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 一際強い風がさっと吹いた時、取り込んでいたシーツを攫われそうになったなまえは、飛ばされまいと慌てて両手で抱え込んだ。そっと目を開けて風の抜けた先を見てみると、敷地の角に植わっている木が、あでやかな桃色のつぼみを膨らませているのに気付いた。シーツを抱えたままそばに寄って見上げれば、それは幾つも連なっていて、中には二、三輪綻んでいるものもある。花枝がなく、葉と花が同じところから芽を出している様子を見ると、これが桜や梅ではなく、花桃の木である事がなまえにはわかった。
 以前の自分であれば、花のつぼみなど気にも留めなかっただろう。それほど今の生活が心にゆとりを生じさせているのだと、なまえは二人分の布団にシーツを掛けながら思いを巡らす。もしなまえが生まれたのが戦いのない平和な時代であったなら、それこそ色とりどりの花々に囲まれて無邪気に暮らしていたに違いない。何にでも興味を持っていたあの頃の自分を置き去りにして、戦乱の世で生き抜く事を強いられる必要もなかったはずだ。
 だが、今それを取り戻しつつあるのは、平穏なこの里で暮らし、マダラという男の隣で生きているためであろう。花桃のつぼみを眺めながら、なまえはぼんやりとその姿を思った。


 マダラが帰宅して、玄関の戸を閉めると、尚も風の通りが残っているのを肌に感じた。廊下を見れば寝室が開けられており、そこにいるのかと中を覗くが、敷布団が広げられているだけである。シーツを替えたらしいのは一目にわかって、その向こうに目を向けると、同じくそこで開けっ放しにされている障子が風を招いていたようだった。
 近頃は春の陽気が混じり、寒さも引いてきているので、特に咎める事もないかと体を引っ込めようとしたが、視界の奥に肌色を捉えたような気がして止まった。もしやと思いながら向かってみると、縁側で座ったまま眠りこけているなまえの姿があって、マダラは些か溜め息をつきたい気分になる。
 夕日を織り込んだ髪を耳にかけてやると、何とも無防備な寝顔が曝け出された。長い睫毛が影を落とし、薄い唇は僅かに開かれていて、人に襲われでもしたらどうするんだ、と尚も穏やかな寝息を立てるその身を案じる。

「…………」

 起こそうとして口を開いたが、疲れているなら寝かせてやるべきかと言葉を噤んだ。そして、後ろに布団が敷いてあるのを思い出し、そっとなまえを抱え上げる。自分よりもずっと小さなこの体で、よくもまああちこち飛び回れるものだ。そう感心しながら寝室へと踏み出せば、突然なまえが両の手を使ってしがみ付いてくる。マダラは立ち止まったまま、一体何事かとその様子を見下ろしていると、顔を押し付けたなまえがか細い声を漏らした。

「……落ちた……崖から……」

 浮遊感が良くない夢を見せたらしかった。次第に現実へ戻ってきたのを理解したようで、なまえは安心したように体の力を抜き、頬をすり寄らせてくる。寝ぼけているだけだとわかっていても、マダラはたまらない気持ちになった。
 眠気に付き纏われたなまえは、どうにも甘えたがりな一面をのぞかせる。羞恥が誤魔化されているだけなのだろうが、見つめただけで動揺を露にする普段との差が一層胸をくすぐるのだ。
 布団に下ろしても離れようとせず、胸元に顔をうずめるなまえの髪をマダラは優しく梳いた。しばらくそうしていると、やがてなまえがじわりと体を離し、夢のような時間は終わりを迎える。意識がはっきりしてきたようで、どこか気まずそうに顔を俯けるなまえを、マダラは少々名残惜しく思いながら解放してやった。

「あの……庭の、花桃の木……」
「……あれか」
「昔、兄がよく見せてくれたんです。それで……」

 懐かしくて、回顧しているうちに眠ってしまった。と、なまえは眉尻を下げて微笑んだ。
 なまえという人間を語る上で、兄の存在は決して欠かす事ができないのだろう。未だ胸に残っているらしいその一途な思いは、マダラにとって好ましいほどだった。

「私、そろそろご飯、を……」

 なまえはゆっくりと目線を上げると、そこに慈愛のこもった眼差しがあって胸をどきつかせる。うたた寝してしまったと思ったらマダラの腕の中にいたし、そんな瞳で見つめられてはもう心臓が持ちそうになかった。なまえは逃げるように寝室を出て行ったが、そんな後ろ姿にさえマダラは微笑みを零した。この程度であたふたとするなまえも、寝起きのしおらしいなまえも、どちらも愛おしく映ってしまう。それほどにマダラはなまえという女にのめり込み始めていたようだった。



 数日後、仕事を終えたなまえは、随分遅い夕食を取るためいつもの定食屋を訪れた。夜明けの近い時間という事もあり、客は他に二組いる程度で閑散としている。それでも尚、店主の挨拶は気持ちが良く、外の暗さなど吹き飛ばしてしまうほどだった。

「今日は一人かい、なまえちゃん」
「はい。先日はすみませんでした、突然」
「いやいや、いいんだよ! 結婚してたなんて知らなかったから、驚いたけどさ」
「あ……それは最近の事で……」

 カウンター席へと着いたなまえに店主は食器を拭きながら話しかける。なまえは、ニコニコと人のいい笑顔を浮かべる様子を見て、柱間と同じ太陽の側の人間だなと目を細めた。

「今日はどうする? いつもの日替わりに、餡蜜でもつけようか」
「定食だけでいいですよ」
「それで足りるかい? 満足して帰ってもらわないと、オレが旦那さんに叱られちまう」

 そう言って、困り顔を作ってみせた店主になまえは首を傾げる。何故、そこでマダラが出てくるのだろうか。その疑問は、頭を過った時にはもう口を衝いていた。

「どういう事ですか?」
「聞いてないか? いやまあ、そんな感じの御仁だったが……。勘定の時、わざわざオレを呼んで挨拶してくれたんだよ」

 妻が世話になっている、これからもよろしく頼む。と、些か声音を寄せて店主が言った。それを聞いて、なまえは目を丸くする。あの時、先に出てろと追い出したのはそういう事だったのかと、ようやく合点がいった。
 しかし、妻、とは。確かにそう呼称される立場にあるのだが、人伝に聞いただけでもなまえは気恥ずかしさを覚えてしまう。だが、マダラは自分をしっかりそう扱ってくれているのだとわかって、嬉しい気持ちも少なからずあった。

「そういう訳でさ、祝いも兼ねて、今日は店の奢りだから好きな物たっぷり食べてくれ」
「えっ? いえ、お気持ちだけで十分です……」
「いいからいいから。何でも作ってあげるよ」

 まずは定食からだな、と店主は笑い、揚げ物の準備を始めた。何でもと言われても、そこまで食べたい物は思い浮かばず、なまえはぼんやりとお品書きを眺める。

「それにしても旦那さん、随分いかつい人だったが……嫁さんの事は大切にする男だな、ありゃ」
「いかつい……?」
「さぞ愛されてんだろう、なまえちゃん」
「…………」

 なまえは、その言葉を否定する事などできなかった。近頃のマダラは、何と言うか、愛情表現を頻繁にしてくるのだ。見つめられるのや、髪を撫でられるのは恥ずかしいながらも受けられるようになってきた。だが、抱擁や、特に口付けなどはどうしても緊張するし狼狽えてしまう。マダラは自身への思いを伝えているだけなのだろうが、それをためらいなく受け止めるには、やはりまだ自分は子供なのだと痛感させられる。こと男女間の付き合いに関して経験が皆無であるのが、然るべき順序をすっ飛ばして婚姻などしてしまっては、最早後戻りなどもできないため、どうにか前へ進んでいくしかないのだが。
 己の不甲斐なさに表情が沈み始めたなまえを見兼ねて、店主が白い歯を見せて笑った。

「ま、なまえちゃんが選んだ男だ。きっと間違いはねえさ」

 そう言うなり、手元で油の弾ける音を鳴らし始める。それを聞きながら、なまえは今の店主の言葉に心の内で訂正を加えた。選ばれたのは自分のほうだ、と。
 関係とは双方の働きかけがあって成り立つものだ。一方が相手の器を満たすだけでは、いずれ自身が空になってしまう。そうならないためには、互いが互いに注ぎ合って、枯れる事のないよう満たし合わなくてはならない。
 それなのに、なまえは自分がまだ何も返せてない事に気が付いた。望まれた立場とはいえ、相手に委ねてばかりでは、いずれ呆れられてもおかしくない。マダラはそんな酷い男ではないとわかっているが、やはり少しずつでも返していかなければ、対等な関係ではなくなってしまうような気がする。
 出された膳を食べ終えると、妙に勧められた餡蜜もせっかくだからと頂いて、些か苦しさを覚えつつ両手を合わせた。勘定を頼んだが、店主が今回ばかりはと頑なに拒否したので、なまえは申し訳ない気持ちになりながらも言葉に甘えさせてもらった。近い内に必ずまた食べに来る事を約束して店を後にした。


 家に着く頃には空も薄明るくなってきて、日の出の頃を知らせていた。なまえは静かに玄関の戸を閉じて、まずは脱衣所に向かう。手を洗った後、風呂の蓋を開けるとまだ湯が残っていたので、少し温め直してから入る事にした。
 その間、なまえは緊張を含んだ足取りで寝室を目指した。そろりと襖を引けば、ほの暗い室内に眠っているマダラと隣に敷かれている自身の布団が目に入る。帰宅時間がはっきりしないながらも、遅くなる日はいつもなまえの分も出してくれているのだ。なまえは心の内で感謝を述べながら、ゆっくりと、それこそ忍び足でマダラの横に腰を下ろす。こうして近くで寝顔を見るのは初めてだった。何だか、あどけない表情に胸が高鳴るのを感じたが、あまり凝視しては気取られてしまいそうなので、僅かに盗み見る程度に抑える。
 マダラは、どうしてこんなにも自分を思ってくれるのだろう。真っ直ぐに愛してくれるほど、自分に何かを見出しているのだろうか。その気持ちに応えるには、幼さが邪魔をしてもう少し時間がかかってしまいそうだが、今だけは。今だけは、ほんのちょっとだけ返せそうな気がした。
 そっと頭の横に手をついて、肘を折り曲げる。もう片方の手で右の瞼にかかる髪をよけると、目前に迫るその顔にぶわりと感情が湧き起こった。気付けばなまえは眠っている男に口付けを落としていて、それは止まらずに二度、三度と繰り返した。

「…………」

 こんな事をするなんて、一体どうしてしまったのだろう。そう自問している間にも、胸の奥から熱が溢れ出てくる。愛おしいというのはこの感情を指すのだと理解しながら、なまえはその思いを乗せた手でマダラの頬を撫でる。すると、瞬きをした後のように、きれいに開かれた瞳と視線が交わった。なまえはピタリと動きを止めたが、即座に今の状況を思い出して体を飛び退かせる。

「あっ……あの、……えっと……」

 口を動かそうとしても、紡ぐ言葉が見つからない。座ったまま後ずさろうとするなまえを、マダラはいとも容易く捕まえて、そこにあった布団に押し倒した。少々暴れるその体をのしかかることで押さえつけ、何かを発しようとして開かれた口を自身の唇で塞ぐ。そのまま舌を入れ込めば、抵抗をし始めたので口蓋を舐め上げた。途端になまえの全身の力が抜けたのがわかって、その素直な反応にマダラは笑いを零しそうになる。

「んっ……」

 鼻から漏れる声も、きゅっと眉を寄せた顔も愛おしくて、マダラは角度を変えながら何度も何度もむさぼった。肩を押し返そうとしていた手も最早添えられるだけで意味をなさず、握ってやると弱々しく指を絡めてくる。その態度に胸が満たされて、ようやく顔を離すと、唾液で濡れそぼったそこが艶々と赤らんでいた。ついまた引き寄せられそうになると、それを察したらしいなまえが少々強引ながらも自身の下から抜け出してしまう。

「なまえ」
「お……お風呂に、私っ……」

 顔を真っ赤に染めて、相変わらずの混乱した言葉を残し、なまえはバタバタと出て行った。
 マダラは、襖が引かれた時点で意識を起こしたが、どうにも動きのおかしいなまえを目を閉じたまま窺っていた。すると、そばに座ったかと思えば口付けを始めて、顔を撫でられた辺りでこらえきれなくなって瞼を上げたのである。全く、寝込みを襲うなど、かわいい事をしてくれる。
 あのままなまえを抱いていればどれほど満たされただろうかと思いを馳せるが、それは彼女の心に背く事になる。あの約束を承知した上で共にあることを望んだのだから、そこを越えない範囲でなまえをめいっぱい愛してやればいい。
 起きるにはまだ早い時間のようだったので、マダラは夢心地な気分のまま、再び布団に体を沈めた。