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 細い糸のような光の筋が木立の間を縫うように漂っている。闇夜を僅かに照らす蛍には目もくれず、なまえは川の水で足にこびり付いた泥を洗い落していた。国境沿いの小さな国々を見て回った帰り、他国の忍を見かけて身を潜めた場所がぬかるんでいたせいだった。任務報告も朝にしかできないし、泥を持ち帰りたくなかったので里近くの川辺で流して帰ることにしたのである。
 夏といえども夜の森の空気は清々しく澄んでおり、緩やかな水流は冷たくなまえの肌に心地良さを与えた。猛暑日にはこうして涼みに訪れるのも一つの手だなと、人より暑さに弱いなまえは名案を思い付く。膝の下まで浸かると急速に体が冷えるような感覚がして、泥の固着した草履を水に浸しながら無意味にそうやって立ち尽くしていた。
 上流のほうで水飛沫が立ち、なまえは反射的に腰を屈めた。人ではなさそうな気配だが、ばしゃばしゃと止まることのないそこへ徐々に接近する。微かに差す月光を頼りに姿を捉えると、それは蛙のように見えて、四つの手足を忙しなく動かしていた。なまえは、罠である可能性も念頭に置きながらその溺れているらしい蛙を片手で鷲掴みにして持ち上げる。手の平ほどの大きさで、身がぎっしり詰まった重量を感じられた。
 蛙が溺れるなど不思議でならなかったが、あまり体に近付けないようにしながらそっと川岸に解放してやるなまえ。手袋を外していたせいで、ぬるっとした感触がはっきりと手に残った。
 人間を恐れないのか蛙は逃げ出そうとせず、まるで呼吸を整えるかのように喉の辺りを上下させている。そして「助かった」と溜め息をついてなまえを見上げた。
 なまえは川に浸かったまま即座に写輪眼へと切り替えた。周囲を見渡しても自分以外に人間の姿はなく、だとしたらこの蛙が今の言葉を発したことになるが、と視線を戻した時、そこにチャクラの色がくっきりと浮かび上がる。

「お前さん、その眼……」

 やはりこの蛙が喋っているのだ。なまえは思わず後ずさりしたが、足を滑らせて尻餅をついてしまう。蛙が溺れた挙句に人語を話すという異様な光景を目の当たりにして、開いた口が塞がらないなまえに蛙は「何だその間抜けな顔は」とゲロゲロ笑った。
 蛙は遠い森に住んでいるらしく、ただの散歩中で誰かに口寄せされたという訳ではないそうだ。それ以前に人間と契約する気はさらさらないとまで言った。そして溺れていたのは、この辺りに珍しい虫が多く潜んでおり、つい拾い食いに夢中になって川へ落ちてしまったが、重たい腹のせいで上手く泳げなかったらしい。
 岸に上がったなまえは正座をしてそれを聞いていた。口寄せ動物すらまともに見たことがないなまえには、目の前の生き物があまりにも衝撃的で話の内容も頭に入ってこないほどだった。しかし、だんだん順応してくると相槌も返すようになり、たわいない話をする蛙に少しの間付き合った。
 やがて濡れた服に体を冷やされたなまえがくしゃみを零すと、蛙はまだ喋り足りないようだったが気を遣って解放してくれた。「お前のせいだよ」と悪態をつくなまえではないので、素直に礼を言って草履を履き直した後、蛙に見送られながらその川を後にした。


 子供が水遊びではしゃいだかのような酷い有り様でなまえは家の門を潜った。今が昼時ではなくて良かったと心の底から思う。裾をたくし上げて強く絞ると、落ちた水滴が石畳を濡らした。
 家に上がって脱衣所へ向かい、湿った服を脱ぎ捨てる。風呂を開けるとまだ温かい湯が残っていたのでさっと湯浴みを済ませた。その後、忘れないうちにと報告書をまとめ、風呂で温もったにも関わらず、妙な寒気が残っているのを感じながらなまえが布団に入ったのは深夜三時頃のことだった。


 マダラが布団を出る頃には、基本的になまえは起きて身支度を済ませているものだった。遅くに帰宅しても朝はきちんと起きていたし、明け方に戻れば家のことを片付けてから休む。これまで寝坊など一度もしなかったはずだが、珍しいこともあるものだなと未だに眠りこける姿を眺めてマダラは思った。

「なまえ」

 一度起こしてやるべきかと判断して呼びかけると、なまえはうっすらと瞼を開けて見上げてくる。しかしすぐに閉ざされて、体の向きを変えた後に咳を数回繰り返した。もしやと思い額に触れるとやけに熱く、どうやらなまえは体調を崩してしまったようだった。マダラは再びなまえを呼んで、意識をはっきりと覚醒させる。

「ん……マダラさん……」
「なまえ、今日は休め」
「……そうします……」

 明け方に一度目を覚ました時、なまえはぼんやりとしながらも体の気怠さを自覚していたのだ。ギリギリまで眠れば良くなったりしないだろうかと淡い期待を抱いて二度寝したのだが、咳まで出始めて余計に酷くなったらしい。
 しかし、任務の報告だけはしたほうがいいかとなまえが悩んでいると、マダラはそれを察したように口を開く。

「扉間には伝えておく。大人しくしていろ」
「……じゃあ、報告書だけ渡してもらえませんか? 座敷にあるので……」
「わかった」

 なまえは不甲斐なさを漂わせた表情で「すみません」と両手を合わせる。意地でも行くと言い張りそうなものだったが、思いの外聞き分けがいいことにマダラは驚いていた。
 横になったなまえに水や手拭いを用意した後、頼まれた報告書を懐に仕舞って家を出る。なまえのためならあの男と話すのも厭わないのだ。そして、子供ではないにしろ弱ったなまえを一人にしておくのは色々と心配なので、マダラはこの時からすでに早く帰るための算段を頭の中で立てていたのである。


 風邪の症状よりもなまえは暑さのほうに参ってしまっていた。夏の気温も肌掛けの布団も、自分の体の熱さにも。知らないうちにあの蛙へ無礼を働いたから罰が当たったのだろうかと考えてしまうほどには思考も淀んでいるらしい。
 そばに備えてあった手拭いを濡らし、寝間着を寛げて体を拭く。それだけでも幾分か体温が下がるようでなまえは気持ち良さを感じた。
 そういえば、妙に明るいと思ったら外の障子が開いている。日差しが眩しく、丁度昼頃だろうかと考えていると、不意に庭から人が上がってきた。マダラだった。
 なまえは慌てて寝間着の合わせを直し、マダラは障子をさっと閉めた。洗濯物を干す間だけでもと開けていたのだが、迂闊だったらしい。

「し……仕事は……?」
「済ませてきた」

 もう帰るのかと仰天する柱間に、マダラは別段事情を話すことはしなかった。しかし扉間に伝えてある時点で、柱間がそれを知るのも時間の問題だろう。知られたところでどうと言うこともないのだが。
 着替えが必要かとマダラが尋ねると、なまえは首を横に振った。そして水を一口飲んで横になり、布団の中で小さく咳を零した。あまり辛くはなさそうに見えても、咳き込む姿を見るとやはりかわいそうに思える。早く治したほうがいいとわかっているのか、普段より素直に言うことを聞くのも弱々しさを助長するようで却って不安にさせられた。

「何かあれば言え」

 マダラは手拭いを洗い、なまえの額に乗せてそう言った。日頃から人を頼ろうとしないなまえだが、マダラはいつだって助けになってあげたいと思っているのだ。寝込んでいるなら尚更その思いは強くなることだろう。
 一方、なまえはなまえでこの時ばかりはその言葉に素直に甘えようとしていた。僅かに視線を彷徨わせた後、いつも以上に控えめな声量でそれを口にする。

「お腹が、空きました……」

 珍事のせいで帰りに定食屋へ寄ることもできなかったため、昨日の昼から何も食べていないのである。発熱して横になっているだけでもエネルギーを使うというのに、なまえの腹はもうペコペコだった。
 マダラはそんななまえに「待ってろ」とだけ告げると桶を抱えて寝室を出ていった。なまえは最早考えることを放棄して、言われた通り戻ってくるまで瞼を閉ざしてじっと待った。
 やがて微睡んでいたところに名前を呼ばれて首を動かすと、盆を畳に置くマダラの姿があった。マダラはずり落ちた手拭いを除けて、背中を支えながらなまえを起き上がらせる。そして皿を持ち、蓮華で一口掬ったのは粥だった。口元まで運ばれるとなまえはゆっくり口を開けた。自分で食べると言いそうなものだったが、これも素直に受け入れたらしい。

「おいしい……」

 咀嚼すると優しい味わいが舌に広がって、なまえは自然とそう零していた。それはマダラが弟の看病をするうちに作り慣れてしまったものだった。
 甲斐甲斐しくなまえに食べさせてやりながら、これほど食欲があるならきっとすぐ良くなるだろうとマダラは思った。あっという間に平らげたなまえに水と薬を差し出すと、少し嫌そうにしながらそれを飲んだ。「苦い」と顔を顰めたなまえの様子に、調子が戻ってきたような感じがしてマダラは些か安堵する。
 そして、再び横になったなまえに布団を掛けて、大人しく休んでいるように言い聞かせた。

 夜にはすっかり熱も下がり、咳はまだ残っているがなまえは大分元気になったようだった。風呂に入りたいと言うのでマダラが連れて行こうとすると、流石に自分で入るからいいと断られた。下心などはなく心配してのことだったが、どちらにせよなまえには恥ずかしいのだ。マダラはその間に布団のシーツを取り替えて、戻ってくるのを待った。
 今日のように従順ななまえも悪くはないが、どこか物足りなさを感じたのは、やはり少しばかり思い通りにならないほうが彼女らしくて、また、マダラは少なからずそれを気に入っているからだろう。
 やがて風呂を上がったなまえが縁側で涼むマダラを見つけて声をかけた。何かあったかとマダラが立ち上がると、なまえは躊躇いがちに目を伏せた後、しっとりと体を寄せてきた。

「……ありがとう、色々と……」

 不意にこういうことをされる度、どうしようもなく心を掴まれてしまうのだ。そんななまえが愛おしくて仕方がないマダラは、顔を綻ばせながら優しくその体を抱き留めていた。