう」
「そうなんですか? 私は見たことが……」

 その時、なまえの体が白煙に包まれた。ようやく戻ったか、とマダラは焦ることもなく煙が晴れるのを待った。

「も、戻った……?」

 なまえはぺたぺたと頭を触り、異物がないかを確かめている。そしてマダラの顔を見たかと思うと、突然立ち上がって寝室から出ていった。
 脱衣所のほうへ駆けていく音がする。鏡を見にいったのだろう。また忙しなく帰ってきたなまえはマダラの前に正座して「戻りました」と満面の笑みを浮かべて報告する。
 見ればわかる、などとは決して返さない。マダラは手拭いを床に置き、耳があったはずの場所にそっと触れた。

「戻ったのか」
「はい」
「……残念だ」
「え?」

 マダラの呟きを聞いてなまえは首を傾げる。尻尾があればぴたりと動きを止めていただろう。マダラは手を下げていき、それがあったはずの場所に指を這わせる。かろうじて腰回りを隠しているだけの服はあまりにも隙だらけであった。
 なまえの背筋がぴんと伸びる。正座した膝の上に両手を置いたまま、困惑した瞳で訴えるようにマダラを見つめる。さわさわと撫でられて徐々に頬が赤くなっていった。
 なまえの訴えを汲み取るかはマダラ次第である。やめてほしいならそう言えばいいのに、黙っているから好きなようにされてしまうのだ。
 一度おあずけを食らっているマダラがこの後どうするのかは言うまでもないだろう。それを予感したなまえが迫り来る体を押し返そうとしたが無意味に終わった。
 残念だ。マダラのその言葉はどちらにとっての意味だったのか。なまえは存分に教え込まれるのであった。