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 特に何事もなかった平和な日の夕食時。なまえはさつまいもの入った味噌汁を一口飲んだ後、一切の前置きをせず「明日から留守にする」とマダラに告げた。その瞬間、マダラは己の耳を疑って箸を止めたが、すぐに秋刀魚の身を割るのを再開して動揺を隠した。

「……どこまで行くんだ」
「風の国です。……目的は口外するなと言われているんですが……」
「なら話すな」

 今回なまえが任されたのは、風の国がすでに捕らえているらしい尾獣の在り処を探ってくることだった。連日国境を出入りするよりは留まって調べたほうが早いだろうと提案され、なまえもそれに同意し引き受けたのである。

「そこまで難しくはないので、三日か四日ほどで戻ると思います。問題が起きなければ」

 なまえはさらりと恐ろしいことを言い、また味噌汁を飲んだ。三日で戻らなければ何か問題が起きたと思っていいのだろう。マダラはそう解釈し、明日からきっちり日付を数えることにした。
 本当のところは、留守にされるくらいなら後を付けてしまおうかと考えていた。しかし、今回は行き先も日数もなまえの口から聞いた。知らぬ間に発たれた前回とは違い、この目でしっかりと見送ってやれるのだ。あの時のような喪失感に苛まれることはないだろう。それに――。

「…………?」

 なまえは茶碗を持ったまま窓の外に目を向け、しばし辺りを見渡して顔を戻した。そしてぽつりと、さほど気にした様子はなくこう零すのだ。何だか見られているような感じがする、と。
 確信するには至らなかったが、見張りの気配を感じ取ったらしい。今回の件でマダラが安易な行動を取れない理由はまさしくそこにあった。


 布団に入る前、なまえは戸締りするマダラの後を付いて回っていた。その魂胆は見え透いていたが、マダラは敢えて素知らぬ顔をしていた。なまえから言わせるためである。
 寝室に戻り、明かりを消す頃になってようやくなまえはマダラの袖をちょんと引いた。マダラはじっとなまえを見下ろして、俯いていた顎を掬いそのまま口付けをする。なまえは後ろへ下がって離れようとしたがすぐに腰を抱かれ、徐々に深まるそれを受け止めるしかなくなった。
 たっぷり堪能して解放すると、抵抗を示した割にはうっとりと頬を染めるなまえがいて、マダラは満たされた気分になった。今度こそ明かりを消し、なまえの要望通り同じ布団に二人で入る。このまま抱いてしまいたいところだったが、明日は早いと言っていたし、離れ難くなるのがわかっていたので口付けだけで我慢した。
 事に及んだらどうしようかとドキドキしていたなまえも、髪を優しく撫でられるうちに眠気を感じ始め、目を閉じるとあっさり寝入ってしまった。出発前夜にしては随分つれないなとマダラは思ったが、無防備な寝顔を前に何かを言う気にもなれず、それどころか愛おしさが増すばかりであった。
 その肌に指を滑らせ、頬や瞼、唇をなぞった。この瞳が映すのは自分だけでいい。この口が紡ぐのは自分の名だけであってほしい。時を重ねても尚深まり続ける愛情が、そんな願いをマダラの胸に抱かせる。
 仕事のためとはいえなまえが毎日のように扉間の元を訪れているのも、正直なところマダラはあまり好ましく思っていなかった。なまえが秘めているものに気が付き、彼女を引っ張り上げるよう扉間に働きかけたのはマダラ自身だったが、今となってはそれも少しばかり苦々しく感じられる。

「ん……」

 目元を親指で撫でていると、くすぐったかったのかなまえは布団に顔を埋めた。
 今回のなまえの任務が他言無用とされたのは、恐らく自分に向けての対応であることをマダラは悟っていた。里の運営から手を引いた今の自分が、極秘と聞いた任務に対してどういった反応を示すのか確かめようとしているのだ。あのなまえが見張りの視線に感付いたのも、いつも以上に監視を強めているせいだろう。
 自分を警戒しているらしいあの男が考えそうなことである。最早里をどうこうするつもりなどないマダラは、彼らの気が済むまで好きにさせておきたいところだったが、なまえを利用されたとあって憤りを覚えずにはいられなかった。
 だが、なまえはまだ気付いていない。まだ純粋に里のためを思って働こうとしている。どうしたものかとマダラは悩んだ。

「…………」

 いや、なまえの眼はいずれ必ず全てを見抜く。その時になまえがどう思うかだ。それまでは大人しく目を瞑ることにしよう。
 何よりもなまえを優先するとマダラはあの日からすでに誓っているのだ。なまえが傷付けられるようなことがあれば今度こそ容赦はしないだろう。
 マダラはなまえの体を抱き寄せた。色々と思案を巡らせていたのは、眠ってしまえばなまえが発つ明日がやってくるからだった。しかし朝起きられずに見送りができなくなってしまうと困るので、渋々といった調子で瞼を閉じる。暗闇の中、なまえの小さな寝息と体温を感じながら眠りについた。


 翌朝、マダラは今生の別れであるかのような思いでなまえを見送った。一方なまえが残したのは「家のことをよろしく」という素っ気ない言葉だけ。もっと他にあるだろうとマダラは思ったが決して顔には出さなかった。
 その後もしばらく玄関で立ち尽くしていたマダラだったが、せいぜい二晩か三晩一人になるだけだと頭の中で言い聞かせ、重い足取りで居間へ戻っていった。
 夜には月を見上げてなまえの無事を祈った。しかしそんな時にも見張りの気配をうっすらと感じ、まるで夜を共に過ごしているような気色の悪い錯覚をしてしまったマダラは、即座に障子を閉めて布団に入った。
 目を閉じるとなまえの顔が浮かび、ざわついた心が静まっていく。彼女の存在がどれほど安らぎを与えてくれているのか改めて思い知らされ、より一層恋しさを募らせるのであった。



 宣言した通りなまえは三日後に帰宅した。ただし、少しばかり体調を崩した状態で。心躍らせて迎えに出たマダラも、マスクを着けたなまえを前にして喜ぶどころではなくなってしまう。

「乾燥で、目と喉が……」

 なまえは瞼をしばたたかせ、時折乾いた咳を零した。たった三日の滞在とはいえ、いつもの砂塵対策だけでは足りなかったようである。風の国の乾燥した気候を甘く見ていたのだ。
 風呂に入りたいと言ったなまえのため、マダラはすぐに湯を入れてやった。入っている間に布団を敷き、乾燥には何がいいかと考えて、温かい茶を用意する。上がる頃には飲みやすい温度になっているだろう。
 数十分後、毛先に雫を滴らせながら戻ってきたなまえは、湯呑を出されて嬉しそうに受け取った。一口飲んだ後、病院で貰った目薬を袋から出し、用法通り一滴ずつ差す。
 今は少し咳も落ち着いているらしい。マダラはなまえの背中に回り、肩のタオルを取って髪を拭い始めた。いつしかなまえもそうされることに抵抗を覚えなくなっていた。
 なまえは医者に勧められて買って帰った蜂蜜ののど飴を開け、口に一つ放り込んだ。マダラにも差し出してみたが、いらんと一蹴されて小さく笑った。わかっていたのにわざと聞いたのだ。そして無意味に処方箋を眺めながら口内で飴を転がした。

「火の国ってすごく暮らしやすい場所だったんですね」

 しみじみとした様子でなまえが言った。マダラは手を止めず、喋りづらそうな声に対して言葉を返す。

「砂しかない国よりはましだろうな」
「はい。この森の有り難さがよくわかりました」

 直後になまえは咳き込んだ。小さな背中が揺れるのを見て、やはり心配になるマダラは一度休むように促した。しかしなまえは従おうとせず、処方箋を持ったまま動かない。いつもなら言われずとも布団に入っているのに、調子が悪い今日に限って何故拒むのだろうか。

「……なまえ」

 諭すように呼ぶとなまえはようやく振り返った。相変わらずぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、ちらりと目を合わせ、気まずそうに下へ逸らす。まるで叱られている子供のようだ。
 マダラが再び口を開こうとした時、なまえはそっと手を伸ばし、指先を控えめに握ってきた。

「だって、もう少し話したい……。駄目ですか?」

 なまえとて向こうにいる間マダラを恋しく思わなかった訳ではないのだ。帰ってきてやっと二人の時間を過ごせるのに、さっさと寝てしまうなんて勿体なかった。
 しかしマダラは譲らない。なまえの気持ちは嬉しいし、聞き入れて手を握り返したいところだったが、まずは何よりも体を治してほしかった。出しづらそうな声は聞いているこちらのほうが辛くなる。

「後でいくらでも聞いてやる」

 心を鬼にしてそう言った。するとなまえは顔を俯け、不服を訴えるかのように指先を撫でたり握ったりしてくる。そのかわいらしい仕草にマダラは揺らぎそうになったが、なまえがコンコンと咳をしたことで正気を取り戻した。
 なまえも、これではゆっくり話せないかと考え直し、我儘を言うのはやめることにする。そして畳に膝を着け、そのまま立ち上がるかと思いきや、顔を寄せてマダラに口付けをした。

「……これで……」

 なまえは机に置いていたマスクを掴み、居間を出ていった。
 これで我慢する、とでも言うのだろうか。体調を心配して色々と抑えているのはこちらのほうなのに、そういうことをするのは勘弁してほしいとマダラは思った。
 その後、散らかった机を片付けていると黄色の包みが転がって床に落ちた。マダラはそれを摘み上げてまじまじと見つめる。
 先程なまえが渡そうとしてきた蜂蜜ののど飴。その甘みは、なまえの唇によってほのかに伝えられたのであった。