行くな。
その一言を口にできたならどれほど楽だろう。
夕食中、マダラはぼんやりと考える。なまえの作った味噌汁を噛み締めるように味わいながら。
けれども、その憂いを表情に出すことは決してしない。
いつものように短い相槌を打って話の続きを聞いている。
明日から任務で一日留守にするというなまえの話を。
「……そう遠くない所だから早く終われば明日のうちに戻れるかもしれません」
「そうか」
「でも、夜は先に休んでいてくださいね。いつ頃帰れるかわからないので……」
「ああ」
なまえは気を遣わせぬようにと笑みを浮かべている。
返事をしながら、マダラは上の空だった。
翌朝、マダラが目を覚ました時にはすでになまえの姿はなかった。
明け方に出発することは聞いていた。もちろんマダラは見送るつもりでいた。それなのに、どうやら寝過ごしてしまったらしい。
体を起こし、すっかり明るくなっている部屋の中を見渡す。なまえの布団はまるで初めからなかったかのように綺麗に片付けられていた。
マダラは深く息を吐いた後、日の光を拒むかのように再び布団を被った。
寝坊をしてしまったのは昨晩いろいろと考えていて寝付けなかったせいだ。言うまでもなく、なまえのことを。
なまえが日を跨ぐ任務に行くことは何度かあった。マダラはなまえが任務を優先することは承知している。里を治める側の者として人手が不足しているのも理解しているし、適材適所、なまえにこそ任せたい仕事があるのもわかっているつもりだ。
なまえもなまえで頼まれれば断ることはしないだろう。自分にできることなら、と何にでも一生懸命なのが彼女だからだ。
扉間もそれをわかっていて任務を渡しているのだ。そこに二人の信頼関係のようなものが見えてマダラは少し不愉快な気分になった。
しばしの別れを惜しみ、夜の時間をなまえと過ごそうかとも考えたが、朝早くに出るというなまえのために静かに眠らせた。
そうしていつまでも考え事をしていたせいで寝るのが遅くなり、見送りの時間に起きられなかったのである。
なまえも気を遣い、静かに出ていってくれたのだろう。
まるでガキのようだとマダラは自分自身に呆れる。
今日一日はなまえの顔を見られない。そんな時間が少しでも速く過ぎ去るように、もう一度眠ることにした。
朝、一度でも顔を見ていれば。
朝、一言でも言葉を交わしていれば。
この寂しさも幾分か和らいでいたのだろうか。
なまえが任務で外に出るのはいつものことだが、丸一日会えないのとは訳が違う。
いっそ眠らずに朝まで起きていればよかったと昼が過ぎてもぐずぐずと悔やみながら、家にいても仕方がないため本部へ行って仕事をすることにした。
たった一日の留守だというのにマダラはかなりのダメージを受けている。
それを表に出さないようにしてもすぐに感付く男がいた。同じ場所にいた柱間はすかさずマダラを夕食に誘った。なまえが任務に行ったことを知っているため事情はすぐにわかったのだろう。
柱間は、なまえがいないことで上の空になっているマダラを、幼い頃からの友人として、そして二人の仲を見守っている立場として放っておくことはできなかった。
多少拒絶の意を示されても強引に連れていくつもりだったが、マダラはあっさりと誘いに応じた。これはかなりこたえているようだと柱間は内心で苦笑を零した。
日が沈んだ頃、いつもより遅くまで残っていたマダラと柱間は本部を出て適当に空いている店を探した。
「今日はオレの奢りだ」
道の途中で柱間が言う。元気付けようとしているのがわかったが、マダラはそれに対して何も言わず、ただ鼻で笑って返した。
どうしてか不機嫌にはならない。柱間は嬉しかった。
しばらくいろいろなことが重なって忙しく、二人で食事をするのも、こうして肩を並べて歩くのも久しぶりだったのだ。
なまえも留守なら遠慮なく付き合ってもらおう。今夜は存分に楽しむことを決めた。
見つけた店に入る直前、柱間は後方を振り返る。先程から、往来に紛れてこちらを見つめる視線を感じていたのだ。
「誰だ?」
通り過ぎた所の物陰に女が立っている。
柱間は声を潜めるようにしてマダラに聞いた。
「知るか」
マダラはそちらを振り向きもせずに答える。
気付いていながら無視していた。なまえでないのなら見る気もない。
けれども、妙に気持ちの悪い視線だった。
マダラや柱間ほどの者であれば問題が起こってからでも対処ができる。過酷な時代を生き抜いてきた実力と経験がそれを可能にする。
マダラが心配すべきはなまえのことだ。なまえにも優れた部分はあるが、たとえば里の人間と対峙する羽目になった場合、余程の事態でない限り躊躇のほうが勝るだろう。その甘さから咄嗟に自分を守れるだけの力はなまえにはない。同じく甘い考えを持つ柱間との大きな違いはそこだった。
だからこそ目の届く場所に、すぐに駆けつけられる場所にいてほしい。そう思うのになまえは平気で遠くへ行ってしまう。
今だってまさにそうだ、と考えてばかりいても仕方がないのに、マダラは不満を募らせていく。
食事を楽しんだ後、柱間と別れて帰路を辿っていた。たまにはいいかと酒も飲んだが酩酊するほどではなく、思考も足取りもしっかりとしている。
空はところどころ雲がかかっていて月明かりも遮られている。夜はすっかり深まっていて、普段ならもう寝ている頃かもしれない。
なまえと暮らすようになってからマダラの就寝は早くなっていた。夜はあっという間に眠り、朝は日が昇るのと同じくらいに起きているなまえ。できる限り朝もなまえに合わせて起きるようにしているが、その後もう一度眠るのがほとんどであった。
マダラはそれでよかった。なまえはなまえのままで、無理に合わせようとするのではなく自由にしてほしい。そうするなかで思いを通わせることができるなら、それで十分だからだ。
しかし、はたしてなまえに伝わっているのだろうかと心配になる時がある。今も自分ばかりが恋しがっているように思えてならない。
柱間から家でのことを根掘り葉掘り聞かれたせいか、マダラはなまえのことばかり考えてしまっていた。
だが、これから寝て明日になればなまえは帰ってくるのだ。半ば投げやりな気分で誘いに乗ったが、確かに気は少し紛れたように感じる。マダラは友の存在に少しばかり感謝した。
心に平静を取り戻し、深い息を吐ききったその時。
砂を踏む音が、後ろから聞こえてきた。
「マダラさん!」
その声にマダラは足を止める。
「マダラさん」
もう一度。
名を呼びながら駆け寄ってくるのは。
「なまえ……」
幻覚だろうかと疑ってしまうのも無理はない。立ち止まるマダラの前まで来たなまえは、ふう、と一度呼吸を整えると満面の笑みでその顔を見上げた。
「任務じゃなかったのか?」
マダラはわずかに戸惑ったように口を開く。
「それが予定よりも早く終わってしまって……。マダラさんは? ……散歩ですか?」
「柱間と飯に行った帰りだ」
そう返すと、なまえは意外そうな顔をした。しかしすぐに目を細め、どうしてか嬉しそうに笑う。
「そうだったんですね。私、これから本部に行くので先に帰っていてもらえますか?」
「ああ」
なまえは笑みを絶やさずに言う。いつもより弾んでいるような声の調子も含め、再会を喜んでいるように感じられた。
駆けていく背中を見送り、マダラも歩き出す。
今のたった少しの間に、胸の中は温かく満たされていた。
しかし、そういう時にこそ事件は起こるもので。
マダラが家に着いた時、門と、玄関が開けられているのに気が付いた。
普段から開け放しにすることはないため一目で不自然だとわかるのだ。
異様な匂いが鼻についたと思ったら、何やら物音まで聞こえ始める。全ての感覚が現実へと引き戻されていく。
マダラはどこか他人事のように、冷めた視線を向けながら近付こうとする。すると玄関から雪崩れるように何かが倒れ込んできて、マダラの足元には小さな刃物が滑ってきた。
倒れているのは先程別れたはずのなまえ。そして知らぬ誰かだった。
下敷きにされていたなまえはその体を押しのけて起き上がる。女の体に触れて動かぬことを確かめると、ふいに後ろを振り返った。
地面を辿るように下方に向けられていた赤い眼は、すぐにマダラの存在に気が付いた。
「マダラさん……」
まるでそこにいるとは思わなかったかのような反応。
マダラは足元の刃物を拾う。なまえのものではない。握った感触だけでそれが使い込まれていないのがわかった。
マダラはそれを懐に仕舞い、なまえのそばまで行った。なまえが振り返ったのはこれを探すためだ。
「本部に行ったんじゃなかったのか?」
なまえの隣に屈む。怪我がないのは様子を見ればわかった。なまえは困ったように眉尻を下げる。
「……家の前を通った時、妙な匂いがすると思って中を覗いたらこの人が……。マダラさんの知り合いの方でしょうか?」
そう問われ、倒れている女を見るマダラ。全く見知らぬ顔だったが、どことなく感じるものには覚えがあった。
「……知らんな」
先程、柱間と店に入る直前こちらを見ていたという女。恐らくそれだろう。
まとわりつくような視線を向けられたというだけで、それ以外の何かを知っているわけではない。マダラはそういう意味で首を横に振る。
開けられた玄関から外へ流れてくる匂い。甘くねっとりとした感じであまり嗅いでいると気分が悪くなりそうだ。
「鼻は大丈夫か?」
マダラはなまえに視線を戻す。
「はい。吸い込まないようにしていたので」
「なら本部に行ってこい。扉間がいるうちにな」
そう言われたらなまえは行かざるを得ない。マダラはわかっていてそういう言い方をした。
なまえのかけた幻術を上から書き換える。なまえはそれを見て写輪眼を戻し、気がかりそうな様子を残しながらも立ち上がった。
数歩離れ、屋根の上へ跳んでいく。その姿が見えなくなった頃、マダラは倒れている女に顔を向けた。
マダラが一人であれば、この程度は些事だとして放っていただろう。しかし今はなまえがいる。この家に侵入などした時点でこの女の運命は決まってしまったのだ。
その前に、と聞いておくべきことを喋らせる。あらかた想像通りの内容に退屈さを覚えながら、拾った刃物を手元で弄ぶ。
刃に微かな光が反射するのを見てマダラは思う。
あの時、自分がいなければなまえはこの女を殺していただろうか、と。
うちは一族、子供、それから里。なまえが優先するものの順位はそういった感じだ。自分がその括りの中にあるのかわからないが、もしも目の前に脅威が現れた時、なまえは他と同じように自分を守ろうとするだろう。マダラはそれを疎ましいと思ったことはなく、むしろ、そういったふうに特別扱いをしてこないのが心地いいとさえ感じていた。他の者では有り得ない、なまえのいいところの一つである。
そんななまえとの穏やかな暮らしを壊そうとする者をマダラが許すはずがない。たとえ自身を標的にした犯行だったとしても、逃してしまえばいずれなまえに牙をむくのも時間の問題であったはずだ。
恨みを胸の内に留めておくだけならまだしも、実行に移した以上は報いを受けるのも当然と言える。
マダラは女を片付けた後、妙な香の匂いを逃がすため家の換気をし、その間に風呂の用意をした。やがて帰ってきたなまえを先に風呂に入れると、寝床の準備をして、それから庭先に出た。
なまえほどではないがマダラもそれなりに鼻が利くため、自然の匂いを取り込みたい気分だったのかもしれない。
深く吸い込んだ息を溜め息まじりに吐く。いつの間にか夜空は晴れ渡っていた。
月を見上げ、その淡い光に眩しげに目を細めるマダラが思うのは――。
「…………」
なまえのことだった。
耳を澄ますと確かに聞こえる。そう広くはない家だから風呂場の音も届くのだ。
なまえの気配を近くに感じるというだけでこんなにも安心するものなのかと、幾度目かの留守を経験してマダラは思う。
なまえは何かを守るためなら躊躇なく危険に飛び込もうとするところがある。無茶はしていないか、怪我はしていないかとマダラが気を揉むのも無理はない。それを周りに悟らせることは決してなかったが。
この里においても全く危険がないとは言えないのだ。うちはに恨みを持つ者が、いつ先程のように攻撃を仕掛けてくるかわかったものではない。たとえマダラだけを狙ったものだとしても、一緒にいる以上なまえが巻き込まれる恐れも十分にある。
だから、自分が守らねばならない。なまえが何の心配もなく穏やかに笑っていられるように。
失ってからでは遅いのだ、とマダラは己に言い聞かせる。
「――マダラさん?」
静寂を破る声。
けれども不快さは微塵も感じない。振り向くと手拭いを肩に掛けたなまえが寝室から覗き込んでいた。
また、なまえに名を呼ばれただけで胸に熱が灯る。なまえの存在があるだけでマダラの世界は色付いていく。この闇夜でさえも華やいで見えるほどに。
マダラはなまえへと近付いた。縁側に立つなまえに少し見下ろされる形になる。
相変わらず短い入浴だ。それでもなまえは十分に温まっているらしく、風呂上がりの熱を感じた。
雑に拭かれた髪の先から滴が垂れて足元に落ちる。目線の高さが気になったのかなまえは徐に腰を下ろした。湯冷めする前に戻してやろうかと思ったが、マダラは少しだけ二人の時間を楽しむことにした。
「今夜の月は、いつもより大きく見えますね」
言われてみれば確かにそんな気もする。マダラは「そうだな」と返しながら、不思議そうに空を見上げるなまえの隣に腰掛けた。髪を拭いてやろうかと手を伸ばす。その時、近くなったなまえの横顔に、マダラは目を奪われてしまう。
どこまでも続く広い空に負けんばかりに見開かれているなまえの瞳。吸い込まれそうな、とはこういうことを言うのだろう。月の光をきらきらと反射させながら星々を眺めるその瞳が、マダラにはどうしようもないほど美しく見えた。
見惚れている視線に気付いたなまえがマダラのほうを向く。
闇を知りながら決して染まることはない。誰にも汚すことのできない、なまえのその心を写したかのような。濁りのない透きとおった瞳が、じっとマダラに向けられる。
「――綺麗だな」
そんな言葉が口をつく。
酒が入っているせいだと心の内で言い訳をする。酔っていないことなど自分が一番わかっているのに。
けれどもマダラは誤魔化すことをしなかった。ただ、この美しいものを守らねばならないとひたすらに感じていた。
なまえの目に映る全てが美しいものであってほしい。汚れるのは自分だけでいい。今日のようなことが二度とあってはならない。なまえが感情を殺さねばならないような状況を招いてはいけない。あの一瞬に見えた顔をマダラは思い出す。
そうやって幾重にも思いを募らせたマダラがふと我に返ってなまえを見た時。
わずかに下がった眉と、微かな緊張に揺らぐ瞳がそこにあった。
頬も赤らんでいるのがわかる。手を触れてみると、風呂上がりのそれより熱を帯びているようだった。
恥じらったり照れたりするのは自分への気持ちがあるからにほかならない。言葉にされずとも反応だけでそれがわかって、マダラはおかしくも愛おしい気持ちが湧き起こった。敵を前にした時はあれほど勇ましかったのに、この差は何だというのだろう。
マダラはその愛おしさのまま口づけを落とす。少しの間、二人の影が重なり、やがて静かに離れた。
「今日は疲れただろう。そろそろ休め」
「……は、はい……」
頬に添えた手に滴が落ちるのを見て、「髪が乾いたらな」と付け加えるマダラ。ついでだと思い軽く拭いてやる。本人よりもマダラのほうが髪を丁寧に扱っているのも相変わらずのことだった。
先程まで瞳を輝かせて夜空を見上げていたなまえも、今はしおらしく瞼を伏せている。マダラはいつまでも慣れないらしいその初々しい姿に目を留めて、仕方がないなと思いながらも満たされるものを感じた。
その後、草履を脱いで家に上がり、なまえの手を取って立ち上がらせた。寝室へ戻り用意していた布団まで連れていくとなまえは素直に従った。その間に遠慮気味に握り返された手。なまえの手は柔らかく、温かくて、その熱がまたマダラの心を溶かしていくのだった。
「匂いがついてないか?」
すでにマダラも確かめていたが、念のためなまえに確認させる。なまえは引き寄せた布団に顔を近付けてすんすんと吸い、「大丈夫そうです」と返した。
その間も。
「……明日は休みをいただいたんです」
布団に足を入れながらなまえが零す。マダラはなまえに合わせてしゃがみ、横で聞いていた。
その間も。
「ゆっくり寝られるな」
「はい。それで、あの……」
何かを言いかけたなまえがふと横を見る。
こうしている間もずっと繋がれていた手が視界に入ったらしい。はっとして手を離すと、代わりと言わんばかりに肩に掛けていた手拭いを掴んだ。
「ご、ごめんなさい……! お風呂、冷めないうちに、入って……」
恥ずかしさと申し訳なさを極めたなまえは顔をさらに赤くして俯いた。そんな姿さえマダラには愛おしく、ふっと笑みを零して頭を優しく撫でる。おずおずと見上げてきたなまえにそれ以上何も言わず、立ち上がって小さくしていた明かりを消し、家の戸締まりに回った。
なまえの温もりはしばらくマダラの手の平に残っていた。
風呂を上がったマダラは髪が乾くまでの間をぼんやりとして過ごし、やがて静かに床に就いた。それから少しして寝息が聞こえ始めた頃、闇の中でそっと目を開く者がいた。
――なまえだ。
「…………」
音を立てぬよう横を向き、マダラが眠っているであろうことを確認する。そうして、ひっそりと布団から抜け出したなまえが向かうのは――。
マダラの布団だった。
先程、なまえがマダラに言いかけたこと。
それは「今夜一緒に眠りたい」というものだった。
しかし、言う前からその思いが漏れてしまったのかマダラの手をいつまでも握ってしまっていた。それが恥ずかしくて言わず仕舞いになったが、諦めきれずに最後の手段を取ることにしたのである。
今朝の出発前に言葉を交わせなかったことを寂しく思っていたのはなまえも同じだったのだ。
とはいえすでに眠気が限界の域まで達しているため、ためらっているほどの余裕はない。そっと布団を捲って身を滑り込ませる。起こしてしまわぬように体を寄せるのはぎりぎりの所で止める。背中や足裏に冷気を感じるが、マダラが寒くなってはいけないから布団を引っ張ることはしない。
自分は冷えたって構わないのだ。なまえはマダラと同じ布団で眠れるというだけで、他のことなどどうでもよくなるくらい幸福を感じていた。
なまえが望むのはこんな些細なことばかりだ。口にすればマダラはいくらでも聞いてやったのだろうがなまえには少し勇気が足りなかった。
だから今のようにこそこそと行動に移しては一人喜びに浸っているのである。
任務の疲れもあり、睡魔はもうそこまで迫っていた。なまえは瞼を閉ざして身を委ねる。
眠りに落ちる直前、温もりに包まれるのを感じた。
この日の晩、なまえは安らかでとても優しい夢を見るのだった。
はっと目が覚めて、なまえは飛び起きる。
辺りを見渡すとまだ薄暗く、いつも起きているのと同じくらいの頃だとわかる。
ものすごく熟睡したような感覚があるから寝坊してしまったのかと思ったのだ。
安堵するのと同時に、今日は休みをもらっていたことを思い出す。
そして、身じろぎする隣の存在のことも。
ごめんなさい、と小声で言い、捲ってしまった布団と共にもう一度横になる。元の場所に倒れたはずなのに体はきちんと布団の中に収まった。
夜中、気が付いたマダラが位置をずらしてくれたのだろう。勝手に入り込んだのは自分なのに、と申し訳なく思う一方でその優しさが嬉しくもあった。
そろりと隣の寝顔を見つめる。穏やかなものだとなまえは思った。日頃からあまり表情が変わらないように見えるが、落ち着いている時、優しげな時、ちょっと嫌そうな時、呆れている時など細かな違いになまえは気付くことができた。
なまえはマダラを恐ろしいと感じたことはなかった。彼の根っこにあるのは兄弟や一族を守ろうとするひたすらに真っ直ぐなものだということを知っているからだ。
今、この場にいても、何故こんな何も持たないような自分がマダラと一緒になれたのかと不思議でならなかった。けれども自身に向けられる優しさや愛情は決して偽りのものではない。それだけは確かである。
自分はその気持ちに応えられているだろうか。なまえは胸の内にとめどなく溢れる思いをなかなか伝えられずにいた。マダラを前にすると昨夜のようにどうしても恥ずかしくなり動けなくなってしまうのだ。
本当は、与えられた以上のものを返したい。頭ではそう思っているのに、結局のところ何もできていなかった。
なまえは体の向きを変え、上半身を少し起こしてマダラの寝顔を覗き込む。こんなにも気を許してくれているのかと思うと、ぶわりと胸に溢れるものがあった。
それに突き動かされるようにマダラへと迫るなまえ。
そう。本当は、こんなふうに――。
「…………」
瞬きほどの間。ぎこちない口づけが落とされる。しかしなまえに恥じらった様子はなく、それどころかどこか切なげな表情でマダラを見つめていた。
手を繋ぐのさえ一苦労しているなまえが今は積極的とさえ言えるほどにマダラに触れている。
手を伸ばし、そっと頬に触れてみる。マダラにいつもされているように。本当はなまえもこんなふうにしたいと思っていたのである。
そうしているとますます込み上げてくるものがあった。息が詰まるほどに増していく愛おしさが、微かに指先を震わせた。
それに気付いたなまえは、伸ばしていた手を引っ込める。いけないことをしているような気がして怖くなってしまったのだ。
すると、そこでマダラが薄く目を開いた。
吐息のかかるほどの距離。なまえの顔の真下から同じ色の瞳が見上げる。なまえは夢中になるあまり、半身をマダラの体に乗り上げていた。どれほど熟睡していようともそこまでされれば誰だって目が覚める。
なまえはどきりとしたが、動揺は露わにせず、何事もなかったかのようにそうっと退こうとする。
だが、マダラが逃すはずがなかった。なまえの腰をがっしりと抱き、そのまま横に倒しながらちょうどいい位置に収める。瞼は再び閉ざされていた。どうやらもう一眠りするつもりのようだ。
「……オレが寝込みを襲われるとはな……」
そんなことを囁きながらなまえを枕のようにぎゅうと抱くのだ。今までに、ここまで人と密着することがあっただろうかというほど包み込まれるなまえ。そのせいで少しも動くことができず、腕の中に閉じ込められたまま、恥ずかしさで沸騰しそうな頭で必死に考える。
一体、いつから起きていたのだろう。もし初めからだったとしたら、あの口づけも――。
なまえは全身が熱くなるのを感じた。それ以上考えたくなくて、観念したようにマダラの胸に顔を埋める。離れられないからこうすることしかできなかった。
頭の真上に感じる静かな呼吸。腕の力も次第に緩んでいき、やがてもう一度眠りに入ったのがわかった。その頃にはなまえもある程度落ち着きを取り戻していて、自分ももう少し眠ろうかと考えられるくらいになっていた。目を覚ました時にはマダラが何も覚えていないことを祈りながら、瞼を閉ざす。
マダラと布団に包まれた幸福な温もりを感じているうち、次第に眠気がやってくる。昨晩は帰りが遅くてあまり眠れていないから、もう少し寝られるならそうしたかった。
マダラはいつもどおり本部に行くのだろうか。その時に一緒に目覚められたら、となまえは思う。
そういえばあの女はどうしたのだろう。なまえはうつらうつらとしながら昨晩の出来事を思い出す。
恐らくマダラは教えてくれない。教えてくれないということは、つまりそういうことだ。
しかしなまえはそれを咎めるつもりはなかった。
何故なら、自分も同じことをしていただろうからだ。
マダラとの平穏な暮らしを守るために。
そういったところでは、二人は似ている部分があったのだ。
その後、日が随分と高くなった頃にマダラは目を覚ました。ぼんやりとしながらも、なまえにのしかかっていることに気付いてすぐに退く。まだ眠っているらしいなまえの顔を見ると、些か苦しそうだった表情が徐々に安らかになっていく。
一体いつの間に潰してしまったのかと寝相の悪さを内心で詫びた。
ずれた布団を優しく掛けなおす。なまえがこれくらいの時刻まで寝ているのは珍しいことだった。マダラ自身は、なまえが今日は休みだと知った時点で家にいることを決めたから特に問題はない。
昨日の任務で疲れているのだろう。いや、それとも、自分のせいで起きたくても起きられなかったのだろうか。マダラはやはり申し訳なく思った。
しかし同時に嬉しさも感じていた。起きたければ強引に脱することもできたはずなのに、そうはせず布団の中に留まっている。一緒に眠っていたいと思ってくれているのだ。
夜明け頃の襲撃といい、なまえは時折ああやって思いの欠片を零す。マダラはそれに気付くたび、なまえの気持ちが自分にあることを実感した。言葉にすることは少なくても心は通じ合っているのだとわかって安心できた。
初めの頃と比べてなまえはそういったことを少しずつ表現するようになってきている。その変化を見るのがマダラは楽しみでならなかった。
一つ問題があるとすれば、たいていが寝ている間に実行されることだ。もしかすると気付けなかった時もあるのかもしれない。
けれどもマダラは構わないと思っていた。そうやって少しずつでも慣れていけばいい、と。
なまえがこうも恥ずかしがるのは、優れた目を持っているせいでもあるのだろう。向けられた瞳の奥にあるものを普通以上に感じ取ってしまうのだ。
なまえが一体どの程度まで見透かしているのかマダラにはわからない。だが、なまえになら腹の底まで晒してしまってもいいと思える。
たとえどのようなものを秘めていたとしてもなまえはそれを否定しない。「あなたらしくない」などと勝手に幻滅することもない。自分の考えをしっかりと持っているから、異なるものを前にしても排除しようとせず、そういうものだとして理解する。
それは決して容易なことではない。なまえほどの若さでそれができる者など滅多にいないだろう。この里の中で数えてもほんの一握りのはずだ。
なまえがうちはに生まれたこと。当然のように一族を大事にしていること。そして今自分の隣にいること。幻ではなく、全て現実だ。
失い続けてきたマダラがその先で得たもの。
今度こそ守るのだ。何にも代え難いこの愛おしい存在を。
「ん……」
なまえの目がゆっくりと開かれる。
この愛が余すことなく伝わればいい。そんなことを思いながら、優しさと愛情に満ちた眼差しを向ける。
「…………」
けれども、あまりにも無防備な視線を返された時、その考えもどこかへいった。
ぼんやりと、ただ目の前のものを見ているなまえ。この様子ではきっとわからないだろう。黙って見つめ返すマダラの顔に笑みが浮かぶ。
いつだって思惑どおりにならないのがなまえだ。あれこれ画策したところでほとんどが無意味に終わってしまう。
焦らずとも、これからゆっくりと育んでいけばいい。二人の生活はまだ始まったばかりなのだから。
「なまえ」
呼ぶと、なまえは柔らかに目を細めた。
さあ、今日はどんな一日になるだろうか。
マダラにとってなまえと過ごす時間は何よりも楽しみで、何よりも大切なものであった。