31


 木ノ葉隠れの里。里の名前がそう決まったとなまえに知らされたのはつい先日の事だった。木々に囲まれてひっそりと佇むこの里には、それ以外に相応しい名前などないように感じられるほどなまえにはしっくりと馴染んだ。
 同時に、それは火の国との協定が迫っているのだということをなまえに予感させた。徐々に規模を拡大してきて、各所とも密接な関係を築き始めているため国も動かざるを得なくなったのだろう。もとより領土の平定を望んでいた彼らからすると、忍同士が手を組み和平のために事を為すなら協力するほかになく、また、絶大な軍事力が手に入ることになるのだからむしろ喜んで受け入れたに違いない。
 当初から里のために尽力してきたなまえには、ここに来るまで随分と長い時間がかかったように感じられたが、着々と実を結んでいく様子を目の当たりにして確かな手応えが胸の内に湧き起こった。任務で遣いに出るだけの立場なので、これと言って大した貢献を果たしている訳でもないのだが。
 改めて、皆のお陰で今の自分があることを実感し、今後も里の発展の助けとなるべく一層励んでいこうと決意を新たにしたのである。たとえそれが、あまり好まない毛筆での書状作りだったとしても。

「じゃあ……すまんがなまえ、これをよろしく」

 白紙の巻物と筆を前にしたなまえに、申し訳なさそうな表情を浮かべ、しかしどこか楽しそうな声音で紙束を差し出した柱間。これから清書する書状の下書きである。なまえは口元が引き攣りそうになるのをこらえ、両手を伸ばして神妙に受け取った。表の一枚だけでもぎっしりと文字が詰まっているのに、これが幾枚もあるのかと思うと妙な汗が額に滲む。
 それは火の国宛ての書状で、下書きまでは用意したが当分は求められないだろうと保留にしておいたものだった。しかし明日中に届けてほしいと急遽伝達があり、どうにも仕上がりが間に合いそうにないので、特に情報漏洩の心配がないなまえをと扉間が差し向けたのである。本人は敬遠していたが、報告書の筆跡は女性らしい丁寧なもので、公の文書を書かせても問題ないと判断してのことだった。
 柱間は柱間で別の書状を作っており、マダラも他の用件があるのか出ては戻ってを繰り返し忙しそうにしている。なまえは気持ちを切り替えるように深呼吸した後、下書きを広げて黙々と清書を始めた。

 ここは執務をする部屋と決めて拵えた訳ではないのだが、込み入った事をする際はここでといつからか使い始めたものだった。なまえは紙を捲りながら、普段からこんなに静かなのだろうかとふと思う。今は喋る時間が惜しいだけかもしれないが、自分に気を遣わせているなら申し訳ないな、と。けれど今更場所を変えるのもおかしな話だし、早めに仕上げて帰るくらいしかできないので、雑にならない程度にペースを上げることにした。
 そうして、書き損じることなく順調に進んでいたが、次の下書きの文字が滲んでいてなまえはピタリと手を止めた。平仮名一文字ならまだしも一節が潰れているため読み取れない。勝手に推測するのはよろしくないので、なまえは近くにいたマダラへ声をかける。室内が静かなせいで些か声を潜めてしまったが、少し離れている柱間の耳に留まるほどには響いていた。

「ここ、何て書いてるかわかりますか?」

 なまえが指で示しながら尋ねると、マダラはそれをしばし眺めた後、筆を持って余白にさらさらと書き出した。なまえはその巧みな筆遣いに目を奪われ、疑問が晴れてすっきりはしたものの、自分で書いたものと見比べて不安げな表情を浮かべる。下書きの字も大したものだったが、目の前で達筆な様を見せられてしまい、楷書が精々ななまえはいよいよ自信をなくしたのだ。

「なんだか……私の字って拙くないですか? これ、火の国の人に見せるんですよね……」
「読めれば問題ないだろう」

 筆を置いたマダラは書きかけのそれを一瞥すると、特に気に留めた様子もなくそう返した。なまえはもう一度自分の字を見つめ、些か納得はいかなかったが、マダラが言うならいいのだろうと気にすることをやめた。
 マダラは作業を再開したなまえを横目に部屋を出ようとしたが、机に伏して肩を震わせる柱間に気が付き足を止める。そうしている理由に何となく察しがついて、一度白い目を向けると早々に退室した。
 やがて顔を上げた柱間が、どうしても吊り上がってしまう口元を手で覆いながらなまえに尋ねる。

「なあ、なまえ……あいつ、家でもあんな感じなのか?」
「えっ? そう変わらないと思いますけど……」

 いよいよ堪えられなくなって柱間は吹き出した。なまえは何事かと怪訝そうに見やったが、「何でもない」と誤魔化されてそれ以上の詮索は憚られる。
 柱間はおかしくて仕方がなかったのだ。素直に褒めてやればいいのに、遠回しなことしか言わないマダラの態度が。そして、それを何とも思ってないようななまえの様子も。気難しさに呆れそうなものなのに一切動じないのはマダラからしても好ましく思えることだろう。その辺りの相性がよく、上手く噛み合っているからこそ円満な関係を築けているのだと、柱間は熱心に筆を走らせるなまえを眺めながらしみじみと思った。

 太陽が天辺まで昇った頃、柱間が昼にしようと近くの食堂へ二人を連れ出した。なまえは遠慮したが、「行くと言うまでオレは動かんぞ」と言われてしまい同行するほかなかった。
 四人掛けのテーブルでマダラの隣に座ったなまえは、定食を頼む二人に対して軽めのざるそばを選んだ。体を動かしていないので、そこまで腹が空いてないのである。それについても柱間は小うるさく指摘し、さらにはマダラへと振った。しかし同意は得られず、ふいっと視線を逸らされるだけだった。
 なまえは疲れている時こそ成人男性並みに食べるが、そうでない限りは基本的に少食で、成長期の子供ではないのだから自分で調節させればいいのだと、マダラは特に口出しするような事はしないのである。
 柱間は納得がいかない様子だったが、運ばれてきた膳に手を合わせ、しぶしぶ食事を始めた。

「なまえ、好きな食べ物はないのか?」
「食べ物ですか?」
「一つや二つあるだろう。ちなみにこいつは……痛っ!」

 どうせこんな話もしてないのだろうと気を利かせて尋ねた柱間だったが、余計な事まで口走りそうになったのを即座に阻止された。爪先の痛みをぐっとこらえながら、心配そうに見つめてくるなまえに再び「何でもない」と取り繕って質問の答えを促す。
 なまえは箸を止めて考えてみるが、特に思い浮かばずそう答えようとした。しかし、ふと懐かしい光景が脳裏に過って、一つだけそう言えるものがあることを思い出す。

「私は……兄の作るご飯が好きでした」
「お兄さんか。料理、上手だったのか?」
「はい。作り方も色々と教わって……」

 視線を上方に向けて懐古するようになまえは語った。兄に面倒を見てもらったということは、その幼少期は決して穏やかなものではなかったのだと柱間には察せられた。話題を間違えたかのように思えたが、なまえの表情は柔らかいもので、気にした様子もなく話を続ける。

「……それをマダラさんに食べてもらってると思うと、何だか不思議な気持ちになりますね」

 そう言ってマダラにはにかんだなまえ。毎日何気なく食べていたものは並みならぬ思いが込められた特別なものだったのだ。柱間は、他人事ながらも胸を打たれてしまう。

「これほど光栄な事はないぞ、マダラ。しっかり味わって食べないとな……」

 言われずともとっくに心得ていたマダラは、生ぬるい視線を遮るようにして味噌汁を飲み干した。ただ、それは自分が聞かなかった話だ、と空になった汁椀に目を落とす。昼に無理矢理連れ出すのも、なまえの好みを尋ねるのも、マダラならしなかった事だろう。しかし柱間は平気でそれができるのだ。多少強引に踏み込んでも、不思議と受け入れさせてしまうのはこの男の天性と言ってもいい。なまえの心情を聞けて良かったと思う反面、少し複雑な感情もマダラの胸に渦巻いた。



 月明かりの注ぐ縁側で、なまえは風呂上りの火照った体を団扇であおぎながら自身の肩を揉んでいた。書状は誤字も脱字もなく完璧に仕上げたものの、長時間机に向かっていたせいで首回りが凝り固まってしまったのだ。丁寧に書かねばと神経も使うし、やはり外に出て動き回るほうが自分には合っているようだと改めて思い知る。
 普段とは違う疲労になまえは思わず溜め息をつくと、同じように縁側へ出てきたマダラが真後ろに腰を下ろした。そして、なまえが振り返るより先に肩へ手を乗せて指圧を始める。

「えっ、何ですか?」
「動くな」

 体を捩らせようとしたなまえを制し、丁寧に揉み解していくマダラ。所謂肩揉みを施しているのである。なまえは驚いたが、有無を言わさぬ様子にじっと押し黙るしかなかった。
 痛いけど気持ちがいいような感覚に少しずつ身を委ねる。しかしだんだん自分が年寄りのようにも思えて次第に顔が俯いていった。はらりと髪が垂れて白いうなじが露わになり、マダラはつい見惚れて手を止める。そしてなまえの腹に腕を回して引き寄せると、無防備なそこに吸い付いた。

「マ……マダラさん……?」

 くすぐったいのと恥ずかしいのとで、その柔らかい感触から逃れるように振り向いたなまえ。大人しくしていられないのかと、マダラは些か不服そうにして唇を塞いだ。今度は離れないように頭を支えてじっくりと堪能する。
 団扇を滑り落としてしまったなまえは、マダラの胸元に手を添えてその深い口付けに応じようとした。不慣れなくせに懸命に受け入れようとする健気な様にはマダラが抱いていた諸々の不満など瞬く間に打ち消されていく。
 なまえを愛することで、マダラの心は間違いなく安らぎを感じられるのであった。