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 近頃、マダラが家にいることが多くなった。昼過ぎに帰っているのか、それとも端から出ていないのかはわからなかったが、なまえが帰った時には草履が綺麗に揃えられていた。
 なまえはその変化におや、と気付いたものの、別段問いただすようなことはしていない。何か問題があって困っているならもちろん手を貸しただろうが、マダラはいつもの調子で過ごしているので、そういうことではないのだと悟ってそっとしておいた。
 ただ、仕事を終えて帰宅した時に迎えてくれる人がいるという安心感を、なまえは身に染みて感じていた。どれほど疲れていようとも心が安らいで癒されるような気分になる。だんだん家の戸を開けるのが楽しみになり、今日に至っては気持ちが急いてしまって買い物するのも忘れてしまうほどだった。

「マダラさん、買い物に行きませんか?」

 にこにことして居間を覗き込み、なまえは思い付いたままにそんなお誘いをした。そうするつもりで帰ってきた訳ではないのだが、せっかくだからと声をかけてみたのである。
 マダラは特に予定もなく、断る理由がないので二つ返事で応じると、なまえはぱっと顔を綻ばせた。軽く支度を整えて、二人で商店街へ向かった。

 夕方にはまだ早い時間なので、人は混んでおらずゆっくり歩くことができた。不意になまえの足に小石がぶつかり、ころころと短く転がる。それを停止するまで見届けたなまえは、閃きを得たように呟いた。

「……コロッケにしよう」

 そして、じゃがいもを買ってくると言い、八百屋へ入って行った。マダラは入口のそばで足を止め、随分と単純に決めているんだなと思いながらその後ろ姿を眺めていた。
 そんな時、マダラは視線を感じて振り返った。その先にいたのは二人組の男。どこかで見たような顔だが、はっきりとは思い出せない。マダラがじっと見つめていると二人は路地のほうへそそくさと去っていった。
 印象が薄いということは、さほど関わりもなく、何かで一度気に留めた程度なのだろう。果たしてそれは何だったろうかと記憶を探っていたが、八百屋から出てきたなまえに声をかけられたので、マダラは考えることを中断した。

「次はお肉屋さんに……」

 マダラは野菜の入った袋を預かり、肉屋へ向かうなまえに同行した。行く先々で、なまえが自分といることに驚いているのか、店の人間はぎょっとしたような目を向けてくる。
 異質なもののように見られるのは慣れているのでその程度は一向に構わなかったが、マダラは先程の二人組の視線が妙に引っかかっていた。



 翌日、なまえが忘れずに商店街で買い物をしていた時のこと。魚屋の前で足を止めていたなまえに、二つの影が忍び寄る。

「おい」

 なまえは自分が声をかけられたのだろうかと思いながら顔を向けた。そこにいたのは、以前三人一組で共に任務に当たっていた二人の男だった。

「お前……うちはマダラの嫁になったって噂、本当だったんだな」

 片方の男がそう言った。彼らは昨日、商店街で仲睦まじく歩いているなまえ達を偶然見かけたのだ。マダラが感じた視線は、この男達によるものだった。
 なまえは、だったら何だと言うのだろうかと、特に返事もせず話の続きを待った。

「……なあ、少しいいか? あの時のこと、謝りたいんだ」
「結構です。もう気にしてないので」

 なまえには最早どうだっていい話だった。あの後二人がどうなったのかなまえは知らされていないし興味もなかった。うちはの人間に悪さをしなければいいとは思っていたが、ただそれだけである。
 冷たくあしらうなまえに、男達は平然とした表情のまま詰め寄った。

「オレ達の気が収まらないんだよ。今ここで謝られても、お前も嫌だろ?」

 そう言われてなまえは周囲に目を配ると、ちらちらと注目を集めているのに気が付いた。彼らも引き下がる気配はないので、言う通りにしたほうが早く済むと判断して渋々了承する。
 近くの路地に入り、なまえは二人と対面した。建物に日差しを遮られ、薄暗く冷えた空気が漂っている。

「……あの時、あんなふうにお前を扱って悪かったと思ってる。だってなあ、知らなかったんだよ」

 男はかしこまった態度で釈明を始めた。なまえはその内容に興味などなく、耳には入れていたが記憶に留めようとはしない。悪いと思っているなら、姿を現さないでくれるのが一番有り難いのにと頭の隅で考えていた。

「マダラの嫁になっただけじゃなく、あの扉間さんにまで目を掛けられるようになるなんて……余程腕が立つんだろう」

 その言葉に、何を言い出すのかとなまえが眉を寄せた時、もう一人の男が背後に回って羽交い締めにしてきた。なまえの手から離れた買い物袋が音を立てて地面に落ちる。

「……こっちの腕がな」

 正面に立つ男がなまえの服を乱暴に捲り上げた。下着に包まれた胸元が露になり、男は舐めるようにして視線を這わせる。
 こんな男達に見られてもなまえには不快なだけだった。結局何も変わってないらしい様子に溜め息をつきたくなる。

「いい体じゃねえか。これであの二人を落としたんだろ?」
「…………」
「何だよ、否定しないのか?」

 男は蔑むように笑ったが、なまえは呆れてものも言えなくなっていただけである。
 この二人は性根から腐っているのだ。これほどまでに救いようのない人間が存在することをなまえは今まさに思い知らされた。
 自分が体を使って取り入ったと言われるのは別にどうだっていい。しかし、マダラだけでなく、彼らも関わったことがあるはずの扉間が、そんな女を相手にしてそばに置くような人間だと思い込んでいるのは、あまりにも愚かしくはないだろうか。
 そのような二人ではないということさえ、この男達はわからないらしい。なまえが僅かに目つきを細くすると、男はクナイを取り出して頬に滑らせてきた。

「お前がそんな女だって知ってたら、オレ達も優しくしてたのにな」

 歪んだ笑みを浮かべ、羽交い締めされたなまえの体に手を伸ばそうとする男。一番に浮かんだのは写輪眼で幻術にかける手段だが、なまえはこんな男にあの眼を向けたくないと思ってしまった。多少切り付けられるのを覚悟して足を動かそうとした時、通りのほうから足音が駆けてきた。

「何やってるんだよ、お前ら!」

 飛び込んできたのはカガミだった。まずいと思ったなまえは、拘束が緩んだ隙に抜け出して男達の目を捉えた。すると二人は糸が切れたように地面へと崩れ落ちた。
 飛びかかるつもりでいたカガミは、その光景を前に足を失速させ、なまえの横でピタリと停止する。何が起きたのかとなまえの顔を見上げたら、すぐに戻されたが一瞬確かに赤く光る眼が見えた。

「写輪眼……。なまえさん、わざと捕まってたんですか?」
「ううん、丁度……どうにかしようと思ってた」

 なまえは微笑んだが、カガミは不満そうに唇を尖らせた。いいところを見せられると思ったのに、呆気なくなまえが片付けてしまったので、少年の心理としては何だか面白くないのである。
 一方で、なまえは微笑みを保ちながらも頭を抱えたい心境に陥っていた。うちはが嫌いらしいこの二人に、一瞬とはいえカガミの顔を見られてしまったのだ。今は知らなくても、いずれどこかで見かけたら背中の紋に気付いてしまうだろう。手に負えない人間だとわかった以上、子供のカガミにも手を出す可能性がないとは言い切れない。あれこれ考えずにさっさと眠らせておくべきだったとなまえは後悔した。

「こいつら、どうするんですか?」
「そのうち起きるだろうから、このままにしておくよ」
「このまま? ……なまえさんは傷付けられたのに、それでいいの?」

 なまえの頬を見ながらカガミが言った。薄く切られた皮膚から血液が滲み出て、赤い線を作っている。女の顔に傷を付けてはならないことくらい、カガミですら知っているというのに。
 なまえは横たわる男を見下ろして考えるような素振りをしたが、すぐにカガミへ顔を戻すとこんな話をした。

「因果応報って言葉があるでしょ? 自分がした行いっていうのは、いつか必ず返ってくるものなんだよ」

 今ここで自分がやり返さなくても、いつかどこかで必ず同じような目に遭うのだと、なまえはそう説明した。
 それはこの頬の傷だけではなく、これまでに受けた仕打ちを含めてのことだ。そして、もしそうなった時、今度こそ心を入れ替えてくれたらなまえとしては万々歳である。期待はほとんどできないが。

「……でも、カガミに手を出されたら私がやり返すから、何かあったらすぐに教えてね」
「僕はなまえさんみたいに捕まったりしないから大丈夫です」

 この男達ならやりかねないので、なまえは本心からそう伝えたのに、カガミはじとりとした目で皮肉を返してきた。なまえはそんな視線を受けながら、自分より低い位置にある頭へ手を伸ばす。

「助けに来てくれてありがとう。嬉しかったよ」

 頭を撫で、なまえはとびきり優しい笑顔を浮かべた。カガミは思わず目を奪われたが、ハッとしてすぐにその手を払う。

「子供扱いするのはやめてください」
「あれ、嫌だった? 私、マダラさんにこうされるの好きなんだけど……」
「なっ……別にあの人の話なんて聞きたくないです!」

 顔を赤くしながらカガミは声を荒げた。内心では嬉しく感じていたのに、「あの人」がどうだと言われると何だかむしゃくしゃとしてしまう。
 なまえは微笑んだまま手を下ろし、僅かに覗く空を見上げた。すでに夕焼けに染まり始めており、買い物の途中だったことを思い出す。カガミと一緒に商店街を歩くのも悪くなかったが、帰りが遅くなるといけないので帰宅するよう促した。そして魚屋で目を付けていた鰯を買ってなまえも家路についた。


 玄関を開けると、夕暮れ時なので当然マダラの草履はあった。なまえは台所に荷物を置いた後、手を洗いに脱衣所へ入った。額当てを外してふと鏡を見ると、左の頬にくっきりと赤い線が浮かんでいた。
 仲間の足場に起爆札を仕掛けるくらいだから、クナイで皮膚をかすめることなど躊躇なくできるのだろう。とりあえず一度洗っておこうかと手袋を外した時、タオルを抱えたマダラが脱衣所へ入ってきた。

「あ……マダラさん。洗濯物、畳んで……」

 喋っているにも関わらず、マダラはなまえに詰め寄ってその頬に手を伸ばした。傷があることに一目見て気が付いたのだ。

「何かあったのか?」

 任務で作った傷なら治療を受けて帰るはずだ。となると、帰宅中に負ったものだろう。そしてこの綺麗な真一文字は刃物くらいでしか作れない。そこまで推測してマダラはそう尋ねた。

「これは……」

 なまえは真っ先に触れられて驚いたが、マダラはそうやって心配してくれる人間なのだ。誤魔化そうとも思えず、正直に先程あった出来事を打ち明けた。
 なまえを襲ったのは、昨日マダラに視線を向けていた二人組と同一人物だった。以前なまえと組んでいた男だというのに、顔を覚えていなかったことをマダラは悔やんだ。
 今頃になって再び姿を見せるのも予想外だったが、何故彼らはなまえに執着するのだろう。偶然にも、組んだ相手がなまえだったからか。なまえがうちは一族で、若い女だからだろうか。優しいなまえは、虐げられるような人間ではないのに何故傷付けようとするのだろう。

「……マダラさん……?」

 静かに抱き寄せられ、なまえは不思議そうにマダラを見上げる。傷の辺りをそっとなぞられると、くすぐったくて目元を細めた。
 その指先は、いつもより冷えているように感じた。



 それから数日後。扉間は、任務の報告を終えたなまえに「話は変わるが」と前置きをして口を開いた。

「以前、お前と組ませていた二人がいただろう」
「はい」
「……先程、彼らの遺体が見つかった」

 なまえは目を見開き、驚愕を露にした。
 遺体は里の外で、帰還中の忍が偶然発見したらしい。誰にやられたかは定かではないが、ここ数日は任務に出た記録もなく、里内かその周辺で襲われただろうという話だった。

「この間、商店街で二人と会いましたが……」
「詳しく話せ」

 なまえがやったとは扉間も思っていないが、発見されたばかりでまだ情報が乏しいのだ。手掛かりになるかもしれないので些細なことでも聞いておきたかった。
 なまえは事細かにその時のことを話した。魚屋の前で声をかけられてから、横たわる二人の前でカガミと別れたところまで。
 まさか幻術で眠っている間に何かに巻き込まれたのかと不安になったが、その翌日は姿を見たという者がいるらしく、関係はないだろうということだった。
 よもやカガミが手に掛けるなど到底考えられず、これ以上の心当たりはないな、と何気なく顎に手を添えた時。なまえははたと気が付いた。

「どうした?」
「いえ、あの……」

 自らの頬を指でなぞり、あの冷えた感触を思い出す。何故だろう。何故か、直感的に悟ってしまった。

「……私、そのことを……マダラさんに話しました」

 それを聞いた扉間は、鋭い目つきを一層に細くして、なまえのその一言から全てを把握した。そういうことかと内心で呟き、そんな簡単なことにも気付けなかった自分に、笑いさえ零れそうになる。

「……可能性の一つとして受け取っておく。お前はオレに聞かれない限りこの件には触れるな」

 扉間がそう言うと、なまえは神妙に頷いた。
 恐らくなまえの至った答えが真実だ。愛する女の顔に傷を付けられ、辱められそうになったと知って、あの男が黙っているはずがない。共に過ごしているなまえがあまりにも穏やかにしているものだから、彼の秘める凶暴性を、扉間はすっかり失念してしまっていた。


 静かに帰路につきながら、なまえは物憂げに小さく息を吐いた。扉間のあの言い方は、なまえのほうからはマダラに追及するなというものだった。
 確かに、彼の言った通り可能性の話でしかない。だが、以前にも似たようなことがあった気がして、なまえは記憶を呼び起こす。
 少し前、下着を盗まれた時のことだ。なまえはマダラに相談し、その後犯人を追跡した先で彼と会った。先に帰るよう言われて深く考えずに従ったが、もしかしたら、彼らも。
 今回の件も、なまえは不快な気持ちにはなったが、何も死を望むほどではなかった。いつかは因果に報いられると思いはしても、こんな結末になるとは誰が想像できただろう。でも、彼に話したことで命が絶たれたのだとしたら、それは遠回しに自分が殺したようなものである。
 だが、ひとえに自分のためを思ってマダラがそうしたのだということはなまえにもわかる。いつだって過剰なほどに心配して、一緒に解決しようとするのではなく、人知れず駆け回って手を尽くす。それが彼だ。
 なまえは今後、何か起きた際に、素直に打ち明けられるだろうかと不安が過る。だが、嘘など言える勇気はないし、隠し事もしたくない。たとえ誤魔化そうとしても、彼の目には見え透いてしまうだろう。
 しかし結局は可能性の話でしかなく、なまえもその瞬間を目にした訳ではない。それでも、なまえは確信めいたものを感じて止まなかった。