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 何故なまえがうちはを大事に思っているのかと問われると、単純に自身がその血を継いでいるからだと答えるだろう。例え千手や他の一族に生まれていたとしてもそれは変わらず、基本的に家や伝統と言ったものを蔑ろにするような性格はしていないのである。
 自己犠牲を厭わないのは、なまえのためにと死の間際まで尽力した兄の姿が今なお彼女の心に深く残っているからだ。人を見る目が備わっているため誰彼構わず庇う事はしないが、一度懐に入れたものに対しては一切を惜しまず尽くそうとする。
 そういった姿勢が当時の彼の心を揺さぶって現在へと繋がるのだが、そんな事は露知らず、なまえは呑気に日当たりの良い縁側で刺繍を施していた。手拭いの端のほうに赤と白の糸で形取られた小さなそれは、なまえの背中にあるのと同じうちはの紋だった。この刺繍は母がまだ生きていた頃に教わったもので、ふと思い出した時にやってみるとどうにも懐かしい気分になる。
 糸を切り、完成したそれを眼前に持ち上げて満足そうに眺めるなまえ。そんな優雅な一時を過ごす彼女の元に、忍び寄る一つの影があった。その気配に敏く気付いたなまえは素早く視線を走らせて、数秒動きを止めた後、バタバタと家の中を駆けた。向かったのはつい先程帰宅を果たした男の元で、何事かと向けられる視線に構わずなまえはその腕を掴む。

「どうした?」
「今、庭に……」

 とにかく来てくれと言わんばかりに腕を引くなまえ。全く状況が読めず、訝しみながらもマダラは着いていく。そして、連れてこられた縁側で、きょろきょろと外を見回すなまえに再度口を開く。

「何なんだ」
「さっき、確かに入ってきてたんですけど……」

 だから、何がだ。肝心なところをぼかす彼女に、はっきりするよう促そうとした時、なまえの足元の辺りからひょこっとそれが頭を出した。なまえはわあと声を上げてマダラの背中に隠れ、どきつく胸を押さえながらその姿を凝視する。

「……犬か」

 床板の縁に前足を掛けて、ハッハッと息荒く二人を見上げるそれは柴犬だった。
 門は閉じたはずなのに、垣の隙間から入ったのだろうかと思案しながらマダラは腰を下ろす。手を伸ばして小さな頭を撫でてやると、嬉しそうに擦り寄ってきて、尻尾の勢いも幾分か増したようだった。

「飼い犬だな。人に馴れてる」
「……噛んだりしないんですか?」
「そうは見えん」

 不安そうな表情を浮かべてなまえが問うと、マダラは犬に視線を向けたまま答えた。なまえは初めて対峙するそれに少しばかり恐怖心を抱いていたが、マダラの穏やかな目つきに気が付いて幾分か落ち着きを取り戻す。そして自らも膝を付き、じっと犬を見下ろすと、犬も犬でなまえを見上げ、連動したように尻尾の動きも止まった。しばし見つめ合っていたが、つぶらな瞳に絆されたなまえがそうっと手を差し出すと、犬は鼻を寄せてにおいを確かめた後、ペロペロと舐め始めた。

「な……何もないよ……?」

 戸惑いを隠しきれずなまえがそう零すと、今まで彼女らの邂逅を見守っていたマダラが肩を震わせた。なまえはいよいよ困り果てた様子でそちらを見やったが、別段取り繕われる事もなく、ただ口角の上がった顔がそこにあった。
 マダラはおかしくて仕方がなかった。まさかなまえが動物などに語りかけるとは思いもしなかったのだ。普段しっかりしているくせに、時折こういった一面を見せられるとどうにも気が抜けてしまう。
 マダラには犬よりも彼女のほうがかわいらしく思えたが、からかって機嫌を損ねてしまってはいけないので、代わりに犬の頭を撫で回した。そして、上りたそうに跳ねた犬を持ち上げてやると、顔に目掛けて襲いかかってきた。

「こら、よせ……」

 結局のところ、マダラもなまえと相違ないようだった。
 引き離して膝に下ろすと、犬は大人しく座り込んだ。背中を優しく叩くとそのまま伏せてしまったので、何とも人懐っこい性格をしているようである。
 なまえは、気持ち良さそうに目を細める犬を覗き込み、そっと一撫でして「かわいい」と顔を綻ばせた。恐怖心などものの数分ですっかり忘れてしまったらしい。
 やがて、どこからか「太郎」と呼ぶ声がしたかと思うと、犬が返事をするように吠えて飛び出していく。顔を見合わせた二人は、飼い主が探しに来たのだとすぐに察しがついた。

「ちょっと行ってきます」

 あんなかわいらしい犬が迷子になって、さぞ心配しただろうに。引き留めていた事を詫びるためなまえは表へと出て行った。
 マダラは、少し抜け毛のついた服を払い、ふと柱の辺りに目をやった。裁縫道具と手拭いが置いてあって、ここで縫い物をしていて小さな侵入者を見つけたのかと、先程のなまえの慌て振りを思い出す。そして、その手拭いに施された刺繍に気付き、手に取ってしげしげと見つめた。
 うちは一族の紋。端のほうに小さく形取られた赤と白のそれ。たったそれだけなのに、マダラの胸にはじわりと熱が広がった。彼女が秘めているうちはへの愛着が、それを通して感じられたからだ。なまえは何の気なしに施したのだろうが、自分を喜ばせるためにやったのではないかと疑うほど、その些細な行為がマダラには嬉しかった。

 しばらくして戻ってきたなまえが手拭いを見られているのに気が付くと、「上手じゃないから」と恥ずかしそうに取り返した。腰を下ろし、マダラとは逆のほうにそれを隠して、今し方聞いてきた話を口にする。

「飼い主のご夫婦が、角のところに住んでるそうです。よかったらいつでも撫でに来てくださいって……」

 その姿を思い浮かべて、堪らずになまえは「太郎……」と零す。余程気に入ったらしく、愛しげに目を細める彼女をマダラはじっと見つめた。そして何を思ったか、手を伸ばしてその頭を優しく撫で始める。なまえは僅かに目を丸くして、頭のほうはされるがままに、おずおずと隣の顔を見上げた。すると、こちらを見つめる深い瞳と視線が合い、なまえの平静などたったそれだけで簡単に失われてしまった。

「私、犬じゃないです……」

 恥ずかしそうに顎を引き、そんな事を口にする。それが何とも魅惑的な表情を作り出しているのを本人は気付いているのだろうか。
 先程からなまえへの愛しさを募らせていたマダラは、こらえきれずにその体を引き寄せた。瞬く間に包み込まれて、なまえは理解が追い付かなかったが、すぐにここが縁側である事を思い出す。垣があるとはいえ、人目に付いたらと思うと居たたまれず、少しばかり抵抗を示してしまった。

「……嫌か?」

 耳元の辺りでそんなふうに言われると、なまえは最早どうしようもなくなった。首を横に振って否定を示すと、一層強く抱きすくめられ、鼓動が伝わりそうなほど密着する。そしてなまえも、心臓が破裂するのではないかというほどの緊張を伴いながら、ゆっくりとゆっくりと腕を回し、その背中に添わせた。
 ようやく届いた、となまえは心の底から安堵する。少し前に抱擁を受けた時、こうして返せなかった事が心残りでならなかったのだ。
 目を閉じると、その温もりや匂いで頭がいっぱいになる。回した腕から、逞しい体つきや呼吸をする様が伝わってくる。胸に湧き起こるのは、この上ない幸福感と、彼への愛情。自身に触れる時、マダラもそんなふうに感じてくれていたのかと思うと、なまえは愛しさに胸を締め付けられそうだった。
 そっと体を離して、最早語る言葉もなく、見つめる顔へとなまえは静かに口付けをした。