いずこ


「なまえ」

 マダラが呼ぶとなまえは手を止めて振り向いた。歩いている時であればそばまで寄ってくるし、ニコニコと嬉しそうに見上げてくるものだから用がなくても呼びたくなる。
 以前、呼んでしまった後に勘違いだったと気付いて「何でもない」と言ったことがあったが、なまえは「ふふ」と笑っていた。名を呼ばれたことが、ただそれだけで嬉しいかのように。
 なまえがそんな反応を返してくれるたびにマダラは安心していた。

 なまえが休みをもらったという日。マダラも家にいることにしてのんびりと過ごしていた。
 なまえが家の掃除を始めるとマダラもつられて動き出す。とはいっても一緒に作業をしているのではなく、思い思いに気になる場所を掃除していた。家には余計な物がほとんどなく、細かい場所まで手入れしても時間はそうかからずに終わった。
 他にするべきこともなくなり、また静かな時を過ごす。昼にはまだ早い時間。ぼんやりしていると眠気を感じ始め、マダラはあくびを漏らした。小さな平和の証だと思いつつ、腰を上げて居間を出る。
 廊下から覗くとなまえはまだ寝室にいた。寛いだように座り、開け放した障子の向こうの景色を眺めている。
 軒先に干した寝具と、雲一つない青空。なまえはそんな決して特別ではない光景を好んだ。目に映る景色が穏やかであればなまえの心にも平穏がもたらされる。そのためにも一族を、この里を守っていかなければならないとマダラは思う。
 なまえには声をかけずにそのまま台所へと入る。ここもなまえのおかげで日頃からきれいな状態が保たれていた。全体的にすっきりとしているが、それでも一人の時と比べてほのかに生活感が漂っている。そうやってこの家になまえの気配が感じられるとマダラは安心した。
 水を入れたやかんを火にかける。その間に急須と湯吞み、茶葉を用意する。これらはなまえが買ってきたものだ。
 なまえと暮らすようになってから茶を飲む習慣ができた。茶葉も道具も別段良いものを使っている訳ではないのに、自分のために淹れてくれたというだけで特別にうまく感じられた。いつしかなまえとの憩いの時間はなくてはならないものとなっていた。
 たまには自分が淹れるのもいいだろう。いつも家のことをやってくれているなまえを労う気持ちでマダラは茶の用意をしていた。
 湯呑みを一つずつ手に持ち居間へと戻る。その際にちらりと寝室を見るとなまえの姿がなくなっていた。マダラはひとまず湯呑みを置き、なまえを探しにいく。

「なまえ」

 寝室に呼びかけてみるが返事はない。脱衣所、風呂場などあちこち見て回り、最後にもう一度台所を覗いてみた。しかしなまえはどこにもいない。もしや茶を淹れている間に外へ出てしまったのかと思い玄関を見に行くと、なまえの草履は変わらず土間に揃えてあった。外へ出るのであれば、一言声をかけてから行くはずだった。

「なまえ……」

 一体どこへ行ってしまったのか。マダラは縁側に立ち尽くし、ぼそりと名をつぶやく。すると、マダラの頭の上、屋根のほうから物音がした。不思議に思って顔を上げれば軒先の上からなまえが逆さに顔を覗かせる。

「呼びましたか?」

 さらりと髪を垂らしてなまえが問う。
 そんな所にいたのか。マダラは内心で安堵しながらなまえを見上げる。

「茶を淹れた」

 するとなまえはわずかに目を丸くして、すぐに満面の笑みを浮かべた。

「すぐに行きます」

 頭を引っ込めたかと思うと、枕を二つ抱えて下りてきた。天気がいいから屋根に干したほうが日が当たって良いのではないかと考えたのだそうだ。
 居間に戻り、それぞれ定位置に座る。あの隙に屋根に上っていたとはマダラにも予想できなかった。すぐに見つかったからよかったものの、少しの間離れただけで不安を覚え始めていた自分に呆れる。家中を探し回ったこともなまえには言えそうにない。そんなものは茶とともに流し込んでしまえ、と湯呑みを口元に運んだ。

「おいしいです」

 一口飲んでなまえが言った。顔を向けたマダラになまえは微笑む。
 探している間に少し冷めたのがなまえにはちょうどよかったのかもしれない。マダラはちらりと目を向けるだけで、また飲むのを再開した。
 こんな些細なことでなまえが喜んでいるように、マダラもなまえの些細な言葉や表情に胸が満たされた。特別なことなどしなくても、二人にとってはそれだけで十分に幸せな時間なのであった。