手紙


 柱間は、今日の昼食を何にするか決めかねて里の通りをぶらぶらと歩いていた。向かいからやってきた女性に頭を下げられ、微笑みを返した時、その後ろの店に見知った顔があるのに気が付いた。看板を確認するとどうやら蕎麦屋のようで、自分もここにするかと安直に決めて暖簾を潜る。大将風の男に威勢のいい声で迎えられ、柱間は迷いない足取りでカウンターの端に座る彼女の元へ向かった。

「なまえ」

 振り返ったなまえはきょとんとした顔で柱間を見つめた。注文を待っていたのだろう。柱間は親しげに片手を上げて挨拶する。

「隣、いいか?」
「あ……はい、どうぞ」

 柱間が単に昼を済ませに来たのだと理解したなまえは快く頷いた。まさか蕎麦屋で声をかけられるとは思っていなかったので、何か特別な用事でもあるのかと見当違いなことを考えていたのだ。
 腰を下ろした柱間は、水を運んできた店員にとろろ蕎麦を一つ頼んだ。

「店を決めかねていたから丁度よかった。なまえはいつもどうやって選んでいるんだ?」
「その時に空いてそうな場所にしてます」
「ああ……お前らしいな」

 柱間は店内を見渡しながらしみじみとした声音で零した。彼女があまりこだわりを持たない人間であることは、日頃会話をしていて何となく感じていたのだ。
 そこで、柱間はふと考えた。なまえは何かに対して不満を感じたり、腹を立てたりすることはあるのだろうかと。いつも穏やかにしているが、その心の内には鬱憤を潜めているかもしれない。マダラの嫁になってそろそろ一年が経つし、気難しい彼に対して一度くらいは腹を立てたことがあるんじゃないだろうか。
 そう思うと柱間はうずうずして、好奇心を抑えられずに尋ねてしまうのだ。

「なまえ、マダラと喧嘩したことはあるか?」
「いえ、ありませんけど……」
「あいつに不満はないのか?」
「ないです」

 なまえはきっぱりと言った。考える間もなく答えたということは、偽りなくそうなのだろう。柱間はマダラが少しだけ羨ましくなった。

「至らないところがあるとすれば私のほうですが……多分、目を瞑ってくれているんだと思います」

 なまえは申し訳なさそうに眉尻を下げた。なまえがそんなふうに思う気持ちも柱間にはわからなくはなかった。マダラが優しい男であることは、同じようによく知っているからだ。なまえが相手であれば尚更そうだろう。余程でない限りは何だって許してくれそうである。
 それに、二人が不満をぶつけ合う姿など想像できなかった。二人の家は外の喧騒など届かないほど穏やかでゆっくりとした時間が流れているに違いない。柱間は、なんて馬鹿なことを聞いてしまったのかと内心で自嘲した。
 なまえの頼んだ蕎麦がカウンターに出されて、自分を待とうとしていたので柱間は先に食べるよう促した。なまえは小さく頷いて、いただきますと手を合わせる。
 しかし、先程のなまえの言葉。マダラの態度から、その胸の内を推し量っている言い方だった。口数が少ないのはなまえに対しても変わらないらしい。それでも問題なく今日までやってこられたのは、なまえが機微を感じ取り、上手に解釈してくれているからだ。

「なあ、なまえ……」

 今度は神妙な面持ちをして自身を呼ぶ柱間に、咀嚼する口元を覆いながら顔を向けたなまえ。話題の尽きない人だなと感心したのは秘密である。

「あいつは……お前に愛を囁いたりしているか?」

 なまえはむせ込みそうになった。あまりにも唐突な質問を投げかけられて、咀嚼が中途半端なまま飲み込んでしまったせいだ。
 答えなど聞かずとも、その反応だけで十分に察せられた柱間は「やはりな」と呆れるような思いになる。
 この夫婦の間には圧倒的に言葉が足りないのだ。きっと、言葉を交わさずとも互いの思いは伝わっているのだろう。二人には二人の愛情表現があるのだということもわかるが、やはり言葉で伝えるべきではないかと柱間は思う。自分なら妻の顔を見る度に言ってしまうだろう。愛している、と。
 しかし、今となってはマダラにあれこれ助言することもできない。そう悩んだのも束の間、柱間は隣に座っているのが誰だったかを思い出し、ぽんと手を打った。

「なまえ、お前から言ってみるのはどうだ?」
「えっ?」
「だから、お前がマダラに言ってやるんだ。愛し……」
「そっ、そうじゃなくて」

 素っ頓狂な声を上げるなまえにわかりやすく説明しようとした柱間。しかしなまえが疑問に思ったのはそこではない。何故急にそんな提案をしてくるのか、である。マダラであれば軽く流して話を終わらせたのだろうが、なまえはいちいち真に受けて聞き返してしまった。
 柱間はその食い付きが新鮮で僅かに感動した。そして、なまえをその気にさせるための理由を考える。

「あいつと一緒になって一年になるだろう。その思いを込めて伝えてみろ。マダラの奴、涙を流して喜ぶかもしれんぞ」

 言いながら、流石にマダラが泣くことはないかと柱間は内心で苦笑した。しかし、それほどに嬉しく思うのは間違いない。もう少し後押ししようかとなまえに目を向けたが、そこにあった表情に口を噤んだ。

「…………」

 なまえは視線を落とし、思案を巡らせているようだった。その頬は僅かに赤みが差している。
 柱間は目をぱちくりとさせた。なまえは案外単純なところがあるらしい。マダラを動かすよりずっと簡単である。
 その後、運ばれてきたとろろ蕎麦に両手を合わせながら、「上手くいきますように」とこっそり祈っておく柱間だった。



 任務を終えて深夜に帰宅したなまえは、風呂を済ませた後、座敷に入って書き物をする用意をした。初めて提出した時に子供の日記より酷いと呆れられた報告書も、今ではそれなりのものを書けるようになったのではないかと思う。相変わらず毛筆に対する抵抗感は拭えていないが、さらさらと仕上げた後に不備がないか確認をした。大丈夫そうだ。
 しかしなまえはまだ腰を上げない。彼女の本命はここからだった。新たな紙を机に広げ、一度深呼吸をし、再び筆を手に取る。そこに綴る内容は帰還中に粗方決めていた。
 柱間の言った通り、夫婦になって一年という時が過ぎた今、その気持ちを改めて伝えるのはとても大切なことではないかと思ったのだ。蕎麦屋を出た後、別れる前に柱間が「頑張れ」と肩を叩いてきた。決心したことに気付いたのだろう。なまえが頷くと、柱間は優しげな笑顔を浮かべて去っていった。
 だが、どう考えても口で伝えるのは難しい。多分、緊張してまともに話せなくなってしまう。自分でそれがわかっていたので、なまえは文具屋に寄って便箋と封筒を買った。手紙なら書いて渡してしまえばそれで完了するからだ。我ながら名案だとなまえは思った。結局、言葉で伝えてほしいという柱間の意には沿わない展開となっていたが、彼が知る由もなかった。
 マダラが眠っている今なら襖を開けられる心配もない。なまえは文字の一つ一つに思いを込めながら手紙をしたためた。


 翌朝、なまえは茶を入れるため湯を沸かしていた。茶を出すのに合わせて手紙を渡すつもりなのだ。弁当を渡した時と同じ作戦である。目の前で読まれてはたまらないので、さっと仕事へ出てしまう。完璧だ。
 湯呑を手に持ち、袖の内にそれがあるのを確認して居間へ入る。マダラは眠たいのか腕を組んだまま目を閉じていた。なまえは静かに歩み寄り、腰を下ろして湯呑を置いた。

「マダラさん」

 呼ばれるとマダラは顔を上げた。目が合うとやはり緊張が走る。なまえは鼓動が速まるのを感じながら、袖から手紙を取り出した。

「あ……あの、これを……」

 真っ白の封筒を差し出され、何だと思いながらマダラは受け取った。そしてまだぼんやりとした頭のまま、なまえの目元をじっと見つめる。珍しく隈のようなものを作っているのが気になったのだ。
 そうとは知らず、その眼差しに気恥ずかしさを覚えたなまえは腰を上げ、「じゃあ、いってきます」と独り言のような声量で零して居間を後にする。そして、座敷で報告書を回収し、少々忙しない足取りで玄関を出ていった。
 一方、マダラはゆったりとした動きで茶を口に含んでいた。ようやく覚醒し始めた頭で、手元にある謎の手紙へと目を落とす。
 あの寝不足の証はこれが原因だったのだ。一体何を手紙に書くことがあるのだろうかと思いながら封筒を裏返してみたが、そこも真っ白だった。飾り気がないのは何ともなまえらしい。
 中を開けようとして、マダラははたと手を止める。万が一、良くないことが書かれていたらと思うと僅かな戸惑いが生まれたのだ。

「…………」

 マダラはたっぷりと、半時ほど間を置いて、ようやく中の便箋を取り出した。綺麗に折り畳まれたそれを開くと、女性らしいほっそりとした字が一行一行丁寧に書き連ねられていた。
 初めの一文には突然の手紙に対する謝罪が書かれていた。その次は、共に過ごすようになって一年になるが不満はないか、というもの。マダラはそれを読んで驚いた。長いことなまえと過ごしているような感じがしていたのに、まだ一年しか経っていなかったのか、と。確かに、あれは去年の秋のことだった。なまえが違和感なく馴染んでいるせいですっかり失念してしまっていた。
 その後は、この一年間の思い出が長々と綴られていた。何が楽しかったとか、これが嬉しかったとか、またこんなことをしたいとか。他にも、自分が覚えていないような小さなことまで感想を添えて書かれていた。
 それらを読んで、マダラは素直に嬉しく感じていた。なまえがこんな手紙を寄越すなど誰が想像できただろう。毛筆は好きではないと言っていたのに、文章を辿っていると、その時々のことを懐かしみながら書いたであろう様子がありありと目に浮かんだ。
 最後は、これからもよろしくというような文面で締めくくられた。そして、ふとその後の行を見た時、マダラは何かが引っ掛かった。二枚目の便箋の、最後の行。これまでびっしりと埋められていたのに、その行だけは空白だった。単に余っただけなのかもしれないが、まるで、何か書くつもりだったのをやめたかのような――。
 考えすぎかと小さく息を吐き、折り目の通りに畳んで封筒の中に戻した時、玄関の戸が控えめに開かれる音がした。なまえだろう。忘れ物でもしたのかと思い、マダラは廊下に出て玄関へ向かった。

「なまえ」

 框に座って草履を脱いでいたなまえに声をかけると、ビクッと肩を揺らした。振り返った顔はどこかぎこちなく、些か気まずそうな微笑みを浮かべる。

「今日はいいと言われて……手伝うこともなさそうだったので帰ってきました」

 なまえは、手紙を読み終えたであろうところに帰宅をして恥ずかしいのだ。それはマダラにも容易に察せられた。どこかで時間を潰せばいいものなのに、真っ直ぐ帰ってくるあたりが彼女らしくて少しおかしい。
 だが、休みになったのはマダラとしては都合が良かった。じわりと滲み始めた愛情の下で、存分になまえをかわいがってやることができるからだ。
 マダラは立ち上がったなまえの腕を引き、そっと胸元に抱き寄せる。髪を撫でただけでなまえは恥ずかしそうに顔を俯けた。一年が経ってもまだ慣れないらしい。マダラにはそれさえも愛おしく感じられたが。

「……なまえ」

 マダラはなまえを抱き締めたまま、ぼんやりとその向こうを眺める。先程の件がどうしても気になって聞いてみることにした。違うなら違うではっきりさせなければ、いつまでも引っ掛かりが残ってしまう。

「手紙の最後に、何か……」

 マダラはそこで言葉を止めた。なまえの体が強張ったのを感じたからだ。それによって、あの違和感は正しいものだったと証明されたことになる。マダラは自分が少し恐ろしくなった。
 少し体を離してなまえの顔を上げさせる。らしくない目の隈も、もしかしたらそれが原因かもしれない。色々と始めてしまう前に一度休ませてやったほうがいいかと思案しながら、そこに優しく指を滑らせた。

「どうして……」

 なまえの頭は混乱を極めていた。ただの空白から何を感じ取ったと言うのだろう。全くもって理解できなかった。
 あの空白は、思うがまま書き連ねたら偶然できてしまったものだった。自分でも気になって、何か一言加えて綺麗に埋めようかと悩んだ時、一番に思い浮かんだのは柱間が言っていたあの言葉。その一行は、まるでそれを書かれるために空いているかのようだった。
 しかし、紙に書くことさえ恥ずかしかったなまえは、どうしようかと悩んでいる間に夜が明けてしまい、結局空白のままで渡すことにしたのである。それなのに、まさかそんなところまで見抜かれるとは思いもよらなかった。

「あれは何だ?」

 優しく詰め寄られ、なまえは目を泳がせた。あんな言葉、手紙にさえ書けなかったのに、口にできるはずがない。だが、隠し事が見つかった時のような罪悪感を胸に覚え、申し訳なさから何とか試みようとする。

「あ……、……い、言えない……」

 マダラは、顔を真っ赤にして困り果てるなまえを見て何となくわかってしまう。それは、なまえには難しいだろう。安心させるように抱き締めると、なまえも遠慮がちに腕を回し、顔を隠すように押し付けてきた。その背中を撫でながら、マダラはふっと顔を綻ばせる。
 今はまだ無理でも、なまえにその思いがあるならいつかは言ってくれるだろう。今はそれがわかっただけでも十分だった。

 後日、あの手紙は誰の目にも触れないように、マダラしか知らない場所へと仕舞い込まれ、ずっと大事に扱われるのであった。