13


 久しぶりの休日を迎えたなまえは朝から張り切っていた。早々に布団を干し、洗濯機を回した後、互いに朝食は取らない事で合致しているマダラに茶だけ出して出掛けるのを見送った。後に何かが控えているのがあからさまに伝わってくる態度だったが、マダラは別段指摘することなく家を出た。
 手際よく拭き上げた廊下を見渡せば、ピカピカと輝いて見える。その光沢に達成感を覚えたなまえはバケツと雑巾を握り締め、表から勝手口へと回った。立水栓を捻ってバケツをひっくり返すと薄汚れた水が排水口に吸い込まれていく。中を濯いで雑巾も洗い、栓を閉めて手の水気を払った。水は冷たくとも日差しはうっすら暖かく、そろそろいい時間になっただろうかとなまえは青空を仰いだ。

 上着を羽織るだけの簡単な防寒対策をして商店街に繰り出したなまえは、一直線に古書店を目指す。自らが望んでの任務漬けの日々ではあるが、唯一の趣味と言える読書に没頭できる時間は貴重なのだ。寡黙な店主に軽く挨拶すると、背の高い棚にこれでもかと言うほど詰め込まれた本がなまえを迎えた。
 前回の反省を踏まえ、なるべく明るそうな内容のものを探す。「風遁の又三郎」、さっと目を通したが、暗くはなさそうなのでまず一冊はこれに決める。「注文の多い忍具店」、短編集のようだ。冒頭の数行を読んでみると、いきなり口寄せ動物が亡くなる描写があったので静かに閉じた。「怪忍二十面相」、ただの変化ではないのか。子供向けのようだったが、興味をそそられたので二冊目に決めた。推理小説と記してあるので明るい話ではないかもしれない。これはこっそり読むことにして、今回はその二冊で勘定を頼んだ。

「忍具店、面白いよ……」
「えっ、ああ……今度買ってみます」

 手に取って戻したのを店主は見ていたらしい。おまけに付けてくれたしおりと共に、本の入った紙袋を抱えたなまえは、ついでに夕飯の買い物も済ませて帰宅した。
 体を動かさない休日ではあまり腹も空かないので昼食は抜く事にする。食材を片付けて「怪忍二十面相」を書棚に仕舞った後、「風遁の又三郎」を片手に居間に入った。ストーブを点けて火の強さを最小にし、そこでようやく腰を落ち着ける。本を机に乗せると、新品ではないため装丁に傷が目立ったが、中が読めるならそんな事は気にしない。表紙を捲り最初のページを開いて、しばらくの間本の世界に没頭した。


 物音がして、なまえは顔を上げた。いつの間にか眠ってしまったらしい。寝ぼけ眼をしばたたかせていると、カチッと部屋の明かりが点けられた。その眩しさに再び自身の腕に顔を埋めたなまえは、後ろを通る足音に耳を傾ける。それは斜め先で止まり、微かな衣擦れの音を立てて座り込んだようだった。

「お帰りなさい」

 徐々に開いてきた目を向けて言えば「ああ」と返ってくる。いつもと変わらぬ声音に安心してなまえが破顔すると、伸ばされた手が前髪の辺りを優しく撫でた。その後でマダラが僅かに口角を上げたので、なまえは自分でもそこを触ってみる。すると重力に逆らうように、生え際から髪が数本跳ねていた。

「……そんな……」
「机で寝るからだ」

 マダラがあの表情を作るのは大抵なまえにおかしなところがある時だった。
 なまえは言う事の聞かない髪を撫でつけながら、机の端に寄せられた本へと目をやった。眠る直前の記憶はないが、しっかりしおりを挟んで閉じている辺り、我ながら抜かりがなかったらしい。
 少しして、マダラが襖を引いて台所に入ったので、なまえは伸びをして時刻を確認する。間もなく十七時を迎える頃だった。換気のついでに窓を開け、外の空気を取り込むと幾分か頭も冴えてくる。夕闇の淡い藍色の空を眺めながら、そろそろ夕飯の支度をしようかと考えていると、湯呑を持ってマダラが戻ってきた。二つの内の片方をなまえの座っていた所に置いたので、自身の分も入れてくれたのだと気付き、窓を閉めて再び腰を下ろした。

「ありがとうございます」
「熱いぞ」

 湯呑の縁に指を添え、湯気を立ち上らせるそこにそっと息を吹きかける。平気で口に含むマダラを見て、舌を火傷しないのだろうかと疑問に思いながら、飲める程度まで冷めるのを待った。
 人が、と言うより、マダラが入れた茶は不思議とおいしく感じる。自分が入れたものとも、食事処で出されるものとも違う。そう感じるのは、やはり――。

「…………」

 ――やはり、何だろう。湯呑をぼんやりと見つめて、もう少しで掴めそうだった答えは底に沈んでいった。残ったモヤをかき消すように一口含むとまだ熱かったが、それでもおいしいと思ってしまうなまえなのであった。


 食事と風呂を済ませ、日課の柔軟で体を伸ばしたなまえは居間に入って本の続きを開いた。読了まであと僅かなので今日中に読んでしまおうという魂胆である。昼寝もしてしまったから、寝るのが少々遅れても大丈夫だろう。
 しおりを片手で弄びながら読み進めていると、何やら視線を感じて顔を上げた。いつの間にか座っていたマダラが腕を組み、「まだ寝ないのか」とでも言いたげな目を向けている。

「あとちょっとなので……先に休んでてください」

 どうやら待っているらしいとわかってなまえがそう言うと、マダラはふいっと視線を逸らした。了承したのだと思い再度文章を辿り始めたが、少し経っても一向に動く気配がない。もう一度見上げると、腕を組んだまま瞼を閉ざしていて、なまえはしおりを撫でていた指を止めた。余程眠たかったのだろうか。じっと見つめてもそこが開かれる事はなく、どうしたものかと静かに本を置いたなまえ。自身が動かない限り布団には行かないだろうと悟って、なんだか申し訳ない気持ちになりながら口を開いた。

「マダラさん」

 ぽつりと呼ぶと、ようやく開かれた瞳がなまえを捉える。寝室へ行く事を提案すると今度はあっさり立ち上がったので、なまえはストーブを消火して部屋の明かりを切った。そして、玄関を施錠しに行っていたマダラと共に寝室に入る。
 後ろ手に襖を閉め、すでに敷いていた布団へ向かおうとしたが、不意に腕を取られて引き寄せられた。何事かと尋ねる隙もないまま温もりに包まれたなまえは、内心で戸惑いを覚えつつも、その真意を測るため顔を上げようと試みる。しかし、背中に回された手が一層強く体を密着させたので、それは叶わなかった。
 その胸元に顔を埋めながら、なまえはゆっくりと自らも腕を回そうとしたが、すんでのところで解放される。暗闇ではっきりとは見えないが、微笑んでいる様子のマダラは何かを発する事もなく、なまえの髪を撫でて布団へと入っていった。取り残されたなまえは空を切った手を静かに下ろし、やがて自身も布団に横たわる。

 目を閉じても、激しく鼓動を打つ心臓が眠気を遠ざけていた。交際経験のないなまえには、以前の口付け同様抱き締められるというのも初めてだったのだ。うたた寝の後で寝ぼけていたのだろうかと考えてはみても、まるで、あんな、全身で愛おしさを伝えてくるような抱擁に理屈を付けようなどとはあまりにも無粋であるように思えた。
 ほんの僅かな間だったが、なまえは確かにこの男に愛されているのだと実感した。同時に、届かなかった自身の手が無性に恨めしくなって、布団の中でぎゅっと握り締める。
 頭の中のあちこちで感情が錯綜していて、今夜は当分眠れそうになかった。