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 寝室から縁側に繋がる障子を開け、夜風に当たりながら体を伸ばすなまえ。風呂上がりに行う柔軟運動は昔からの日課だった。
 両足を広げると寝巻の浴衣が少々ずり上がったが、片側にゆっくりと上半身を倒せば凝りが解れる感覚がして気持ちが良い。数秒維持した後、反対側も同じように伸ばしていく。

「そろそろ閉めろ。体が冷える」

 寝支度を整えたマダラが襖から顔を覗かせて言った。なまえが返事をすると、他の部屋の消灯をしに向かった。なまえは自身の足に手の平を当ててみると、ひんやりした温度が伝わってきて、そそくさと障子を閉じた。日増しに冬の気配が濃くなっているようだった。
 浴衣の合わせを直して、なまえは布団に足を入れる。早く温まるようにと手を差し込んで擦っていると、戻ってきたマダラが「ほら見ろ」という顔をして見てきた。ばつが悪くなったなまえはそれを誤魔化すように口を開く。

「あの……家に本を置いてもいいですか?」
「本?」
「明日、早く上がれそうだから古書店に行こうと思って」
「置くのはいいが、本をどうするんだ」
「えっ?」

 質問の意味がわからず素っ頓狂な声を上げたなまえ。本をどうするとはどういうことだ、と足を擦る手を止めて真剣に考え始める。マダラは腕を組み、立ったままなまえの回答を待った。

「読む、ほかに……何かあるんですか……?」

 結局そう答えるしかなくて、なまえは眉間にしわを寄せ絞り出すような声で言った。
 もちろん冗談だったのだが、マダラはなまえが真面目に返してくるのをわかっていてわざと尋ねたのだ。困った表情を浮かべるなまえに小さく笑い声を漏らした。

「空いてる書棚があるから必要なら使っていい」
「あ、はい……ありがとうございます」

 明かりを消して、マダラは布団に入った。取り残されたなまえは慌てて口を開く。

「さっきのはどういう……」
「からかっただけだ」

 なまえはハッと息を呑んだ。マダラはすでに目を閉じていたが、なまえが口元に両手を当てている姿が容易に想像できた。



 ほとんど使ってないらしい書斎の棚の前で、なまえは紙袋の封を切った。三冊の本を床に並べて、まずはどれから読もうかとその表紙を吟味する。結局右手の側にあったものを選んで残りは書棚に入れた。
 風のない昼下がりだった。なまえは縁側に日当たりの良い場所を見つけて腰を下ろす。垣の向こうに見える木の天辺を眺めると、自身が随分とこの家に馴染んでいるような感覚がした。なまえがここで暮らすようになってまだ一月も経っていないが、一貫して落ち着き払ったマダラの物腰が心細さを払拭しているのだろう。
 何事もなく過ごせるならそれに越したことはない。穏やかに広がっている空を一瞥し、なまえは最初のページを捲った。

 しばらくして、玄関の戸が開かれる音になまえは顔を上げる。全体の半分ほどを読み進めたところだった。
 本を片手に迎えに上がると、マダラに包みを渡された。

「これは?」
「そこで貰った」

 首を傾げるなまえに、「甘味らしい」とマダラは脱いだ草履を端に寄せる。
 なまえは甘味など自分は食べないと返そうとしたが、すんでのところで止まった。せっかくマダラが持って帰ったのだ。それを突き返すなどあんまりだと我ながら思った。

「お茶入れてきます」

 居間に本を置き、包みを手に台所に入る。湯を沸かす間に中を開けてみると串団子が二本並んでいた。蜜がかかってツヤツヤと光っている。団子を食べたことのなかったなまえはまじまじと対象を観察した。
 お茶を入れた後、恐る恐る皿に移して居間へ運ぶ。マダラが茶を口に含んだのを見てなまえは団子に手を伸ばした。

「…………」

 一個咥えて串から抜き、じっくり咀嚼する。しかし、特に感想は浮かばなかった。

「女ってのは甘味を好むものじゃないのか?」
「いえ……私はそんなに……」

 食べ物に頓着がないなまえを改めるには至らなかったらしい。マダラは「当てが外れたな」と思いながら自身も一つ手に取った。
 食器を片付けた後、なまえは再び本を開いた。手持ち無沙汰なマダラは、パラパラとページを探すなまえに頬杖をつきながら話しかける。

「今日買った本か」
「はい。「お前の後ろだ」っていう小説です」
「どんな名前だ」

 マダラは些か顔を引き攣らせた。タイトルからしてまともな内容ではなさそうだと思った。

「結構面白いですよ。幻術の参考にもなるし……」

 なまえは本を閉じ、マダラに見えるよう両手で掲げる。マダラは表紙の文字を辿りながら「そんなものを見せられる奴がかわいそうだ」と言った。真に受けたなまえは神妙な面持ちをして膝に本を戻す。もっと明るそうな話を選ぶべきだったろうかと眉間のしわを深くした。
 なまえは、ただの足止めのように明確な目的のない幻術をかける時、どんな世界を作るかいつも悩んでいた。情報収集や意識喪失に持っていく場合はパターンが決まっているが、そうでない時まで精神操作を図るものを見せる必要はないと考えているからだ。そのため本を通して時間稼ぎ用の幻術のストックを蓄えていた。
 近頃は足止めするような状況も滅多にないのであまり意味を成さないのだが。

「悩んだりしませんか? 幻術……」

 真剣な表情のなまえを見て、マダラは心の内でふっと笑いを零す。そんな事を問うのは後にも先にもなまえだけだろう。

「考えたことがない」
「……そうですか……」

 やはり自分が未熟なだけかとなまえは肩を落とす。しかしそれが原因となって何か失敗を仕出かした訳でもないので、あまり深く考えなくてもいいかと頭を切り替えた。
 もう一度本を開き、途中だったところを探していると今度は視線を感じて顔を上げる。しげしげと見つめる目になまえは何事だろうかと首を傾げた。

「……それはお前の眼か?」

 ページを一枚摘んだままなまえは「はい」と頷く。質問の意図を理解したのはその後だった。

「あまり使いすぎるなよ」

 瞳術もリスクがない訳ではない。通常の写輪眼では影響がなくとも万華鏡写輪眼となれば別である。その瞳力を多用すれば視力低下を引き起こし、やがて闇にとらわれてしまう。
 なまえの幻術は万華鏡によるものではないが、いずれにしろ心配されているらしいとわかって胸がこそばゆくなった。

 マダラが弟の眼を移植したという話は耳にしたことがある。託された眼でこの先も多くを見通していくのだろう。
 今、その瞳に自身が映されていることを認識すると不思議な気分になる。それが一体いつから向けられていたのか、何がその視線を攫ったのかなまえは知らない。だがこうして見つめていると、瞳の奥にただならぬ情が秘められているのは感じ取れる。
 そうする度なまえは目を奪われていたが、それが見惚れるということには気付かないでいた。

「なまえ」

 マダラがなまえを呼び、そばに座らせる。「見せてみろ」という言葉に戸惑うなまえだったが、一度目線を下げて視神経にチャクラを流した。伏せられた睫毛の隙間から覗く赤が、やがておずおずとマダラを見上げる。この眼を向けていいものかと不安げな色を漂わせながら。
 マダラはなまえの頬に手を添えて少し上を向かせた。そうすれば、上目遣いだった視線と正面から絡み合う。
 右二つ巴。なまえの万華鏡写輪眼の文様だった。瞳孔から伸びる曲線は巴を縁取ったもので、それ以外に深紅に差す黒はない。余計な装飾を好まないなまえらしさがこんなところにも表れていて、マダラは僅かに顔を綻ばせた。

「いつ開眼した?」
「写輪眼は十くらいの時で、変わったのが……四年ほど前です」

 下瞼の辺りを優しく親指でなぞると、なまえはピクリと瞬きをして写輪眼を戻した。

「あ、あの…………私も見たい……」

 目を泳がせながら尻窄まりに言うなまえ。マダラは、なまえが自身の瞳を見たがるのを知っていたので少し意地悪をする。

「そのうちな」
「……そのうち……」

 見るからに残念そうにしたなまえに胸をくすぐられ、「冗談だ」と返して望み通りにする。それに気付いたなまえは眩しそうに瞼を狭めた後、マダラの右目にかかる髪を静かに除けた。

「……綺麗」
「弟の眼だ」

 皆が恐れるこの眼を、恍惚と見入り、そのようにのたまうのはこの女だけだろう。
 そう思うと途端に愛おしさが込み上げてきて、マダラは薄く開かれていたなまえの唇にそっと口付けをした。


 湯船に浸かったまま、なまえは膝を抱えて小さく溜め息をつく。視界の端で水面に揺蕩う横髪が、まるで今の心境を表現しているかのようだった。まごうことなきこの現実の世界で、なまえが初めて交わす口付け。それは半刻ほど前にあっさりと行われてしまったのである。
 あの場では、その余韻に浸ることもなく、夕飯の支度をするためそそくさと離れた。食事の間も、実感できていなかったせいかすこぶる落ち着いていたように思う。それが今、風呂場という密室で一人になり、途端にぶり返してきたのだ。
 膝に目元を押し当てるようにすれば、じんわりと伝わってくる熱。瞼の裏にはその光景が蘇り、唇に触れた感触もはっきりと思い出された。かき消すように首を振るとそこから広がった波が浴槽の縁で跳ね返って音を響かせる。まるでそうなるのが当然であったかのように、微かな違和感もなく受け入れた自分が今となっては到底信じられなかった。
 形としてはすでに結ばれた関係にあるのだから、そういう事もあろう。だが、あまりにも唐突で、あまりにも自然だった行為に、なまえの心は激しく乱された。あの瞳は、駄目だ。きっと写輪眼とは別の、何か特別な力があるに違いない。そうでも思わなければ、ドクドクとうるさいこの心臓を静められそうになかった。

「……あつい……」

 その火照りは恐らく、風呂の湯でのぼせただけのものでないことはなまえが一番わかっている。