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 洋服箪笥に服を掛けていると、ほのかな香りが鼻をくすぐってなまえは無意識に動きを止めた。たった今取り込んだばかりだが、洗剤は同じ物を使っているのだし、自身の服も同じ匂いがするはずだとなまえは着ている服の襟元を手繰り寄せる。しかし洗剤の匂いがするだけで、マダラの服から漂ったものは些か違うように思えた。それを確かめるには、目前にある黒の衣装に鼻を寄せるだけでいいのだが、体は簡単には動かない。人の服を嗅ぐなどはしたないのではないかと己の心が咎めているからだ。

「……少しだけなら……」

 しばし葛藤したものの、結局欲望のほうが打ち勝って意を決した時、玄関の戸が開く音がしてなまえは飛び上がった。慌てて箪笥を閉じ、畳んだタオルを抱えて襖を引く。

「お帰りなさい……」
「ああ」

 どきつく胸を押さえつつ、平静を装ってその姿を眺めていると、マダラはなまえの手からタオルを攫ってそのまま通り過ぎた。脱衣所へ行くついでに片付けてくれるのだろう。だが、なまえの頭はふわりと掠めた匂いでいっぱいになっていて、礼を言うどころではなかった。

 風呂の後、夜風に当たりながらなまえは体を伸ばしていた。開いた足に上体を倒せば、大腿の付け根が伸びて気持ちが良い。体はしなやかであったほうが何かと動きやすいのだと兄に教えられて欠かさず続けている。しかし、今となっては柔軟というよりも凝りを解す目的でやっているようなものだった。
 一通り済ませて畳に布団を敷いていると、再びあの匂いに鼻腔をくすぐられてなまえは頭を抱えたくなった。今日は何故だかずっとこの香りに囚われている。
 これではいつまで経っても心が落ち着かず、モヤモヤを残したまま朝を迎える羽目になる。それならいっそ、たった一瞬の恥を忍んで、今ここで片を付ければいい。そう腹を括ったなまえは閉ざした襖に耳を当て、マダラが風呂から上がる気配がないか確認した。僅かに水の流れる音が聞こえたので、今なら大丈夫だと判断し、整えたばかりの布団をそっとめくる。ゴクリと喉を鳴らした後、恐る恐る体を滑り込ませると、瞬く間にその匂いに包まれた。
 強い香りは苦手ななまえだったが、人工的ではない、頭をとろめかすようなこの匂いにはすっかり虜になってしまう。ふわふわとした幸福感に満たされたなまえは、その布団に身を沈めたまま、あっという間に夢の世界へと意識を落としたのであった。


 脱衣所を出たマダラは、居間でしばし過ごした後、戸締りと消灯を済ませて寝室を開けた。手元から室内へと目線を移した時、明かりに照らされたその光景に動きを止める。姿が見えなかったので先に休んだのだろうと察してはいたが、あろう事かなまえは自身の布団に体を入れて眠っていた。よもや布団を間違えるはずがなく、誘っているのかとも疑ったが、なまえに限ってそれはない。その事を裏付けるかのように、押し入れと、縁側に繋がる障子が開けっ放しにされていた。
 何故そこで寝たのかまでは理解が及ばないものの、自身を求めているかのような姿に喜びを感じないはずもなく、欲を言えばそんな綿の塊よりも己の体に寄り添ってほしいものだが、まあ、彼女にはまだ難しいだろう。
 幾分か気を良くしたマダラが力尽きたなまえの代わりに後片付けをしていると、物音に気付いたらしく衣擦れの音を立てながら体を起こした。

「ん……ごめんなさい……」

 何に対しての謝罪なのかはさて置いて、目元を擦りながら立ち上がろうとするなまえを制し、障子を閉じて早々に明かりを切る。寝ぼけている間にもう一度寝かせてしまおうという魂胆だった。
 だがその前に、無意味だとわかっていながらも一応確認を取っておく。

「ここで寝るか?」
「……ねる……」

 そう漏らしたなまえをマダラは敢えて都合よく解釈し、その小さな体躯を支えながら共に横たわる。なまえのほうに十分布団を掛けてやって、背中に腕を回せばすっぽり胸元に収まった。なまえとて多少の筋肉は備えているだろうに、触れる肌は妙に柔らかく、その滑らかさは指を這わせてしまいたくなるほどだ。
 すでになまえは寝息を立て始めていて、顔にかかる髪をよけてやるとかわいらしい額が露になる。つい引き寄せられて唇を当てたが、身じろぎ一つしないのは気を許してくれている証だろうか。当の本人は眠っているというのに、反応がないのを侘しく感じたマダラは瞼の下の辺りを親指で優しくなぞった。すると流石にくすぐったかったようで、なまえはその手から逃れるように額を押し付けてきた。
 女を抱いて寝るのは初めてではなかったが、胸元の温もりにこれほど愛情が溢れた事はない。もはやどうこうしてやろうという気さえ起きず、この夢のような一時をなまえの体ごと大事に腕の中へ閉じ込めた。



 翌朝、なまえは妙に満たされた気分で目を覚ました。自身を包む熱に縋り、一度大きく息を吸い込めば、その分だけ幸せが行き渡る。
 いい匂い。夢心地のまま浮かんだ感想をぽつりと零すと、笑いを含んだような声が頭上の辺りから聞こえてきた。

「オレの匂いが好きか」

 なまえは急速に頭が冷えてくるのを感じた。爪の先から呼吸さえもピタリと止めて、数秒後、恐る恐る体を離して声のしたほうに目を向ける。その瞬間、心臓が止まるような思いをした。

「なっ……なんで……」
「お前がオレの布団に入ったんだろう」

 そう言われて、なまえはその記憶を瞬時に思い起こした。昨夜、不純な動機でマダラの布団に顔を埋めた事を。挙句の果てに、どうやらそのまま眠ってしまうという失態まで曝したらしい。
 穴があったら入りたいとはまさにこの事だと思った。顔を覆った手の隙間から言葉にならない声を漏らしていると、マダラがあやすように背中を撫で始めた。それがますます恥ずかしさを助長させて、なまえはしばらく顔を上げられそうになかった。
 やがて、落ち着きを取り戻したなまえは何かを発する事なく布団を抜け出して、そろりと寝室を出て行った。その姿に、マダラは綻ぶ口元を抑えきれない。曲がりなりにも、なまえの気持ちが自身に向いているのだとわかったからだ。
 始めこそこちらの行為をしおらしく受け入れるだけだったのが、先日から寝込みを襲ってきたりと、少しずつその感情を見せ始めている。何とも回りくどい表現ばかりだが、その分気付いた時の喜びも大きく、何故か本人が慌てふためく姿はおかしくも愛おしいと思えた。

「マダラさん、そろそろ起きますか? お茶を……」

 数分後、布団を畳みに来たなまえが尋ねてくる。少し経てばけろっとしているのが彼女だった。その切り替えの早さは、恐らく育った環境が身に付けさせたものだろう。もう少しからかってやるのも悪くなかったが、これ以上は些か不憫に思えそうだったのでマダラは素直に体を起こした。
 箪笥から服を出す横顔を眺めながら、次は一体何を仕出かしてくれるのかと期待を抱かざるを得なかった。