火の国のとある宿場町にて、自来也は一人の女を尾行していた。女は宿に入り、少しの後にまた出てくると町を歩き始めた。何かを探しているらしくきょろきょろと周りを見回しながら進んでいく。自来也も往来に紛れ、町人らに怪しまれないようその後を追った。
女は黒い外套に身を包んでいた。頭と足の先くらいしか目で確かめることができなかったが、自来也は女がただ者でないのを長年の経験から感じ取っていた。
旅人の出で立ちをしているにもかかわらず妙にこの町に馴染んでいる。深く注意していなければ、すれ違ったことさえ認識できないくらいに。自来也ほどの忍になると違和感がないことこそが違和感なのだと気付くこともできたが、此度に至っては彼も自力で気付けた訳ではなかった。というのも、肩に乗せていた蝦蟇の蛙がその存在を指摘したことでようやく目に捉えられるようになったのだ。
場に溶け込む技術は諜報や潜入調査を行う忍には欠かせぬもの。そしてこれほどのものとなればかなりの手練れなのは間違いない。それが木ノ葉の里の忍であれば素直に感心していたところだが、残念ながら女の額には里の所属を示す額当ては着けられていなかった。となれば当然他国からのスパイという結論に至る。しかし、自来也はどうしても違うように思えてならなかった。
彼女の容貌は、凄惨な事件によって滅びたある一族を彷彿とさせた。闇を思わせる漆黒の瞳と髪、白く透き通った肌。遠目にもわかる端正な顔立ちは、もしかするとうちは一族の者ではないかという予感を自来也の内に起こさせていた。
うちはの生き残りはあの兄弟の他にいないはず。しかし、長年の勘が告げるのだ。
自来也は忍具屋に入る女を見届けると、壁にもたれて手帖を開き、風景のスケッチを始めた。無論その行為に意味はない。
――しかしながら、少々見つめすぎたかもしれない。筆を動かしながら自来也は反省する。
美しい女を目で追ってしまうのは男の性だ。とはいえ女が視線に気付いた様子はなかった。気配に鈍いのか、あるいは気付かぬふりをしているだけなのか。
肩に乗せた蛙は何も言わない。蝦蟇の蛙の中でも寡黙なほうではあるが、何故かあの女に興味を抱いているらしいのを自来也は感じ取っていた。
あの女に何かがあるのは間違いない。店から女が出てきたのを確かめると、自来也はついに動き出した。
女の前を遮るように歩き、わざと手帖を落とす。気付いた女は「落としましたよ」とそれを拾い上げた。
耳に心地よい美しい声に口角が上がったのを瞬時に収める。
「おお、すまん! 考え事をしていたものでの……」
自来也は振り返る。すると、夜空を閉じ込めたかのような瞳が自分に――。
「…………」
向けられていなかった。
女の視線は肩の蛙へと注がれている。自来也はこれは使えると思い、即座にそちらの方向へ話を変えることにした。
「ああ、こやつはワシの友人での……驚かせてしまったか」
「いえ……」
女はやや気まずそうに目をそらして去ろうとする。自来也は選択を誤ったことを悟り、内心で焦った。
「久しいのう、娘」
ふいに、肩の蛙が喋った。目の前の女は動きを止める。その顔には困惑の色が浮かんでいた。
「長く生きとるようじゃのう、互いに」
「……やっぱり、あの時の蛙さん……」
女は独り言のような声で零した。
まさか、知り合いだったというのか。正体を暴いてやろうと意気込んでいた自来也だけが置き去りにされていた。
二人と一匹はゆったりとした足取りで町を歩いていた。といっても蛙はなまえの肩に乗っているため、実際に歩いているのは二人である。
「しかし驚いたのォ。こやつに知り合いがおったとは」
「知り合いというほどではないんです。昔、一度助けたことがあるだけで……」
「あれは、逆さ泳ぎの訓練をしていたところをお主に邪魔されたのじゃ」
「そうだったんですね。ごめんなさい……。では、人が嫌いだと聞いていたのも私の勘違いでしょうか?」
「いや、正しい。この男は少々やかましいが、悪い人間ではない」
蛙が言うと、女の視線が自来也に向けられた。
「自来也だ」
名乗りながら手を差し出す。それは下心のない自然な動作だった。しかし、その手を見た女から一瞬のためらいが感じられたのは恐らく気のせいではない。
「うちはなまえです」
「……うちは……」
うちは一族なのはほとんど確信していた。自来也が眉をひそめたのは、下の名のほうだ。
つい漏れてしまった声に、なまえが不思議そうに見つめる。
「ああ、いや、すまん。こんな所でうちはのお嬢さんに会えるとは……驚いた」
頭を掻きながら、笑顔を浮かべて取り繕う。なまえは自来也の顔を見ながら外套の隙間から手を伸ばした。
自来也はその手をしっかりと握る。確かな温もりと感触があった。顔を見ても瞳は正常で肌に継ぎ目もない。生身の人間である。
「…………」
なまえの無言の訴えに、自来也は慌てて手を離した。
「あんまり綺麗だったもので、つい……」
半分は本音である。また笑って誤魔化してみるが二度目は苦しいかもしれない。どうしたものかと思案していると、なまえのほうが先に口を開いた。
「自来也さん、気になることがあるなら聞いてくださって構いません」
そう言ってなまえは表情をやわらげた。自来也はぴしりと固まってみせたが、なまえからの反応を引き出したのは狙いどおりであった。
なまえは、他者から不審に思われる存在だという自覚がある。それは滅んだとされる一族の生き残りだからか、下の名が示すもののせいか、今の時点ではわからない。
なまえは終始落ち着いた態度と穏やかな口調で話しており、敵対するような意思は感じられない。逃げ出す様子もなく疑問には答えるとまで言っている。この肝の据わりようはやはりただ者ではない。
恐らく、そうなのだろうという確信が自来也の内に生じ、正面を切って確かめることにした。
「……うちはなまえといったら、木ノ葉創設期のうちは一族の長……うちはマダラの妻とされる女の名だ」
わずかな揺らぎも逃さぬよう、なまえの目を見据えて言う。
「本人か?」
するとなまえは視線や言葉に何かを含ませる訳でもなく、自然な様子で答えた。
「はい」
当たり前の事実を、当たり前に肯定する。なまえの頷き方はそんな印象を与えた。
「何故……何故生きている? だったら、マダラもいるのか?」
予感していたとはいえ自来也は戸惑った。そんな自来也をなまえの肩に乗ったままの蛙がちらりと見て口を開く。
「かつての集落でうちはの者に腹を刺された……そうじゃったのう、娘」
蛙がそう言うと、なまえは初めて驚いた顔をした。肩に手を伸ばし、蛙を手の平に乗せて目線を合わせる。
「蛙さん、あなたは一体……」
次の瞬間、蛙が白い煙に包まれた。なまえの目が再度見開かれる。煙が晴れた後、そこにいたはずの蛙の姿がなく、なまえは慌てたように足元を見回した。自来也が、口寄せの時間が切れて巣に戻っただけだと説明すると、なまえは心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
その姿だけを見れば年相応の少女に思える。しかし実際には自来也よりも遥かに長い時を生きているらしいのだ。
目の前の女がうちはなまえ本人であることは蝦蟇の蛙が証明してくれた。それについては疑う余地はない。
気まずさを覚えたのか、なまえは歩みを再開させることを提案してきた。自来也はそれを承諾し、あまり人の多くない道を肩を並べて歩き出す。
「……私は死んだはずだったんです。さっき蛙さんが話した傷が原因で……」
脇に流れる緩やかな川に目を向けてなまえは話す。
どうやって蘇ったのかはわからないが、目を覚ましたらこの時代にいたこと。マダラはこの世におらず一人でいること。少し前までは里でうちはの子供達に匿ってもらっていたことまで、情けない話だがと苦笑しながら明かした。
「自来也さんは木ノ葉の忍ですか?」
「そうだが……」
「もしかすると、知らないうちに里ですれ違っていたかもしれませんね」
なまえは優しげに目を細めて自来也に言った。その顔を見て、誰が演技だと思えるだろう。
うちはなまえについて正確な記録は残されていない。一族の間で語り継がれる程度の情報は耳にしたことがあるが、目の前にいる本人とそれとでは大きく異なっているようだ。
人や動物に優しく物腰柔らかで、どこにでもいるような普通の女。それがどうしてあのように語られるのか自来也にはわからない。うちは一族にしか見えぬものがあるのだろうが、それにしても全くの別人の話としか思えなかった。
自来也は一度大きく息を吐き出した。
「……何故正直に話す? 普通隠すもんだろう、そういうのは」
率直な感想を述べる。取り繕う必要ももうなさそうだ。
「蛙さんが私を知っているのに、隠しても意味がありません。それに……」
なまえは人で賑わっている通りのほうをちらりと見やった。
「私なんかが生きていたとわかっても、きっと誰も何とも思わないでしょう」
自嘲するような笑みを浮かべてなまえは言う。それを見た時、自来也はうちはなまえという女のことをはっきりと理解した。
「そんなことはない。こんな美人の隣を歩けてワシは光栄に思っておる」
「気を遣っていただかなくても大丈夫ですよ」
なまえはわずかに眉を下げる。その返しは自来也の予想したとおりのものだ。これまでの経験から、こういった女性をどう扱うべきなのかも自来也は熟知している。
「いや、本当のことだ。自分には価値がないなどと簡単に言うべきではないの」
「…………」
「ワシくらいの者が見ればその容姿だけでうちはだと気付ける。特に今となってはその血は希少だ。もっと慎重になったほうがいいと思うがの」
腕を組みながら真面目なトーンで語る。すると、なまえがくすりと笑うのが聞こえた。自来也は確かな手応えを感じ、拳をぐっと握りそうになるのをこらえた。
もうひと押しだ。
「自来也さんは優しいのですね」
「そうとも。ワシほど優しい男はおらん。……だからどうだ、今夜酒でも飲みながらもっと深い話を……」
なまえの足がぴたりと止まった。自来也は自身の顎を撫でながら得意げに続ける。
「こう見えて腕にも自信があっての。お前さんを守ってやれるくらいには強いぞ」
「気持ちはありがたいけど……私は一人で大丈夫です」
それに、と加えたなまえはやや言いづらそうに、抑えた声量で零す。
「……夫以外の男性と夜を過ごすつもりはありません」
思っていたほど鈍くはないらしい。つい感心してしまったのは、見た目の若さに意識が引っ張られるせいだろうか。
ともかく、はっきりと断られたのであれば自来也も諦めざるを得なかった。しつこい男というのはいつの時代も嫌われる。引き際を見極めてこそ一流というものだ。
「振られてしまったか。残念だが仕方ないのォ」
脇にあったベンチにどかりと座る。後ろにもたれかかり、手の平で目元を覆って、残念だという思いを全身で表した。なまえは立ち止まったままそれを見つめる。
「……自来也さん、私の気を紛らそうとしてくれたんでしょう?」
手を外してそちらに目を向けると、薄く微笑んだなまえが見下ろしていた。
「いや、全て本心だ」
至って真面目にそう返せば、なまえはまたきょとんとして、次第に困ったような笑みを浮かべた。
蛙が消えた時を除いてなまえの態度は終始落ち着いていた。だが目元や表情はその時々に色を変えており、こちらの言動に対する反応も素直なもので、本来はもっと感情豊かな女なのだろうと思わせた。
「その言葉は自来也さんの大切な人にかけてあげてください」
「ワシは正直な男での……思ったことがすぐ口に出るのだ」
「軽い人だと思われてしまいますよ」
「い……意外に言うのォ……」
なまえの鋭利な言葉が自来也に刺さる。穏やかなだけかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。知れば知るほどわからなくなる不思議な女だった。
腹の探り合いもなく、相手を出し抜こうという気も全く感じられない。むしろこちらが探ろうとしたのを直接聞けと言ってきたのだ。そして、一度会っただけの蛙と自来也に繋がりがあるというだけで秘密を明かす。普通なら何か裏があるとしか思えないが、この女に限っては違うと自来也は断言できた。
これが本当にマダラの妻だというのか。なまえと初めて会った時から一貫して感じている疑問がますます深まっていく。
「では……私はそろそろ行きますね」
空を仰ぎ、傾き始めた太陽を見てなまえが言う。自来也は座り直し、最後に一つだけ尋ねることにした。
「これからどうするつもりだ?」
それは、なまえの身を案じた問い。聞くべきことは他にもあったが、彼女の善性を信じてそれらを確かめる必要はないと自来也は判断した。
「ワシは本を書きながら各地を旅しておる。お前さんに当てがないのであれば、少しの間ワシと旅路を共にするのも悪い考えではないと思うぞ」
「…………」
「もちろん、余計なコトはせん……」
居場所がないであろうなまえのために純粋な思いから提案したはずだが、無言の視線を寄越されて自来也は慌てた。
なまえは目を伏せ、首を左右に振る。
「いえ、その気持ちだけで十分です。先にも言ったように、その時間は自来也さんの大切なもののために使ってください」
自分などに使うべきではないとなまえは言っている。たしかに、今日会ったばかりの女にそこまで情をかけるのもおかしな話かもしれない。けれども、裏のないなまえの優しさは、この殺伐とした忍世界において不思議な心地よさと安堵感のようなものを感じさせた。
もう少しだけそれに浸っていたい。そんなふうに欲張ったのがいけなかったのだろうか。自来也は惜しむばかりにおどけた返しをすることもできずにいた。
「……自来也さん」
なまえが傍らに来て膝をついた。
「ありがとうございます。こんな死に損ないのことを気にかけてくれて……」
自来也を見上げて微笑む。
その体勢は、大人が子供と目線を合わせる時のもので。
その眼差しは、親が子を慈しむ時のようなものだった。
もとより自来也のことなど、なまえには後の世代の子の一人という認識でしかなかったのだ。
「今日ここで会えて、話ができてよかった。……蛙さんにもそうお伝えください」
自来也の膝に置かれていた手に自らの手を重ねてなまえは言った。
かける言葉を迷っているうち、なまえは立ち上がる。そして、最後にもう一度だけ自来也を見て、静かに背を向けた。
はっとして自来也は手を伸ばす。しかしそうした時にはすでに遅く、歩き出したなまえに届くことはなかった。
自来也はその背中が見えなくなるまで動けずにいた。己の内で、何か大きなものを失ったかのような喪失感が漂っている。
ぼんやりとして己の手を見つめた。触れられた場所が未だに熱を帯びているようだ。
――うちはマダラの妻、うちはなまえ。
二度触れた彼女の手は、その心を表しているかのように温かかった。
近付いた時にあの手を握ってしまえばよかったのかもしれない。少々強引にでも同行を願っていれば、ひょっとすると――。
そんなことを思った時、どうしてか酷く恐ろしいものを背筋に感じ、自来也はぶるりと身を震わせる。背後を振り返ったが、そこには誰の姿もなかった。