25


「申し訳ないけど、特に何もないんだよね」
「……そうですか……」

 木立を縫う日差しと澄んだ空気が広がる春の日の朝。任務の受付カウンターで、なまえは肩を落としたように息をつく。受付の男も釣られて八の字を寄せ、苦味を交えた声音で続ける。

「単発で頼めるものがなくてね……閑散日ってやつさ。だからこそ扉間さんも出られたんだろうけど」

 彼の言う通り、扉間は所用で昨夜から不在にしていた。事前に聞いてはいたものの、仕事面で頼りにしている男がいないとなるとなまえはどうにも手持ち無沙汰となってしまう。特に単独で動く彼女には、通常の任務を任せるにしても内容が限られてくるため、こればかりはどうしようもない事だった。

「そういう訳で、今日は家でゆっくり休みなよ。いつも頑張ってるんだしさ」
「はい……」

 その有り難い提案を一応は受け止めてなまえは頷いてみせる。しかし部屋を出た後、その足は真っ直ぐにとある一室を目指した。貪欲にも僅かな雑用すら求めて向かったのは柱間がよく籠っている執務室だった。
 閉じられた戸を数回叩くと、返事もなく内側から開けられる。そこから顔を覗かせたのは、意外にも自身の夫である男だった。寄越された視線に、挨拶など家で済ませているため単刀直入になまえは尋ねる。

「何か手伝う事ないですか? 今日、暇になってしまって」
「いや……特にない。それより、柱間を見なかったか」
「私は見てませんけど……」

 いないのか、と首を傾げるなまえに、マダラは短く肯定を示した。涼しげな目元を少しばかり険しいものに変えながら。
 今朝は、里に移る事を検討していた一族が、里の様子を見に訪れるのだとほかならぬ柱間本人が語っていたのだ。自ら案内役まで買って出たそうなのに、未だ顔すら見せないこの現状には呆れてしまうのも無理はない。
 大方いつもガミガミとうるさい弟がいないのをいい事に羽目を外し、今頃は爆睡をかましているであろう姿が容易に想像できてしまって、マダラは頭が痛くなりそうだった。

「柱間さーん! そろそろ……って、あれ?」

 廊下から一人の男が駆けてくる。手には掻き集められたように不揃いな紙の束を抱えていて、来客の支度を整えるため柱間を呼びに来たようだった。

「あのう、柱間さんは……」
「まだ来てない」
「嘘!? もう見えますよ、お客さん方……」

 男は顔を引き攣らせた。入里管理のほうから今こちらに向かっていると連絡があったのに、肝心の人物が不在だと誰が予測できただろう。マダラも些か苦い顔をしていて、段々状況が掴めてきたなまえは居ても立ってもいられずに申し出た。

「探してきましょうか? 間に合うかわかりませんが」
「…………頼めるか」

 たっぷりと間を置いて、マダラはなまえに目を向ける。巻き込みたくはないが、此度ばかりは仕方がない。男に支度を進めるよう言い付けた後、なまえを窓際へと招く。

「恐らく家にいる。あの背の高い松が見えるか?」
「えっと……ああ、ありますね」
「あれが目印だ。返事がなくても入っていい」
「わかりました」

 頷くとマダラが体をよけたので、ここから行けと言っているのだと察したなまえは、少々行儀が悪いかと思いながらも軽々しく窓枠を飛び越えた。それほど急を要しているのだろう。
 小さくなる背中を見送ったマダラは、全く手のかかる男だと心底呆れてしまっていた。そして、気乗りしないが場を繕うために自らも動き出したのであった。


 教えられた通りに松の木を目指して辿り着いたのは、確かに千手一族の紋を掲げた家の前で。なまえは不躾に辺りを見渡しながら門を潜り、玄関の戸を叩いた。

「柱間さん、いますか? なまえです」

 耳を澄ましてみても物音がする気配はない。悠長に待っている時間がないのを思い出し、取っ手に指を掛けて横に引いた。

「開いてる……」

 幾ら柱間でも寝入っているとすれば些か不用心ではなかろうか。助言があったとはいえまさに侵入を果たしている自らを差し置いて、なまえは家の主の身を案じた。
 玄関に入り、もう一度その名を呼ぶ。しかし返ってくるのは静寂ばかりで、本当に人がいるのかと疑うほどであったが、雑に脱ぎ捨てられた草履がそれを否定する。内心で悪い気を感じながら、仕方ないのだと言い聞かせてなまえは家に上がった。囁くような声で「お邪魔します」と呟き、どこにあるかもわからぬ寝室を探す。一階には見当たらず、二階を探してみると、一つ目に開けた襖の向こうに目当ての男の姿があった。
 転がる徳利に散らばった書物。その真ん中に、乱雑に敷かれた布団と大の字に眠る柱間。その酷い有り様になまえは今度こそ顔を引き攣らせて、物を蹴飛ばさないようにそのそばへと歩み寄る。

「柱間さん……、柱間さん!」

 呼んだだけでは目を覚ましそうになかったので、肩を掴んで揺すると、柱間は眉間を歪めて僅かに呻き声を漏らした。じわりと開かれた目がなまえを捉え、しばらく見つめると、ぼんやりした様子のまま口を開いた。

「ん……なまえか……マダラならおらんぞ……」
「わかってます。早く起きてください。お客さんがもう来てるそうですよ」
「ああ、それは明日……いや、今日か……?」

 そこまで言ってようやく気付いたらしく、柱間は「あっ!」と声を上げて飛び起きた。

「今、何時だ? というか、何故なまえがここに……」
「九時過ぎてます。私は柱間さんを呼びに来ました。勝手に上がって申し訳ないですが……皆さん困ってましたよ」

 なまえは矢継ぎ早に説明して、最後に「早く支度してください」と急き立てた。彼女の言う「皆さん」にマダラも含まれているのだと悟った柱間は、さっと顔を青ざめさせて身なりを整えにバタバタと駆ける。恐らく代わりに相手をしてくれているであろう彼にどう詫びればいいかなど、考える余裕もなかった。
 玄関に降りて待っていたなまえは、直毛の長い髪を揺らして迫る柱間を見てぎょっとした。

「上着、裏返しになってませんか?」
「む……本当だ」

 もういい歳だろうに、なまえは目の前の男が手のかかる子供のように思えてならない。柱間は上着を脱いでひっくり返しながら、「お前、任務はないのか?」と呑気に尋ねてくる。なまえは事情を説明しつつも、彼のよれた合わせが目に付いたが、これから急いでまた乱れるだろうし、向こうで誰かが直してくれる事を信じて見過ごした。

「なまえ、マダラには言っておくから、今日はこのまま帰るといい」

 そう言って、なまえが返事をするのも待たずに柱間は駆け出した。一人残されたなまえは、そういえば彼も忍だったんだなと離れていく後ろ姿を見てしみじみと感じていた。



 結局、数十分の遅刻を遂げて客人をもてなした柱間。元より彼らは里に移る事を決めていたようで、今日はその挨拶を兼ねて訪れたらしい。少しの間対応したマダラには里についてあれこれ質問を重ねたそうだが、嫌な顔せず細やかな回答をしてくれたので助かったと話していた。
 里を存分に歩き回って、満足げに帰る客人を見送った後、柱間はまず友に向けて頭を下げた。

「本当にすまん! そして助かったぞマダラ……ありがとう」
「礼ならなまえに言え」

 マダラは呆れたように言った。自分は知っている事を説明しただけで苦労などしていない。ただ、なまえの手を借りてしまったのが悪いと思っているだけだった。
 そんな彼の態度に、怒っている訳ではないのだとわかった柱間は、内心でほっと胸を撫で下ろした。そして先程のなまえの姿を思い浮かべて、何だか母親のようだったなと雑感を抱く。

「そうだ。金を渡すからなまえに甘味でも買ってやってくれ。礼を言いそびれていた」
「……いや、金はいい」

 生憎なまえは甘味に喜ぶ女ではない。遠回しに断って、その気持ちだけ伝えておくとマダラは返す。しかしながら彼女に助けられたのは事実で、礼をしたいのは自身も同じだった。一筋縄ではいかないなまえだが、今回それを伝える手段はもう頭に浮かんでいた。何故なら、最近の彼女の様子に一つの変化が表れていたからだ。

 それを実行するためにも、甘味や他の物など買わずに手ぶらで帰宅したマダラ。玄関の戸は開けっ放しになっていて、中に箒を持ったなまえの姿があった。柱間の部屋の散らかり様に触発されたなまえが、せっかく時間があるのだしと家中を掃いていたのである。

「マダラさん。お帰りなさい」

 箒を片手に提げて、都合良くそばまで寄ってくる。マダラは草履を脱ぎ、端に寄せてなまえを振り返った。

「あの後、大丈夫でしたか?」
「ああ」

 今朝の事を尋ねるなまえにそう返して、彼女との距離を詰める。以前もここで同じ事をしたように思えるが、マダラには一つの確信があった。

「……お陰で助かった」

 そう言って、なまえの腰に腕を回し、優しく抱き寄せる。髪を揺らして胸元に収まったかと思うと、後ろのほうで箒の倒れる音がした。気に留めずに敢えてそのまま待っていると、マダラの背中にも本当に添えるだけの腕がしっとりと回された。
 これがなまえの変化だった。以前なら宙で彷徨わせていたらしい手を、遠慮がちにではあるがこの身に添えるようになったのだ。単に慣れてきただけなのかもしれないが、一歩ずつこちらに踏み出してきているのがわかって、マダラは自然と顔が綻ぶ。
 この様子ならこれで十分伝えられそうだなと、あれこれ悩む必要がなくなったのを少しばかり安堵した。