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 辺りがすっかり夜の闇に包まれた頃、なまえは任務の報告を終えて帰宅した。
 手袋を外して洗濯機の中に放り込み、手を入念に洗う。水が冷たく感じる季節になってきたが、これは欠かせない。その後部屋着に着替え、座敷の箪笥から裁縫道具を取り出して脱いだ服と共に居間に入る。

「帰りました……」

 「ただいま」と言える陽気さはなまえは持ち合わせていなかった。行き帰りの挨拶自体最近ようやく慣れてきたところである。
 本を読んでいたマダラは顔を上げ「ああ」とだけ言ってまた手元に目線を戻した。なまえは裁縫道具を畳に置き、膝の上に服を広げる。大腿部のスリットから上に裂けた程度なので縫い目も目立たないだろう。

「破れたのか?」

 針に糸を通していたなまえへマダラが尋ねる。なまえは「はい」と返事をしながら僅かに頭を覗かせた糸の先を爪で挟んで引っ張った。

「里に戻る途中、枝に引っ掛けました」
「子供みたいだな」

 笑いを含んだ声で言うマダラに、確かにその通りだとなまえは思った。
 なまえは日々の出来事を少しずつ話すようになって、マダラについての認識を改める場面がいくつもあった。一族の長という印象が残っているせいか、意外だと思ってしまう事が少なくない。会話の中でちらほら笑ったり、なまえがわざわざ語らない事でも先程のように尋ねてきたりする。言葉に詰まれば手を止めて待つし、何でもないような話にも感想を寄越してくれた。
 柱間は「根は優しい」と言ったが、なまえには根どころか発する言葉の一つから指先の僅かな動きまで優しさに溢れているように感じてならない。思い返してみれば、その片鱗は事の発端となったあの日から見えていた。「お前が嫌ならいい」と逃げ道を用意し、「お前が決めろ」と選択権を委ねてくれた。
 もしかしたら自分は本当に望まれていて、この男に大切にされているのかもしれない。そう思ってしまうほどにマダラと過ごす日々は穏やかで温もりに包まれていた。

「今日、風の国まで行ったんですけど……」

 指先が震えそうになるのを悟られないようになまえは口を開いた。自身の妄想でしかないことに動揺するなど普通ではない。

「向こうも随分と戦争が減っているようでした。……このまま平和になっていくといいですね」

 そんな中でぽつりと零れたのはなまえの本心だった。ほんの数回とは言え戦争を経験している身だ。
 マダラは静かに本を閉じて「そうだな」と同意する。なまえの言葉に含まれるものを聡く感じ取っていた。

「お前……家族はいないんだったか」

 修繕を進めていた手を止めて、なまえは針の先端をじっと見つめる。以前式の話をした際、なまえが「呼ぶ人はいない」と言ったのを覚えていたのだろう。

「はい。両親も兄も戦争中に亡くなって、今は私一人です」
「……そうか」

 マダラはそっと目を伏せた。皆、戦争で大切な者を失ってきた。その傷跡の大きさに違いなどない。平和を願う気持ちは誰だって同じはずだ。
 なまえは少し考えを巡らせた後、服をよけて膝の上に手の平を乗せた。

「兄は、私の師でもありました。字の読み方から人の殺し方まで……私が一人になっても生きていけるようにと、全てを教えてくれました」

 争いの絶えぬ世界で生き抜く術だ。知識や戦い方だけでなく、所作、考え方、周りを見る力なども必要になってくる。なまえの兄は出来得る限りを尽くしてそれらを叩き込んだ。
 当時の生活を、兄と過ごした毎日を遡ると、なまえは安寧に近付きつつある今の世が嘘のように思えてならない。

「でも、私が戦場に立って間もなく終戦を迎えて……いえ、争いなんて無くなるべきだし、私もそう願っています。けど、兄の思いまで失ってしまうような気がして……」

 なまえは胸が締め付けられるような感覚がして、ぎゅっと拳を握り締めた。

「忍として仕事を続けてるのはそれが理由です。そうしていると、兄が託したものは私の中にちゃんと残ってるんだって実感できるんです。だから……」

 一度口を噤んだなまえをマダラはただ見つめる。やがて顔を上げ、視線を合わせると、なまえはどこか切なさを含んだ微笑をたたえた。

「それを許してくれるマダラさんには……本当に感謝しています」

 そう言った後、なまえはやや間を置いて再び服を広げた。
 初めて核心を語り、真情を見せたなまえにマダラは言葉を挟まなかった。なまえの思いを、自身の内でしっかりと噛み締めたかった。
 ――ああ、だからか。
 露にせずともわかっていた。何か通ずるものがあると感じていた。
 それは兄弟への思いだった。
 託されたものを抱えていた。
 平和を望む一方で、その思いを捨てきれずにいた。
 胸に秘めるその情念が自身となまえを結び付けたのだ。

 なまえが眠りについた後、マダラはうちはの集落を訪れていた。一族は皆里へ移ったため今は跡地となっているが、形は当時のまま残されてある。
 迷いのない足取りで墓所に辿り着くと、うちはの紋だけが彫られた一基の御影石がマダラを迎えた。足元に転がっていた線香を拾い上げ、小さく火遁を吹いて火を灯す。石を覆う砂埃を手で払い、そこに線香を横たえた。
 迂闊に姓も名乗れず、死して尚墓碑にすら名を刻めなかったこの時代が終わりを迎えようとしている。
 マダラはそっと目を伏せると、踏み締める大地の下に眠る者達へ思いを馳せた。なまえの家族もきっとここにいるのだろう。築かれた無数の死は、数多の思いとなってこの紋に積み重なっている。そしてそれを背負うのは一族の長である自分のほかにない。その無念に囚われながら目を覚ます度、弟の言葉を思い出した。
 どうすれば一族を守れるのだろうか。どうすることが一族を守ることに繋がるのだろうか。
 手を取り合って和平を成した。一族の皆も望んでいた。どこか納得のいかない自分にそれで正しかったのだと言い聞かせた。胸を燻るのは、やはり弟への思いが強く残っているからだった。
 この眼を貰った時と今のなまえは同じくらいの歳だろうか。なまえには、優しかった弟のほうが良かったかもしれない。朗らかに笑う弟に寄り添うなまえの姿を浮かべてみると妙に似合った。生きていれば、出会ったのは二人だったに違いない。そうならずともきっと自分がそうさせた。そして自分は幸せな二人を遠くから見守るのだ。
 ――だが、弟はもういない。
 なまえの隣にいるのは自分だ。
 先でも後ろでもなく、自身の隣になまえの命はある。
 そばに置いてよかったのかと、考えなかった訳ではない。その手を掴まなければなまえは一人で歩んで行ったのだろう。けれどその本質を知り、共にあるべきなのだと感じさせられた。
 託されたものも、現実との葛藤も、兄弟への思いも、理解して受け止められるのは自分しかいない。そこに寄り添ってやれる者など他にはいない。なまえも自身の思いを聡く感じ取ったようだった。その上で、この手を握り隣に並んでくれた。だったらもう、振り返らずに歩いていけばいい。

 ぽつりと頬に雫が落ち、マダラは顔を上げた。月が陰ったのにも気付かぬほど物思いに耽っていたらしい。
 目元を濡らした雨粒に、なまえを大切にしてやれと言われた気がした。行き場を失った愛情もなまえに注いでいいのだと、背中を押された気がした。なまえを守ることが、イズナを、その思いを守ることに繋がるのだとマダラは悟った。
 墓碑を優しく撫でた後、線香の灰をそっと地面に落とす。
 自分はもうなまえと共に歩み始めているのだ。