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「それじゃあ行ってきます」

 それだけ言ってなまえは玄関の戸を閉じた。見送りをしたマダラはしばしその場に立ち尽くした後、居間に戻って彼女が用意してくれた湯呑を口元へ傾ける。しかし流れてきたのは一滴ほどの飲み残しで、とっくに空になっていたことにその時ようやく気が付いた。
 先程は平然とした態度で送り出したものの、なまえは明日まで戻らないらしくその心境は決して穏やかなものではなかった。それ故、彼女が支度を整えている間、落ち着かずにちびちびと口をつけていたせいであっという間に飲み干してしまったのである。
 うちは最強と恐れられる男が妻のたった一日の留守で動揺するなど誰も想像できないだろう。しかし彼にとってなまえはそれほど大切な存在なのだ。心配と少しの寂しさで気がそぞろになるのも無理はない。
 しかし今回は任務ではなく何かの手伝いがあるそうで里の外には出ないと話していた。危険がないと知り幾らか安心したマダラだったが、一人で朝を迎えることに変わりはなくどこか複雑な気持ちになっていた。
 湯呑を洗うため台所に入るとうちはの紋の描かれた風鈴が視界に入った。もうすぐ冬が訪れるというのに片付けるつもりはないらしい。ただの飾り物となっているのが不憫に思えて窓を少し開けてみたが、どうやら今日は風がないようでその音色を奏でることはなかった。

「…………」

 マダラは湯呑を洗いながらふと思った。この家を、自分の元を離れることになまえは何も感じないのだろうか。出掛ける時はいつもあっさりとしているのだ。たった一日とはいえもう少し名残惜しそうにしてくれてもいいのではないか、と女々しくも不満げな溜め息を零す。
 だが、少なからず彼女も同じ思いだったことは前回留守にした時の様子から見て取れた。その時は何ともなくても後からじわじわと来るタイプなのだ。帰ってきたらまた甘えてくるのかもしれない。そんな期待が生まれ、ざわつきそうだった心はすっかり落ち着いた。
 その後マダラは風がないならと外の掃き掃除を始めていた。この家の木は柱間が植えた桃の木くらいしかなかったが、余所から舞い込んできた落ち葉も混じっていつの間にか溜まっているので気付いた時に集めて燃やすようにしていた。なまえに手間をかけさせないため、というのは半分ほどで、実のところは単純に自分が気になるからやっているだけなのである。
 そうしていると通りかかった近所の年寄りに声をかけられることがあった。感心だの何だのと適当に褒めた後、一方的に世間話を繰り広げる。相手がうちはの長だろうと、年を召した者には関係ないのだ。マダラもそれに対して嫌がる素振りは見せず、彼なりに年寄りの暇潰しに付き合った。自分からは必要以上に関わろうとしないだけで、人嫌いという訳ではないのである。

「そういえば、この間なまえちゃんに……」

 話の中でなまえを褒められることが何度かあった。彼女はよく気が付くので困っている連中を見つけて助けていたのだろう。マダラは「そうか」と相槌を打ちながらも少し誇らしげな気分になっていた。
 庭も掃き終え、集めた葉を燃やしている間に縁側で休憩していると、肌に触れる空気が微かに変わったような感じがして空を見上げた。気のせいかと疑う程度だったが、写輪眼を通して見ると薄いチャクラの膜が広がっているのをはっきりと捉えることができた。

「……くだらん」

 マダラはそれが結界の類だということを瞬時に理解し、次に瞬きをした時には普段の黒い瞳に戻していた。里が何をしようと最早興味もないのである。
 だが、それとは別に引っかかるところがあった。何の手伝いかは言わずに出た今朝のなまえと、この時間からの術の展開。もしそうだと仮定すると、ここ最近なまえが何度か妙に疲れ果てた様子で帰ってきていたことも、その理由を語ろうとしなかったことも合点がいく。
 扉間は一体なまえをどうするつもりなのだろう。自分を警戒して里の内部のことはなまえに触れさせないようにするとマダラは思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。余程彼女を信用しているのか、何か別の事情が隠されているのか。いずれにせよ、あの男も馬鹿ではないのでなまえを悪く扱うことはしないだろう。自分の反感を買わないためにも。
 そして、見張りがなまえに移されたこともマダラは当然察知していた。動くとすれば彼女の身に何かが起きた時なので、その判断は正しいのである。
 そう、なまえさえ無事であれば、彼の世界の平穏が崩れることはないのだ。



 翌日。結界術の試験運用を終えた一同は、労いの言葉と共に実験の終了を言い渡された。結界を出入りする者をしっかりと感知し、長時間の展開が可能なことを確認できたのだ。
 協力するうちに絆が生まれた実験班は術の完成を共に喜び合った。その中の一人が祝いに食事でも行こうと言い出したが、皆疲労を滲ませた顔で遠慮した。恐らく誰よりもげっそりとしていたなまえは内心で安堵を零し、別れを告げて一人静かに帰ろうとする。

「なまえ」

 部屋を出た直後に呼び止められ、足を止めて振り返ると術の発案者で里の上役でもある男が後を追って出てきた。その向こうで扉間がちらりと顔を向けてきたが、なまえはさほど気にせず男に対応する。

「今日までご苦労だった。扉間君が見込んだだけはあって、実に助かったよ」
「えっ? いえ、私は……」
「いや、君が少々その……あれなおかげで皆に一体感が生まれたように思う」
「…………」

 男は薄く微笑み、なまえは口を半開きにして固まった。彼がぼかして言ったことを正確に察し、素直に喜んでいいのかわからなかったのである。

「疲れただろう。マダラ君に報告するのは遠慮願いたいが、今日はゆっくり休ませてもらうといい」

 なまえは頭を下げてその言葉を受け取った。それから男と別れ、行き交う人々に混じって研究棟を後にする。
 一日ぶりの日差しはぽかぽかと温かく、疲れた体に眠気を誘われた。座りっぱなしで凝ってしまった腰を軽く叩き、ゆったりとした足取りで自宅へ向けて歩き出す。
 日が一番高く昇っている頃だろうか。なまえは人で賑わう道をぶつからないように通り抜けながら、頭では別のことに思考を巡らせていた。
 あの男がマダラの名を口にする時、いつも妙な違和感が胸に起こるのだ。感情を隠すのが上手なようでそれ以上は読み取れないが、気にかかるということは決して良いものではないのだろう。
 実験に関して口止めされているせいで、彼のことも話題にしにくくこれまで聞けずにいたが、帰ったら一度さりげなく尋ねてみようかと思った。あの男と初めて会った日を思い出し、マダラのことを気にしている様子だったことから切り出せば不自然ではないはずだと、歩きながら一人で小さく頷いた。
 家の門を潜ると足元の石畳から庭のほうまで綺麗に掃かれていることになまえはすぐ気が付いた。「ありがとう」と胸の内で呟きながら玄関へ入り、草履を揃えて中に上がる。

「あ……マダラさんただいま……」

 なまえは台所から出てきたマダラに顔を綻ばせ、両手を伸ばして近寄ろうとした。しかし既のところでピタリと動きを止め、受け入れようとしていたマダラを困惑させる。
 なまえの頭に過ったのはつい先日磯の香りを持ち帰った時のことで、一日ぶりに帰宅をした今、風呂も済ませていないのに体を寄せていいのだろうかと不安になったのである。
 途端に眉をひそめたなまえを見て、また余計なことを考えているらしいなと察したマダラは構うことなく彼女の背中へ手を回して引き寄せた。勢い余って鼻をぶつけたなまえは小さく呻き声を漏らしたが、ふわりと包み込まれてその痛みも一瞬のうちに忘れてしまう。
 少しの間そうしていると、奥から湯の沸騰する音がした。マダラは茶を入れようとしていたのだ。もちろん、なまえが帰ってきたのを知って彼女の分も注ぎ足している。

「入れましょうか?」
「いや、お前は先に……」

 手でも洗ってこい。そう続けようとした時、何とも情けない腹の音が鳴り響いた。茶よりも別のもののほうが良さそうだと判断したマダラは、火を止めた後、顔を赤くしたなまえを連れて町のほうへと繰り出した。

 なまえは目の前に置かれたカツ丼に目を輝かせた。いつもより長めに手を合わせ、食事にありつくことができる幸福を噛み締める。早速食べ始めた彼女を一瞥し、マダラも定食に箸をつけた。
 余程体力を消耗したのだろう。夢中になって食べ進める姿からは普段の慎ましさを感じられなかったが、時折浮かべる幸せそうな表情にはマダラも満たされた気分になった。
 途中、なまえが思い出したように「そういえば」と話を始めた。例の件である。それを聞いたマダラはぼんやりとその存在を思い浮かべ、やはり結界術の手伝いをさせられていたのだと察しをつけながらもそれには触れず、一応は知っていることを伝える。

「彼とは親しかったんですか?」
「二、三度話をした程度だ」
「そうですか。……何だかあの人、あまりいい感じがしなくて」

 なまえはぽつりと零して水を一口飲んだ。そして再び箸を持った彼女を眺めつつ、マダラは考えに耽る。
 あの男について特別何かを知っている訳ではないし、彼となまえが話しているところを直接見た訳でもない。なまえと接触したのは手伝いの中で関わりができたからで、自分のことを尋ねるのもそう不自然ではないように思えた。
 しかし真意を見抜く彼女の目は何かを感じ取ったのだろう。表情や声音、小さな身振りからほんの僅かな違和感を。

「あまり関わるな」
「はい」

 なまえは素直に頷いた。とは言っても術の実験は今日で終わったので、上役である彼と関わることなどもうないのである。
 マダラも自身の目が届かぬところの話で心配ではあったが、本人が警戒しているなら大丈夫だろうと思いそれ以上の口出しはしなかった。

 帰宅して風呂を済ませたなまえは、まだ夕方にもならない時間ではあるが睡眠をとるため寝支度を調えていた。戻った時にはすでに用意されていた布団の横で、髪が乾くまでの間にと凝り固まった体を入念に伸ばす。
 それを尻目にマダラは縁側で茶を啜っていた。思ったほどなまえが甘えてこないことに少々不満を抱いていたが、他に頭を悩ませることがあったのだから仕方がないかと視線を落とす。

「マダラさん、ちょっと押して……」

 なまえに呼ばれて湯呑を置いたマダラは彼女の後ろへと移動した。腰の辺りに手を添えてゆっくり押すとぺたりと前に倒れ、よくここまで柔らかくなるものだと密かに感心を覚える。
 動かないのでそのままにしていたマダラだったが、妙に静かなのを訝しんでその名を小さく口にした。すると、のそりと体を起こしたなまえが目元を擦りながら振り返り、気持ち良かったからうとうとしてしまったと呟いた。どんな所でも眠れるのは彼女の特技だろう。これまで何度もそれを目の当たりにしてきたマダラでも、柔軟の最中というのは予想ができなかった。
 布団に連れられたなまえは大人しく横になり、布団を掛けられると嬉しそうに微笑んだ。そして布団の中から腕を伸ばし、隣に座り込むマダラの手を柔らかく握り締める。

「眠るまで、そばにいてくれますか?」

 もとよりそのつもりだったマダラは、短く返事をしてその小さな手を握り返した。なまえはもう一度、心底嬉しそうに目元を細め、鼻の辺りまで布団に潜って瞼を閉じた。
 やがて穏やかな寝息を立て始めて、マダラは自分も風呂を済ませようかと握られた手を静かに抜く。するとなまえが薄く目を開き、あったはずの温もりを探すようにもぞもぞと手を動かすので、自ら差し出すと今度は両手で包み込まれた。
 安心したように眠りにつくなまえを見て、マダラは他のことなどどうでもよくなってしまった。風呂も、置きっぱなしの湯呑も、ほんの少しの不満さえも。この手一つで安らかに夢を見られるなら、どれほど長い時間でも握っていてやろうと思った。
 とっくに見慣れてしまった寝顔もいつまでだって眺めていられる。結局、マダラはなまえが目を覚ますまでずっとその手を離さずにいた。