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 昼過ぎに帰宅したなまえは、荷物を集めて忙しなく部屋を出入りしていた。今日の任務は何も入っていなかったのだが、それは夕方から行われる、里の視察に訪れた大名達をもてなすための宴会の手伝いを頼まれたからだった。手伝いというのは、事前の準備はもちろん、なまえ自身も宴に参加して接待をすることも含まれている。
 当然仕事着のままでは行けないため、事前に仕立屋で着物を頼んでおり、着付けもしてくれると言うのでこの後店を訪れる予定となっていた。
 なまえは風呂敷に包んだ荷物を抱え、居間にいるマダラへいってきますと声をかけて玄関へ向かう。このまま夜まで帰らないので夕飯を作っておこうとしたのだが、慌ただしくなるからいいとマダラが言ってくれてなまえは素直にその言葉に甘えた。
 草履を履いているとマダラが居間から出てきた。見送りをしに来たのだろう。振り返ったなまえを見下ろす彼は、どことなく浮かない表情をしていた。

「…………」

 マダラは口を噤んでいたが、心配しているような様子がひしひしと伝わってくる。何か一言だけでも言えばいいのに、目だけで訴えてくるところが何とも彼らしい。
 なまえは徐に荷物を持っていないほうの手を伸ばした。マダラはそれをしばしの間見つめると、腕組みしていた手を解いてそこに重ねる。するとなまえは嬉しそうに笑ってぎゅっと握った。
 普段しないことをされてマダラは余計に心配になった。華が必要なら他にいくらでもいるだろうに、何故成人もしていないなまえが手伝いに行かなければならないのか。大名などという名ばかりの小汚い男共のために着飾り、酌をして回るのだ。想像しただけで気が狂いそうである。マダラは無意識に手を強く握り返した。

「もしよければ、夜、迎えに来てくれませんか?」

 少しだけ眉尻を下げてなまえが言った。マダラが離し難く思っているのを握られた手から感じたのだ。少々厚かましいかもしれないが、今更仕事を断る訳にもいかないので、これが精一杯の提案だった。

「……必ず行く」

 マダラはぼそりと答えた。言われずともそうするつもりだった。なまえはもう一度だけ微笑み、するりと手を離した。
 地獄のような場所へなまえが行ってしまう。マダラがそう思っているうちになまえは荷物を抱え直し、それじゃあ、とだけ言って家を出た。何だか妙に呆気なくて、物寂しさを感じる別れだった。


 なまえは今日のことで色々と用心するよう扉間から言われていた。酒はこの後仕事があると言って極力飲まないようにしろとか、何かあっても部屋の外には絶対に付き添うなとか。
 もとより扉間としてはなまえを同席させるつもりなどなかったのだ。しかし、一年ほど前、書簡を届けに訪れたなまえの顔を大名が覚えており、彼女を指名するようなことが手紙の返事に書かれていたのでやむを得ず声をかけたのである。
 ただ、彼らは里に一泊する手筈となっているので、無論そういうことも頭には考えているだろう。しかしそれだけは阻止しなければならない。もしそんな事態になったとして、マダラが許すはずはないからだ。相手が大名だろうと最早彼には関係なく、一切の躊躇もせず殺してしまうに違いない。
 なまえの危機は里の危機と見なしていいだろう。だからこそ酒の席などに呼びたくなかったのだが、こうなってしまった以上は仕方がない。なまえの身に危険が及ばないよう手を尽くし、何事もなく済むことを祈るばかりである。

 様々な思惑が錯綜していることなど当の本人は露知らず、仕立屋で着付けを済ませ、温泉街にある料亭へと向かっていた。場所は以前マダラと風呂に入った店の近くなので迷わずに到着した。
 暖簾を潜り、従業員に声をかけて座敷へ案内してもらった。すでに準備は進められており、近くにいた人間に手伝うことはないかと尋ねると、何故かそのまま別室へと連行され、ここで待つように言われた。なまえの着物が大層立派だったので、汚してしまわないようにという配慮だった。
 仕立ての依頼をした時、なまえは特にあれこれ注文しなかったのだが、大名の前で着ると聞いた仕立屋が腕によりをかけて作り上げたのだ。あまり詳しくないなまえが見ても上等だとわかるほどのものを。見積もりの金額で収まらなかったであろうことは明らかで、なまえは恐縮しながらそれを尋ねた。しかし仕立屋は見積り通りでいいと頑なに譲らず、更には「恩があるから」と言われてしまい、なまえは引き下がるほかなかったのである。
 皆が忙しなく動き回る物音を耳にしていると、なまえはどうしても落ち着かなかった。自分だけがのんびり座っているなんて悪い気がしてならない。小さなことでもいいから仕事をもらいに行こうと腰を上げた時、部屋の襖が静かに開かれる。

「ここにいたか」

 顔を覗かせたのは扉間だった。警備の手配等を終え、待機するためやって来たのだ。当然彼も出席するので正装をしている。

「扉間さん」
「間もなく到着するそうだ。大人しく座っていろ」

 なまえの胸の内など扉間にはお見通しだった。なまえは渋々といった調子で再び座布団に座り、扉間もその向かい側に腰を下ろした。尚もきょろきょろとして落ち着かないらしいなまえに扉間は呆れながら口を開く。

「なまえ、茶でも飲んで落ち着け」
「あ……すみません」

 卓に茶を入れるための用意がされているのに、気が利かないことを咎められたと思ったのだろう。なまえは小さく謝罪して二人分の茶を入れ始めた。そういうつもりではなかったが、扉間は特に改めようとしなかった。
 それにしても、と扉間はなまえの姿をちらりと見やる。うちは一族には美しい女が多いとよく耳にするが、彼女もその中の一人だろう。誰に頼んだのか着物も化粧も派手過ぎない上品なものに仕上がっており、指名してきた大名を満足させるには十分なように思える。
 これも里のためだ。なまえには悪いが、宴の間だけはしっかりもてなしてもらわなければならない。どうぞと出された湯呑を受け取り、一口飲んで扉間は目を伏せた。
 直後、どたどたと廊下を歩く足音が伝わってくる。扉間が気にかけておくべき人間はもう一人いるのだ。無遠慮に開けられた襖へ二人して顔を向ける。

「ん……? すまん、邪魔を……」
「待て、兄者。なまえだ」

 何やら神妙な顔をして立ち去ろうとした柱間を扉間が制した。少々着飾った程度で顔がわからなくなってしまうとはあまりにも失礼な男である。
 なまえは苦笑を零しつつ、座る位置を少し横にずらした。柱間は「なまえか!」と嬉しそうに笑顔を浮かべながらそこに腰を下ろす。

「綺麗だぞ、なまえ。きっと皆も喜ぶだろう」

 そう褒められてなまえは曖昧な微笑みを返した。真横で見る彼の笑顔は何だか妙に眩しく感じ、不自然にならない動作で目を逸らした。そして、三つ目の湯呑に手を伸ばして柱間の分の茶を入れ始める。
 そうしているうちに大名達の到着を知らされ、一同は腰を上げて迎えに上がるのであった。


 先日、今冬に和平締結を行うと火の国が正式に通達をしてきた。此度の大名一行の来訪は、その前祝いと少しの念押しを兼ねて里が招待したものである。先方は体裁良く「視察」という形にしてそれに応じ、今日に至った。
 なまえを前にした大名はすこぶる機嫌が良かった。酌をするなまえの手つきは少々たどたどしかったが、それも寛大に許していた。他の席を回ろうとしても止められて、なまえは終始その隣で相手をする羽目になった。ただ、柱間が向かいに座っていたので、場を盛り上げる必要がなかったのは幸いだったと言える。
 会がお開きになると、一行は満足した様子で宿へと案内されていった。座敷に残ったなまえは、後片付けを手伝っている最中、卓に残された扇子が目に留まりそれを手に取った。

「これって……」

 誰の持ち物であるかはすぐにわかった。なまえがずっと相手をしていた大名のものだ。しきりに開いたり閉じたりして扇いでいるのを横で見ていたから間違いない。
 盗まれただとか言って騒ぎになってはいけないので、早急に届けたほうがいいだろう。そう思ってなまえは座敷を出ようとした。

「どこに行くつもりだ」

 廊下から現れた扉間が立ち塞がり、扇子に気付くと問答無用で取り上げた。迎えがあるとなまえが言っていたので終わったら速やかに帰るよう指示していたのだが、余計な気を利かせて余計なものを見つけてしまったらしい。一度は外に出たものの、何だか妙に引っ掛かり、様子を見に戻ってきたのは正解だったと扉間は安堵した。
 この扇子は意図的に残されたものだ。なまえが届けに来るのを期待して。そう説明するとなまえはようやく理解したようで僅かに肩を落としていた。普段なら回る頭も、酒のせいで幾分か鈍くなっているのだろう。扉間は申し訳なさそうにするなまえをしっかりと見送った後、中に残っていた部下へ扇子を頼み、一番の懸念が無事に去ったことで深い溜め息を漏らしていた。


 なまえは結局酒を飲んでしまったのだ。事前に注意されていたものの、実際に勧められると断ることなどできなかった。作法もよく知らなかったので周りの真似をして飲んだ。下戸ではなかったのか、今のところ気分は悪くなっていない。
 店を出ると無数の星々がなまえを迎えた。一段と明るい月が夜道を照らし、湯の流れる川が耳に心地よい音を立てている。
 なまえは辺りを見回してマダラの姿を探した。迎えに来てほしいとお願いはしたが、場所の約束をしていなかったことに今更気が付く。歩いていれば見つかるだろうかと家の方角を目指し始めた時、その先に人影が見えてなまえの足はピタリと止まった。

「マダラさん……」

 マダラは橋の欄干に背を預けてぼんやりと佇んでいた。ここなら必ず通ると考えたのだろう。なまえが小走りに駆け寄ると、マダラは背中を離して静かに見下ろしてきた。
 なまえは、何だか家に帰った時のような安心感に包まれ、張り詰めていた気持ちが緩んでくるのを感じた。ぼうっと顔を見つめていると、マダラは僅かに目を細め、するりと頬に指を滑らせてくる。

「綺麗にしてもらったな」

 優しい声音でそう言った。なまえは少しの間きょとんとして、すぐに顔を俯かせる。他の人間に褒められても何とも思わなかったのに、マダラから言われるとどうしようもなく嬉しくて、少し恥ずかしかった。もう少し暗ければ良かったのに、月明かりは赤らんだ頬を隠してはくれない。
 帰るぞ、とマダラが歩き出し、なまえは慌てて隣に並んだ。着物で歩幅が小さくなるなまえのために、マダラは普段よりもゆっくりと歩いていた。
 不意になまえがあっと声を上げた。その視線の先には大中小と並べられた蛙の置物がある。珍しいものでもないだろうに、なまえは楽しそうにそれを指差した。

「この間、喋る蛙を見つけたんですよ。あの小さな置物と同じくらいの」

 なまえが示した蛙を一瞥し、また妙なものに会ったなと思いながら耳を傾けるマダラ。なまえはふふと笑いを零して話を続ける。

「そうしたら、今日、その蛙にそっくりな顔をした人が来ていて」
「吹き出したんじゃないだろうな」
「いえ、その時は何とも思わなかったんです。でも……」

 話しながらなまえはくすくすと笑った。今頃になっておかしくなってきたのだ。そのそっくりだと言う人物の顔を見ていないマダラにはよくわからなかったが、なまえが楽しいなら別に何だって構わなかった。
 色々と心配だった宴会も、なまえにとっては悪いものではなかったのだろう。そう思った矢先、なまえが顔色を変えて手を掴んできた。

「何だか、頭がぐるぐるしてきました……」

 辛そうにして言うのでマダラが立ち止まるとなまえは数歩よろめいた。手に感じる温度もいつもより高く、それらの理由はすぐに思い至る。

「飲んだのか、なまえ」
「……はい、断りづらくて……」

 なまえはか細い声で言った。先程のどこか陽気な様子も、気を張っていた反動などではなく酒のせいだったのだ。わかった途端、マダラの心境は複雑なものへと一変したが、まずはなまえを休ませるべきだと思い、近くにあった東屋へ向かって腰掛けに座らせた。
 なまえは目を閉じて気分が悪いのを耐えているようだった。もたれさせようとしてマダラが隣に腰を下ろすと、なまえは自ら体を寄せてきた。ついでに手を両手で握られて、じわりと温もりが広がっていく。
 一体どれほどの量を飲まされたのかは知らないが、恐らく注がれるがまま口を付けていたのだろう。こんなことになるなら飲み方を教えておくべきだったとマダラは少しばかり後悔した。
 雲のない、月の綺麗な夜だった。時折、紅葉の枝が風に揺れ、鈴虫の声に混じって葉音をさざめかせている。こんな時でなければ夜の散歩も楽しめただろう。半円の月を眺めていると、なまえの手がもぞもぞと動き始めてマダラは視線を戻した。

「……月を見ていると、不思議と心が落ち着いてきます」

 夜空を見上げてなまえがぽつりと零した。まとめられた髪が淡い月光を織り込んでキラキラと艶めいている。なまえの髪はいつも綺麗だが、こうして月の光を浴びた時が最も美しいとマダラは思っていた。

「太陽は温かいけど、少し眩しいんです。でも、月はずっと眺めていられるし、冷たいようで、本当は優しくて……いつも見守ってくれているから、私は……」

 そこまで言うとなまえは慌てて口元を覆った。マダラは頭の中でその内容を繰り返し、それが何かを比喩していることに気付く。

「何を言ってるんだろう、私……。あの、どうか忘れてください……」

 なまえは顔を赤くして俯いた。その態度と言葉はまるで答えを明かしているようだった。黙っていればわからなかったかもしれないのに、時々覗かせる間抜けな一面は、呆れるどころか愛しさが湧くほどである。
 酒が入ったことによる言動だとしても、冗談を口にした訳ではないということはなまえの様子を見れば明らかだ。もしかしたらなまえは他にも自分への思いを秘めているのかもしれない。ぜひともその口から全て聞かせてほしいものだが、きっと恥ずかしがって拒否されるだろう。
 今はそれがわかっただけで十分だ。静かに腰を抱くと、なまえは小さく悲鳴を漏らした。その色気のない反応さえもマダラには愛おしいものに映った。