18


 吹き降りの嵐が夜更けから里を襲っていた。朝の早い時間、仕事着に身を包んだなまえは髪を軽く整えた後、大粒の雨が打ち付ける雨戸をほんの少しだけ開けてみた。ぶわっと風が舞い込んで前髪を乱されたが、気にした様子もなくその先の景色を覗き込む。まずは上、次に下へと目をやって、落胆したように溜め息をついた。やっと満開になった花桃の木が、この嵐に曝されて無残にも花びらを散らしてしまったのだ。土に落ちた桃色はぺったりと重なり合い、止めどない雨に打たれている。

「雨が入るぞ」

 外を見つめて動かないなまえを見兼ねて、マダラが雨戸を閉じるように言う。足元に目を落とすと、隙間から入った雨が床を濡らしていた。なまえは渋々といった様子で雨戸を閉じ、些かしょぼくれた顔を作る。

「やっと咲いたのに……」
「嵐ではどうしようもないだろう」
「はい……でも、もう少し眺めたかった」
「花はまた咲く」

 素っ気ない言葉だが、慰めてくれているのだとわかって、なまえは気を取り直さざるを得なかった。確かに、散ったものは仕方がないし花は来年も咲くだろう。裾にかかった水滴を払い、時計を見るとそろそろ家を出る頃合いだった。

「今日は行かないんですか?」
「こんな日に出ても、柱間の無駄話に付き合わされるだけだからな」

 呆れを含んだ声でマダラは言った。雲行きが怪しかったので、できる事は昨日のうちに済ませておいたのだ。なまえのほうも中止になるだろうと踏んではいるが、自分の管轄ではないためはっきりとはわからない。珍しくマダラが見送る立場となったが、雨合羽を羽織るなまえはどこか嬉しそうにして「いってきます」と嵐の中へ歩いていった。


 転がる桶を避けながら、どこもかしこも雨戸の立てられた道を抜け、ようやく辿り着いたなまえは合羽を脱いで水気を払った。入口のそばに出されていたフックに吊るし、人気のない階段を滑らないように上っていく。任務管理室に入ったが、誰の姿も見えなかったので今度は執務室を目指した。こんな日に好き好んで出てくる者もいないだろうなと考えつつも、目当ての人物は必ず来ているはずなので、その足取りに迷いはない。開き戸を叩くと、間を置かず内側から開けられて、探していた男が顔を覗かせた。

「悪い。少しこちらに用があった」
「大丈夫です」
「水の国の件、早い内にと思っていたが……明日に回す。この天候では海も荒れてまともに近付けん」

 少々苦い顔をして扉間が言う。幾つか調査を頼みたかっただけで、他に支障が出るほどの事ではないので一日ずれるくらい問題はない。行けと言えばなまえはあっさり従うのだろうが、方々から非難を受けるのは確実で、自身も彼女を危険に曝すつもりなどさらさらなかった。

「ここで手伝う事はないですか?」
「ないな。今日は特に暇になる」

 外が酷くなる前に帰れ、と続けようとしたが、部屋の中から「あるぞ」と声が届いて扉間は顔を顰める。仕事の用件ではないのが明らかにわかる声音だったからだ。聞く必要もないのに、なまえは奥へと意識を向ける。頼みを断らないお人好しなところが柱間のような男に付け入る隙を与えるのだと扉間は思った。

「すまんが茶を入れてきてくれんか。オレと、扉間と、お前の分」
「私の分も?」
「せっかく来たんだ。一息ついていけ」

 そう言って笑った柱間に頷いて、なまえはたった今入ったばかりの部屋から引き返す。出る直前、ふと気付いて扉間に目を向けると、給湯室が一階にある事を教えてくれた。階段を下りながら、家を出る前にマダラが話していた事を思い出す。無駄話かどうかはまだわからないが、付き合わされるというのは確かにその通りだったなと苦笑を零した。

 数分後、盆を抱えてなまえが戻ると、扉間も腰を落ち着けており、ここで仕事をすることに決めたようだった。湯呑を置いていると「お前はここに」と柱間が椅子を出したので、なまえは大人しくそこに座る。二人はすぐに茶を含んだので、やはり自分の舌は子供なのだと改めて認識した。

「マダラは家にいるのか?」
「はい。今日は出ないって……」
「まあ、そうだよな」

 窓の外を見つめていると、柱間が尋ねてくる。流石にあの言葉を伝える訳にはいかず、なまえは湯呑に目線を落とした。

「お前達の家の、庭の桃が咲いた頃だろう」
「咲きましたけど、この風でもう……」
「そうか……あの木はな、マダラがあの家に住むと決まった時、オレが植えてやったんだ」

 勝手に持ってきて勝手に挿したが、興味がないらしく何も言われなかった、と柱間は口を開けて笑った。確かにマダラが花に関心を持つようには見えないが、まさか柱間が植えたなんて、それはそれで中々に衝撃である。しかし挿したと言うには、里作りが始まった年を遡っても随分と木が成長しているように思えた。その辺りは彼の木遁があればどうにでもできるのだろうか。細かいところはなまえにはわからなかったが、それよりも尋ねたい事があった。

「どうして桃を?」
「ああ、あいつには似合わん可憐な花だが……悪い気を払うって言い伝えがあってな」

 そちらの方面には詳しいらしく、得意気に語る柱間をなまえは感心した様子で見た。幼い頃、自身の兄もそれを知っていて見せてくれたのかと思うと切なさが胸に湧き起こってくる。

「……あの花には、思い入れがあります」
「そうなのか? やっぱり、花を贈るなら女子がいいよな……扉間」
「男にやるよりはいいだろうな」

 話を聞いていたのか否か、扉間は書を捲る手を止めず至極当然な意見を寄越す。なまえはてっきり「オレに振るな」とでも返しそうだと思っていたので少々意外だった。

「それにしても、お前の白無垢は綺麗だったろうになあ」
「いえ……どうでしょう」
「来年だったか。成人した祝いにでもねだって着せてもらえ」
「えっ? いいですよ、そんな……」
「待て。兄者、今何と言った」

 扉間は、今度こそピタリと動きを止めた。柱間は首を傾げながらも、「だから……」と同じ言葉を繰り返す。それを聞いた扉間は、怪訝そうな顔をしてジロジロとなまえを見た。

「成人してなかったのか。いや、若いとは思っていたが……」
「何だ、お前も知らなかったのか?」
「……女は難しい」

 やれやれといった調子で溜め息をつき、扉間は思案するように目を伏せた。なまえは少し居心地の悪さを覚え、誤魔化すように茶を一口飲む。先日も柱間とマダラに驚かれたばかりだった。年相応に見られたいという願望を持っている訳ではないが、こうも立て続けに言われると、流石に色々と考えてしまう。

「あの時は、十七だったという事だな」

 やがて、神妙な声音で扉間が零した。何の話かすぐに察しのついたなまえは「はい」とだけ返事をして再び湯呑に目を落とす。

「幾らお前とはいえ、一人で抱えられる歳ではなかったはずだ」
「……皆さんの支えがあったから、耐えられました」
「だが、乗り越えてはいないだろう」
「扉間」

 よせ、と柱間が目配せする。皆が口を閉じ、沈黙が訪れた。なまえは湯呑の水面に当時の光景が映し出されそうな気がして、わざと少し傾けて波紋を立てる。六人の命が失われた事件だ。それを容易く乗り越えられるほど、なまえの心は強くない。

「なまえ、この事はいずれ必ずマダラに話せ。お前の問題は、最早お前だけのものではない」

 珍しく踏み込んでくる扉間に、なまえは尻込みする。言っている事はわかるし、そうしなければならないのは自分でも薄々感じていた。何故ならこれはなまえが婚姻する際に述べた、子供は成さないという約束に深く関わっているからだ。扉間がそこまで知っているのかはわからないが、自身を思って言ってくれているのは十分に伝わるので、ひとまずその事だけは胸に落とした。

「はい。でも……すぐには難しいです」

 出てきたのは弱気な言葉だったが、今のなまえにはそれが精一杯だった。淡々として、多くを引きずらないなまえに、それほどの傷を残した事件だと言える。

「……風が強くなってきたな。これ以上荒れる前に帰ったほうがいい」

 幾分か落ち込んできた空気に耐え兼ねて柱間が腰を上げた。窓に目をやれば、ガタガタと揺れるガラスが割れやしないかと心配になるほど風が勢いを増しているようだった。
 なまえは、湯呑に残った茶を飲み干すと、扉間に「置いておけ」と言われたので盆の上に静かに乗せた。そして、下まで送ると申し出た柱間と共に廊下へ出る。直前に、扉間に別れを告げると返事をしてくれたのでなまえは僅かに安堵した。

「なまえ。オレも扉間の言う通りだと思う」

 薄暗い階段を下りながら、柱間は零した。

「どんな事があっても、マダラはお前を見捨てたりしない」
「……私に、打ち明ける勇気が足りないだけです」
「焦らなくていい。お前にその気があるなら、あいつは何年だって待つだろう」

 その言葉に、なまえは心臓を掴まれた感覚がした。柱間の言う通り、どれほどかかってもマダラは待ってくれるのだろう。だが、それに甘えてしまっては、恐らく一生前には進めない。きっかけなど待っていても都合よく現れるはずがなく、自ら足を踏み出さなければならない事はなまえとて十分理解していた。

「すごい雨だぞ。帰れるか?」
「はい。……それじゃあ、また」
「ああ。風に飛ばされるなよ」

 親のような事を言う柱間に、合羽を被ったなまえは微笑みを返して歩き出す。その背中がいつも以上に小さく見えて、柱間は胸に心細さを覚えた。



 合羽を丸めて草履を脱いでいると、廊下のほうからマダラが姿を現した。任務が中止になるのは予測できていたようで、なまえの手から合羽を攫い、「少し待ってろ」と脱衣所に入っていった。今度はタオルを片手に戻ってきて、些か雨に濡れたなまえの髪を優しい手つきで拭い始める。

「柱間にでも捕まったか」
「いえ……お茶を飲んでいけって」
「相手にするな」

 年寄りか何かだと思って適当にあしらえ、とマダラは呆れたように言った。だが、向けられる目は穏やかなもので、なまえはやはり、この瞳の前ではどんな事も打ち明けられそうな気がして、向き合う日が訪れるのもそう遠くはないかもしれないと、微かな予感を抱いていた。