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 里周辺の小さな村や集落を見て回った帰り道、なまえは草履にツタが絡まってその足を止める。たまには気分を変えて大地を歩いてみれば、木の上からは見えない景色が発見できるのではと、思い付いたままに実行していたところだった。
 緑の豊かなこの火の国には、なまえの知らない植物だって無数にある。早朝、森林浴を兼ねて散策してみるのも面白いかもしれない、と新たな楽しみを頭の中に閃きながら、そばにあった木に手を付いてツタを引っ張ろうとした。すると、ぬちゃ、という音と共に、ひんやりした感触が手袋越しに伝わってくる。恐る恐る手を離してみると、木との間に糸が引いて、なまえは何やらそこに染み出していた樹液を触ってしまったようだった。

「……べっとり……」

 思い付きで普段と違う事をするべきではなかったかなと反省しつつ、ひとまずツタを取ってこの手袋の処遇を考える。小川を見つけて洗ってもいいが、少し古くなっているのでこのまま処分してもいいかもしれない。流石に汚したまま帰るのは気持ちが悪いため、三つ目の選択肢は頭の中で抹消する。
 そんなふうに頭を捻っていると、視界の隅に黒い影を捉えてなまえは身構えた。汚れていないほうの手を白鞘に掛けた直後、見た事がないような虫達が次々に姿を現してなまえ目がけて羽ばたいてきた。

「なっ……何で?」

 その異様さに硬直したのも束の間、すぐにこの樹液のせいだと察しがついて、慌てて手袋を外そうとする。しかし彼らのほうが幾分か速く、なまえの手に迫って強襲を仕掛けてきた。そこらの女性と同様、虫が得意ではないなまえは最早考える余裕などなく、ほとんど反射的に自らの腕に雷遁を流した。少々痺れが走ったものの、集ってきた虫達を迎撃する事はできたらしく、一匹残らず地面に落ちていた。
 足元の光景に顔を引き攣らせつつ、小さく安堵の息を吐いたなまえは、地に横たわるそれを直視しないようにして「ごめんなさい」と神妙に合掌する。そして、乱雑に外した手袋を火遁で燃やし、早々にその場を後にした。


 もともと周辺の状況を知りたがっていたのは柱間だったらしく、彼と扉間に向けてなまえは調査の報告をしていた。一通り伝え終えると、筆を置いた扉間が訝しげな顔で尋ねてくる。

「怪我でもしたか?」
「えっ?」

 思わずなまえが聞き返すと、扉間は「腕だ」と付け加える。そこでなまえは初めて自身が手を後ろに回していた事に気が付いた。
 なまえは、仕事着を着る時は必ず手袋を嵌めていた。単純に防護をするのが目的で、此度もその役目をしっかり果たしてくれたと言えるだろう。その後に更なる惨事が待ち受けていたのは致し方ないとしても。
 その事件を受けて外した結果、うちは特有のゆったりした袖にほとんど隠れているが、妙に風を感じてしまい無意識に後ろ手を組んでいたのだ。いつもは真っ直ぐに下ろされていて、手を組んだりとしない彼女の変化に、本人よりも扉間のほうが目敏く気付いたのである。

「いえ、手袋がなくて気になってるだけなので」

 大丈夫です、となまえは手を振ってみせる。雷遁を流したものの、あれから特に異変は感じていないのでそれは言う必要もないだろう。それに、虫に驚いたなどと打ち明けるのは些か恥ずかしかった。
 袖の上がった腕をさっと見ても外傷など見当たらず、嘘は言ってないらしい彼女の様子に扉間は「それならいい」と納得したが、そばにいた柱間が宙に上げられていたなまえの腕を不意に掴んだ。

「お前、随分綺麗な手をしてるな」

 そう言って、食い入るように眺めてくる柱間を、ぎょっとしたなまえが手を引っ込めるより早く扉間が叱り飛ばす。

「馬鹿者! 人妻の手を握るやつがあるか!」

 ビクっと肩を跳ねさせた柱間は慌てて手を離し、どちらに向けてでもなく「すまん」と謝罪した。なまえも声を荒げた扉間に驚いていたが、その矛先は彼女にも向けられる。

「お前もお前だなまえ。兄者だからと気を許すな」
「すみません……」

 先程までとは一変して落ち込んでしまった空気に、溜め息をつきたいのは扉間だった。
 もしあの男がこの場にいたら、柱間といえども反感を買っていたに違いない。もちろんその心配もあったが、それ以上に、軽々しく女性の手に触れる柱間が恐ろしかった。彼に悪気がないのは恐らく扉間が最も理解しているが、そうだとしてもなまえはすでに身を固めた女なのだ。幾ら親しい間柄でも、夫以外の男が気安く触れるべきではないし、女性のほうもそうさせないように努めるべきだと、扉間はその辺りについてきっぱりした考えを持っていた。
 結局、扉間の口から一際大きな溜め息が零れる。すでに仕事を終え、ここに留まる理由もないなまえを半ば追い払うようにして家に帰し、二人のみとなった空間で、兄であるはずの男へと説教を始めるのであった。



 あの後逃げるような気分で帰宅したなまえは、薬缶を火にかけながら、未だにドキドキする胸を押さえていた。生まれてこの方、怒られるような事はしてこなかったので、初めての経験に驚きが収まらなかったのだ。
 何度か深呼吸をして、早く落ち着くようにと胸元を擦る。薬缶が湯気を立ち上らせたので、火を止めて急須に注ごうと傾けた時、その腕に痺れが走った。

「あつっ」

 注ぎ口から溢れた湯が急須を支えていた手に少しかかった。薬缶はけたたましく床に落ちて、湯呑二つ分の湯を撒き散らす。幸い足元にはかからなかったが、それよりもなまえは腕のほうが気になっていた。騒ぎを聞き付けたらしいマダラが台所に入ってくると、一目に状況を理解したようで、突っ立ったままのなまえを訝しみながら迫ってくる。

「かかったか」
「あ……はい。少しですけど」
「だったら冷やせ」

 大した事はない、と続けようとしたが、有無を言わさぬ様子になまえは口を噤んだ。蛇口を捻り赤くなったそこに流水を当てる。この程度なら明日にも治っているだろう。
 代わりに始末をつけているマダラの背中に、なまえは申し訳なくなって口を開く。

「置いててくれたら後で片付けますから……」

 しかし、マダラは視線を寄越す事もせず、さっと床を拭いて台所を出ていった。なまえは首を傾げながらも、このままでは水が勿体ないと気付き、棚から出したボウルに水を溜めた。
 しばらく浸していると、手拭いを片手に戻ったマダラが「痛むか」となまえに尋ねた。もともと酷くはなかったので、水から上げて確認しても疼痛はほとんど感じない。なまえが素直にそれを伝えると、マダラはその手の水分を優しく拭って居間へと誘導する。そしてなまえを座らせて机に処置の道具を広げたので、流石にそこまでしてもらう訳にはとなまえは慌てて制止したが、聞く耳を持たずにマダラは軟膏を指に掬った。

「見せろ」
「……あの、自分で……」

 やんわり断ろうとすると、じとりとした目を向けられて、なまえは観念したように手を差し出した。
 患部にそっと軟膏を広げられる。ひんやりした感触は、薬のものか指の温度なのかわからなかったが、色々な事情で熱を持ったなまえの手には気持ちがいい。男にしては繊細な手つきで入念に塗りたくられた後、ガーゼを当てた上から包帯を巻かれる。軽い火傷程度に随分と大袈裟なように思えたが、なまえは口を挟む事なく終わるのを待っていた。
 包帯を切り、端を結んでようやく完了、となまえはほっとして小さく息を吐く。しかし、マダラはその手を離そうとせず、しばしの間を置いてこう尋ねた。

「……どこか悪いのか?」

 手当てをしたばかりなのに、その問いかけは傍から見れば不自然だっただろう。
 マダラは台所に踏み込んだ直後の、なまえが呆然と立ち尽くしていた姿が妙に引っかかっていたのだ。転がった薬缶を拾うでもなく、眺めていたのは火傷を負ったほうとは別の手で、単に不注意をした訳ではない事が明らかだった。それ故、何か良くないものを抱えているのではないかと勘繰ってしまったのである。
 なまえが顔を上げると、こちらを見据えるマダラの姿があって思わず息を呑んだ。そんなつもりは毛頭ないが、嘘など言ったところで全て見透かされてしまいそうな瞳をしていた。

「いえ、病気とかではなくて……その」

 思い出すと、自分の事ながら情けなくて躊躇われたが、なまえは包み隠さず打ち明けた。マダラは特に非難してくる様子もなく、「そうか」とだけ零し、僅かに目元を和らげた。
 それを見て、なまえは己の身を案じられていた事に気が付いた。先程の不機嫌そうな態度も、この過保護なほどの手当てもそんな心情の表れで。途端に、その思いを無下にしようとしていた自分を呪いたくなる。
 立場を変えて考えるとすぐにわかる事だった。もしマダラに異変があれば当然心配するし、手の限りを尽くして助けようとするだろう。自身を大切にする事は、彼の思いを大切にする事と同義なのだと、なまえはこの時初めてそう悟ったのである。