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 開け放った障子の間から、微かな春の匂いを乗せた日が差し込んでいる。
 どこにでもあるような着物を着て、濡羽色の髪を高い位置で結い上げたなまえは、姿見の前で笑顔を作った。

「行ける……」

 ついでに前髪の分け目も少し変えると、下町にいるようなただの娘の完成である。満足のいく仕上がりになまえは一人頷いて、忍用ではない草履を引っ掛けて家を出た。
 今日の任務は、任務と呼ぶほどのものではないのだが、里の民に困っている事がないか聞いて回ってほしいというものだった。人口が増え、生活も落ち着いてきた頃なので、そろそろ不満が出始めてもおかしくない。里としては、いずれ民からの個人的な依頼も任務として請け負う算段を立てているため、その下準備として、そういう話がある事を人々の間に流すのが真の狙いだ。無論、皆の困り事はどれほど些細な内容であっても、運営側からは気付けない貴重な情報になるので、そちらもしっかり持ち帰るよう仰せつかっている。
 うちはの装束で歩き回ると、皆構えて打ち明けにくいだろうという事でなまえはこうして変装している。普段は真っ直ぐに下ろしている手を、前で組んだり、時々髪をいじったりしていつもの自分を隠した。商店街ではよく通っている店を避け、世間話をする体で老若男女に声をかけていく。愛想よく挨拶すれば気のいい返事をしてくれて、天気の話などをした後にこちらの本題を持ち掛けると、特にないと答える者がほとんどだったが、小さくも悩みを零す者もいた。

「忍に頼めばやってくれるって聞きましたよ」
「本当? 落としたのは少し前だけど……大切な物だったの。探してくれるのかしら」
「私も詳しくはわかりませんが、そういうのを里が受け付けてるそうです」

 失せ物も依頼すれば探してくれる。見つかる保証はなくとも、忍が個人のためにも動くのだという話が広がれば、便乗して依頼を持ち込む者も増えていくはずだ。里が仰々しく宣伝するよりも、人々が自ら行動するように仕向けたほうが互いに良い、と涼しい顔で言ってのけたのは扉間だった。
 そんなふうにしながら花屋を後にすると、脇から出てきた人影とぶつかりそうになり、なまえは話のついでに買った花を落としてしまう。

「すまん。前を見てなかった」
「いえ、こちらこそ……」

 拾い上げて視線を向けると、見知った顔がそこにあった。謝罪を交わした柱間とその隣にいるマダラを見やって、外でこの二人に会うなど珍しい、となまえは心の内で感想を漏らす。
 一方で、目の前の女を見下ろす柱間は眉根を寄せて首を捻った。知っている面影ではあるが、はて、こんな少女とどこで会っただろうか。その顔の広さが記憶の糸を複雑に絡ませていて、うーんと唸る様子を見兼ねたマダラが「なまえだ」と助け舟を出した。

「む……なまえなのか?」
「はい。今、住民に扮して聞き込みをしてるんです」
「全く気が付かなかったぞ。よくわかったな、お前……」

 改めて声を聞き、ようやく柱間は理解したようだった。そしてマダラに感心したような、密かに呆れも含ませた目を向ける。この男に見分けが付かないはずもないのだが、確かにいつもと違う印象のなまえに視線を奪われていた。

「しかし本当に町娘のようだ。なまえ、歳はいくつだったか」
「そう見えるなら安心しました。今年で十九になります」
「……ん?」

 さらっと述べられた言葉に、柱間は聞き間違いかと隣を見た。だが、そちらも同じようで、合わせた目はゆっくりとなまえに戻される。珍しいことに、僅かではあったが動揺の色を示したのを柱間は見逃さなかった。

「十九? まだ成人してないのか?」
「成人は来年です」
「マダラ、お前知ってたか?」
「いや……」

 知るはずがない。そうは言わず、マダラはなまえを見つめる。年齢など気にもしていなかったし、とっくに大人だと思っていたのだ。言われてみれば、よくある着物を着て髪を上げ、きょとんと丸い目を向けるその顔には幼さが残っているように感じる。

「もう少し回りたいので、そろそろ行きますね」

 そう言い残し、一輪の花を大事そうに抱えて去るなまえを見送った後、柱間がゆっくりと口を開いた。

「流石に成人は迎えてると思っていたが……」
「…………」
「お前、随分若い娘をもらったな」

 一回り近く離れていたという事実に、柱間は乾いたような笑いを零す。それを横目に、同じ事を考えていたマダラは、すでに見えなくなった小さな背中に思いを馳せた。時々見せる子供っぽい反応は、年相応のものだったのだ。言動や振る舞いに誤魔化されていたが、やはり精神面には未熟な部分が残っているのだとわかって、じわじわと胸に熱が溜まってくる。

「……なまえはこれから、もっと綺麗になっていくんだろう」

 柱間が、まるで子を思う親のような慈愛を漂わせて言った。

「なあ、それを隣で見届けられるなんて、お前は幸せ者だぞ……マダラ」

 温い視線を寄越されても、マダラは珍しく「ああ」と同調を示した。成熟するなまえを思い描くと、あどけない一面までなくなってしまいそうで残念だが、そうなっても変わらず自身の隣にいてくれるのだろう。それなら、境目にある今だけの貴重な時間を、じっくり味わっておくのも悪くないかと人知れず微笑みを零した。



 表情や髪形、服装といった見た目に関する部分は、人に与える印象の中で最も大きな割合を占めている。あの格好で歩いていると、道中で風車売りに風車を貰って、なまえは一輪の花と風車を手にしたまま任務の報告に上がった。事を伝えるべき相手は扉間だったが、何か言いたげな視線を寄越しただけで、それ以上は触れてこなかった。なまえはやるべき事を全うしたのであって、花も風車もふざけて持っている訳ではないのである。その両手の彩りと格好は妙に調和が取れていたが、口から紡がれる言葉は仕事上のもので、周りの人間からすれば何とも不釣り合いな光景だった。
 風車を回しながら帰宅したなまえは、玄関に入ると、以前靴棚の上に花を飾っていたのを思い出した。ここに来てすぐの事だったが、貰い物などに関心を持たなかったなまえをマダラが変えたのだ。あの時買った花瓶をまた出して、持ち帰った花を生けてみたが、一輪では何だか寂しく見える。なまえはすぐさま花屋に駆けて、同じ花をもう一本買った。
 家に戻って花瓶に挿すと、寄り添う花がまるで喜んでいるかのように錯覚して、そんなはずがないだろうとかぶりを振った。草履を脱いで框に上がり、ほったらかしにしていた風車を拾い上げる。しかし頭の隅ではそう錯覚した理由も何となく気付いてしまい、なまえは自分で自分が恥ずかしくなった。
 そうしている内に玄関の戸が開かれて、なまえは慌てて振り返る。もうそんな時間かと外に目をやったが、まだ夕暮れには程遠い空が覗いたので、少し早めに帰っただけかと安堵した。

「お帰りなさい……」
「ああ」

 マダラは、何故なまえがそこにいたのかは、今朝までなかった花が飾られているのを見てすぐに察した。風車を両手で握っている姿は、一体どこの家の娘なんだと思ってしまうほど愛らしく、自身の妻だと言っても誰も信じないだろう。草履を脱いでなまえに迫ると、その顔にわかりやすく緊張が走った。

「マダラさん?」

 手を握れば戸惑ったように見上げてきたので、そのまま口付けを落とした。唇に触れる瞬間、握った手に力が入ったのが何ともいじらしくて、気付けば二度、三度と啄んでいた。
 この生娘のような反応も、年齢を考えれば無理はないかもしれない。頬を染めるなまえの心境を察するに、今すぐにでも逃げ出したい気分なのだろうが、それを堪え、たどたどしくも応じる様には胸を掻き立てられる。

「なまえ」

 まだ熟れていない唇も、全て自分だけのものだと思うと愛おしさが込み上げてくる。親指で優しくなぞっていれば、いよいよ居たたまれなくなったらしいなまえが、この手に風車を持たせて廊下の向こうへ逃げて行った。こういう事には特に慣れていない様子だが、マダラにはそれさえも好ましく思えたのである。手元で揺れる風車に目を落とすと、自身を取り巻く景色が幾分か華やいだように感じた。