53


 夜が明けるのと同じ頃に目を覚ましたなまえは、初冬の冷気を肌に感じながら布団から体を起こした。
 昨夜寝る前に「おやすみ」の返事はもらえたものの、気まずい空気のまま一日を終えてしまった。このままでは良くないと焦りを感じたなまえは頭の中で必死に解決の糸口を探していたのだが、目も合わせてくれない彼に話しかけられるほど神経は図太くなかったらしい。
 マダラも縮み上がっている彼女の様子に気付いていながら敢えて口を開くことはしなかった。今回の件は彼にとってそれほど深刻なものだったのだ。なまえを反省させている間、同じくらい頭の中で色々と考えを巡らせていたのである。
 脱衣所で顔を洗ったなまえは鏡に映る自分をぼんやりと見つめた。あまり眠れなかったせいかうっすらと隈が浮かんでいる。溜め息をつきたい気分になったが、全ての原因は自分自身にあることを思い出し手に取ったタオルに顔を押し付けた。
 お前の問題はお前だけのものではない。いつか扉間に言われた言葉が蘇る。たった一度でも伝えていればここまでの事態にはならなかったのだ。話すことの大切さをこれほど痛感したことはない。
 思い返してみればそれは当初から何度も言われていた。仕立屋の女から、扉間から、そしてマダラ本人からも。黙っていても気付いてくれる彼に甘え、自分もわかったようなつもりになって、最も大事なことを疎かにしてしまった。意思の疎通に必要なのは探り合うことではなく伝え合うことなのである。
 だがそれを理解しても現状を解決するきっかけにはならない。それは今後のために胸の内に刻んでおくことにして、ひとまず、今をどうにかしなければ。まだ早い時間にも関わらず朝の支度を済ませてしまったなまえはマダラが起きてくるまでの間、額当てを磨きながら頭を悩ませていた。

「……おはようございます」

 やがて寝室の襖が開く音を聞きつけたなまえが廊下に飛び出して朝の挨拶をした。静かな声音とは裏腹に緊張のあまり強く握り締められた袖の下の両手。ああ、と普段通り短い返事だけを残して脱衣所へ入っていくマダラを見届けると、無意識に止めていた呼吸を緩めて足元へ目を落とした。挨拶だけでこれほど緊張したのはこの家に来たばかりの時以来だった。
 その後なまえは茶を入れるのに湯呑をひっくり返して火傷しそうになったり、あたふたするせいで額当てを置いたまま出ていこうとしたりといつもなら見せない失態を晒していた。
 このまま任務に行かせたらどんな怪我をしてくるかわからない。マダラは置き去りにされそうな額当てを掴み、草履を履こうとしているなまえの元へ向かった。

「なまえ」
「はい……、あっ」

 手元のそれに気が付くとなまえは心底申し訳ないという顔をして受け取ろうとした。しかしマダラはその手を無視し、そっと持ち上げ彼女の額へ添える。なまえは反射的に目を閉じたが、頭の後ろで丁寧に結び付けられたのがわかるとおずおずとその顔を見上げた。
 髪を優しく整えてやりながら、不安げに揺れる瞳を見据えてマダラは静かに口を開く。

「昨日のことはもういい。……無事に帰ってこい」

 そう言って頭を一撫でした。するとなまえは唇をきゅっと噛み締め、ゆっくりと大きく頷いてみせた。
 こんな状況になっても自分の身を案じてくれるその優しさを二度と蔑ろにしてはならない。そう胸に刻んだなまえは、離れる手を内心で惜しみながら今度こそ家を後にする。
 帰ったら「うるさい」と怒られるくらいたくさん話をしよう。すっかり調子を取り戻したなまえは薄暗い外を歩きながらそんなことを考えていた。


 幸いなことに今回の任務はとある宿場町へ遣いに行くことだった。
 これなら午前中に片付くだろう。たまにはマダラと一緒に昼ご飯を食べるのもいいかもしれない。などと、扉間の後に続いて部屋を出ながら浮ついた計画まで立て始めたなまえ。しかしその先で偶然耳にした話によって、その計画は叶わぬものとなってしまう。

「他に道のわかる者はいないのか」
「今から当たっても時間が……」
「困ったな」

 二人の男が窓辺に立って話していた。扉間は当然のようにそちらへ歩み寄っていく。なまえはその背中を目で追いつつ、どうするべきか悩んだ。何故ならそこにいる片方の男が例の上役の男だったからだ。
 関わり合いになるのは避けたいところだが、ここで自分だけ去ってしまうのも何だか決まりが悪い。結局、扉間のそばへ行きあまり関心を持たないようにして話を聞いた。
 本日仕事を頼む予定だった彼の部下が体調を崩してしまったらしい。指定の受け渡し場所へ手紙を持っていくだけの仕事だが、その場所が問題で、道を知っていなければ抜け出せなくなるような深い森の奥にあるのだと言う。
 扉間は何故わざわざそんな所で、と疑問に思ったが人の用事に口を挟む訳にもいかず腕を組んで頭を悩ませた。方々に行かせているなまえなら道もわかるかもしれないが、何となく、この男とはあまり関わらせないほうが良いような気がするのだ。
 今回は諦めてもらうしかないだろう。そう提案するため口を開きかけた時、今まで視線を下げていたなまえが、それはどの辺りかと彼に尋ねた。
 この女も少々お人好しなところがある。さっさと出発させておくべきだったなと悔やんだものの、扉間は彼女が代理で請け負うことを止めはしなかった。ここで強引にでも断らせておけば何かが変わっていたかもしれないのに、この時の彼はそんなことを知る由もなかった。


 昼ご飯の計画が潰れてしまったのは残念だが、唐突に思い立っただけなので今日ではなくても構わないのだ。毎晩一緒に食事しているのに贅沢な考えだっただろうかと小さく反省をしながらなまえは目的地へと駆けていた。
 あの後男から手紙を預かり、太陽が最も高く昇った頃に届けるよう頼まれた。扉間の遣いを終えた後でも十分に間に合う距離だったので先にそちらを済ませてから向かっていた。
 ただ手紙を届けるだけ。相手の素性や何のためのものなのかという詳細は一つも尋ねなかった。今回限りの代役に過ぎないからだ。それをわかっているのか男も細かい事情を話すことはしなかった。
 目的地の少し手前で足を止めたなまえは木陰に身を潜めて付近の様子を窺った。今にも崩れそうな見張り櫓と小屋があり、人の姿は見当たらない。太陽は間もなく天辺に到達し、約束の時間が訪れる頃だろう。
 なまえは懐に手紙があることを確認し、敷地へと足を踏み入れた。早く済ませて家に帰りたいのだ。それだと言うのにしばし待ってみてもそれらしい人物は現れず、正午と聞いたのは間違いだっただろうかとなまえを不安にさせた。
 まさか小屋の中にはいないだろう。それならとっくに出てきているはずだし、と訝しみながら扉に手を掛けて横に滑らせる。
 一番に目に入ったのはこちらに背を向けて横たわる人の姿。それを認識した瞬間、なまえは全身が粟立つような感覚に襲われ、真っ白になった頭のままその傍らへと駆け寄った。

「カガミ……!」

 鋭い観察眼を持ち、いつもは冷静な判断ができる彼女でもこの光景を前にして平常を保つことなどできなかった。里の子供が、それも自身のよく知る少年が、何故このような場所で倒れているのか。心に深い傷を残した例の事件が脳裏に蘇ったが、首を左右に振って掻き消した。
 震えそうな指先で少年の喉元に触れると体温がはっきりと感じられた。脈を確かめるため軽く押し当ててみたが、己の動悸が激しいせいでどちらの脈動なのかわからない。
 生きているはずだ。そう信じ込もうとしていると、カガミが僅かに呻きを漏らして瞼を開けた。

「カガミっ、カガミ大丈夫?」
「……なまえさん? 何で……」

 状況がわからず顔を顰めるカガミを余所に、ひとまずの無事を確認できたなまえは心の底から安堵したように息を吐く。しかしこんな所でのんびりしている訳にはいかない。体に異変がないか尋ねた後、尚も戸惑っている少年を背中に乗せて小屋の外へ飛び出した。
 里の方角を見据え、写輪眼に切り替えたなまえは背負った体を落とさぬようしっかりと支え直して地面を蹴った。
 こんなことをする連中が里へみすみす帰してくれるはずがない。むしろ隙だらけだったこれまでに何も仕掛けてこないのが不気味なほどである。
 なまえの肩を掴む小さな手に力が込められる。本来ならあの周辺を調べておくべきだが、この命の前では何もかもが後回しだった。たとえ自分がどうなろうとカガミだけは里へ、家族の元へ無事に帰さなければ。過去の悲劇を繰り返す訳にはいかない。
 普段と違う様子のなまえから緊迫した空気を感じ取ったカガミはようやく回り始めた頭で現状を理解し、同時に、少し前に起きた出来事を思い出す。
 今日は任務の体験学習で三人一組の班に分かれて活動中だった。カガミの班はとある店の荷運びを手伝うという何ともつまらない任務内容で、内心不貞腐れながらも指示通りに作業をしていた。その最中、道の端で立ち止まっている男が視界に入り、何気なく眺めているとどこかで見覚えがあることに気付いたのだ。
 それは以前なまえの後をつけていた男だった。路地の裏へと去っていったその男を放っておくことができず、カガミは荷物を捨てて後を追いかけた。覚えているのはそこまでだった。
 その話を聞いたなまえが一番に思ったのは、やはり自分が原因で危険な目に遭わせてしまったのだということ。自分がもっとしっかりしていればこんな子供にまで心配をかけずに済んだのに。
 きっと今頃学校の仲間や先生がカガミを探しているに違いない。両親にも伝わっていればさぞかし不安がっていることだろう。早く戻って安心させてやりたいという思いがなまえの足をさらに急がせる。

「なまえさん……」
「しっかり掴まっててね」

 深い森を抜け、里まで半分ほど進んだ辺りで二つの気配がなまえ達の後ろについた。攻撃を仕掛けてくる様子はなくただひたすらに追いかけてくる。肩を握る手に緊張が走ったのがわかり、なまえは赤い眼をちらりと後方に向けて小さく呟いた。
 追手の忍は全身が黒ずくめで目元まで隠しており顔を確認することはできない。これまでの話から大方の予想はつくがそれについて考えるのは後回しである。
 この不利な状況で襲ってこないのは都合が良かったが、何か企みがあるのは明らかだろう。そう思って周囲への警戒を強めた矢先、新たに三人が前方から姿を現した。
 クナイを投げようとする動作を捉えなまえは反射的に横へ跳ぶ。やはり里には行かせたくないらしい。木々を盾にして攻撃を躱した後、足裏にチャクラを集め一気に加速した。
 その背中でカガミが己の足で走ることを提案したがなまえは耳を貸さなかった。自分を背負っているせいで応戦できずにいると考えたのだろう。しかし彼女はすでにこの後の行動を頭で決めており、実行するために里の外壁へと迫っているのである。
 僅かに距離を稼いで壁へ到達したなまえは膝を折ってカガミを下ろすと、そのまま素早く印を結び始めた。そして彼女が体得している中で最も威力の高い雷遁を、ありったけのチャクラを込めて壁に撃つ。
 この外壁は里に住む人々を災いから守るために作られたものだ。土が含まれているとはいえ容易に破壊できるものではない。しかしながらなまえが渾身の力で放ったそれは分厚い壁を貫き、人一人通れるほどの穴を開けたのである。

「行って!」

 少年を促し、ようやく短刀を抜いたなまえは飛びかかってきた追手の一人を迎え撃とうとする。相変わらずフードの下は見えないが華奢な体格から女性であるように感じられた。
 相手が誰であれ倒すほかに手段はない。向けられたクナイを弾き胴体へ切っ先を突き出すと、敵は回避する素振りさえ見せず刃を腹部に沈めた。
 自爆でもするつもりかと思い即座に離れようとしたなまえだったが、突かれた勢いのまま後ろへ倒れゆくその姿を見て動きを止めた。はらりと捲れたフードから覗いた顔が、知っている人物のものだったからだ。
 何故彼女が、と眉をしかめた直後、後方からくぐもった声が聞こえハッとして振り返る。破壊した壁のそばでカガミが敵に捕らえられていた。なまえの心臓はドクンと大きく波打った。
 カガミの首元にはクナイが添えられている。動きを見せればたちまち切りつけられてしまうのだろう。幻術にかけようにも顔を隠しているせいで視線が交わらず、写輪眼の瞳術も自身が対象でなければ使えないため打つ手がない。
 考えているうちに周りを囲まれいよいよ為す術がなくなったなまえに、黒ずくめの一人が前へ出て口を開く。

「お前が大人しくついて来るなら子供は逃がしてやる」

 聞いたこともない男の声だった。なまえはその男と周囲の様子を観察しながらも、投げかけられた条件を一切の間を置かずに飲んでみせる。

「わかりました」
「では刀を捨てろ」
「先に彼を離してください」

 信用などできるはずもない。せめて里に入る姿だけでも見届けようと、なまえは強い口調で言い放った。
 目の前の男が手で合図を出しカガミを解放させる。カガミは焦りと困惑に満ちた表情でなまえを見つめていたが、肩を乱暴に押されて怯えたように穴を潜っていった。
 壁を破壊するという大胆な行動に出たのは単に近道を作るだけでなく、轟音を立てることで人を寄せる狙いもあったのだ。駆けつけた誰かにカガミを保護してもらえたら。なまえはそれだけを祈りながら短刀を地面へ落とした。
 彼らの狙いはなまえだけだった。カガミはそのために利用されたのだ。自分のせいで怖い思いをさせてしまったのだと思うと胸が痛み、このような事態を招くことになった己の無力さがただ恨めしかった。


 両目と両腕を縛られたなまえは男に担がれてどこかへ運ばれていた。目を塞がれ鋭敏になった聴覚が四人の足音を聞き分ける。
 先程なまえが殺めたのは、以前彼女が協力した結界術の実験で共に試行錯誤を重ねた仲間の一人だった。他のメンバーもこの中にいるのだろうか。
 今朝のことを振り返るとあの上役の男が一枚噛んでいるのは間違いない。情報の整理を始めようとすると、不意に二人分の足音が途絶え、やがてもう一人も離れていったようだった。残るは自身を担いでいる男のみとなり、なまえは逃げ出すべきかどうか悩んだ。
 しかし、目隠しに使われている布に何らかの術が施されているようで視神経周辺のチャクラが扱えないのである。今この男から逃れたとしても他の仲間からすぐに察知されるだろう。写輪眼を封じられた状態で多数を相手にできる自信はなまえにはなかった。
 カガミは無事に避難できただろうか。やはりどうしてもそれが気がかりで頭を埋め尽くされていると、目元に巻かれた布越しに辺りが暗くなったのを感じた。男の足音が反響していることと肌に触れる空気が幾分か冷えたことからどこかの洞窟に入ったのだとなまえは推測する。
 少し進んだ先で男はなまえを乱暴に下ろした。手を後ろで縛られているなまえは受け身を取ることもできず地面に頬を擦りつける。

「ご苦労。君も外を見張っていてくれ」
「承知しました」

 暗闇の向こうで言葉が交わされる。なまえを担いでいた男の足音は遠ざかりやがて聞こえなくなった。
 その独特な声音と話し方はあの上役の男のものである。一枚噛んでいるどころか彼が首謀者だったようだ。任務を代わりに受けた時点で相手の術中にはまっていたのだと気付き、なまえは己の間抜けさに呆れてしまう。関わるなと言ったマダラの忠告は、正しかったのだ。
 男は蝋燭に火を灯し岩の隙間に差し込んだ。全体を照らすには不十分だが足場の状態が判別できる程度には明るい。
 薄明かりに気付いたなまえが光源のほうへ顔を向けようとすると、近付いてきた男が二の腕の辺りを掴んで無理矢理体を起き上がらせた。

「あまり時間はないが、聞いておきたいことはあるか? 全て答えよう」

 腰を屈めた男は真正面からなまえを見据えてそう言った。なまえはこの状況でも怯む様子を見せず、無数にある疑問の中から最も重要なものを一番に尋ねる。

「何故こんなことを?」
「大義のためだ。君達うちは一族を追放することで里に真の平和をもたらす」

 男は一切の迷いを滲ませずに言ってのけた。うちは一族であるなまえにしてみれば腹に据えかねる話だったが、感情的になって言い返すことはしなかった。
 彼も彼なりに里を思い守ろうとしている。方法は違えども気持ちは皆同じなのだ。その信念を貫き通そうとしている彼を悪人と見なすことはなまえにはできない。
 できないが、そんな夢を掲げる彼はうちはの敵だ。なまえは自分の一族が、マダラが望む里を守りたくて今日まで尽くしてきたのだ。それだけは実現させる訳にはいかない。たとえ相手が里の大事な上役であったとしても。

「君をここへ連れてきた理由はわかるか?」
「……私をどうにかすることでマダラさんの反感を買い、追放するための大義名分を立てるつもりなのでしょう」
「その通りだ。扉間君に買われているだけはある」

 そういう意味でも彼にとってなまえの存在は厄介なものだった。うちはマダラの妻でありながら柱間や扉間から信頼を得ているなまえが。
 結界術の実験にも本当なら関わらせたくなかったのだ。しかし他に適任がいないということと扉間の推薦ということが相まって仕方なく了承した。里を守るための大事な結界の構造が奴らに漏れているのではないかと思うと気が気ではなかった。結局、実際に運用する際には少しばかり手を加えることにしたのだが。
 扉間から直々に任務を貰っているのであれば里に関する情報もそれなりに知っているはずだ。今はその口を固く結んでいたとしても里を追い出された後はどうだろう。
 口封じのため。そしてマダラを煽り立てるため。ここでなまえを始末することは彼にとって一石二鳥の利があるのだ。

「さて、私は事を進めるが構わずに質問してくれ」

 そう言うと男は懐からクナイを取り出した。目を封じられているなまえには微かな衣擦れの音を聞くことしかできないが、良からぬ空気を感じて緊張が走る。
 男はなまえの襟を掴み、そこから縦に服を切り裂いた。露出した上半身が冷たい外気に晒され、これから起こることを予感したなまえは足を擦って後ずさろうとする。

「うちはを敵に回したら……あなたもただでは済まないのでは?」
「承知の上だ。犠牲なくして大義は為せない。後は里にいる同胞が上手くやってくれるだろう」

 己が死ぬことについてさえ男は淡々と語ってみせた。
 彼らは理想の里を築くために巧妙な作戦を立て今日まで準備していたのだ。その中でもなまえの殺害は絶対とされたが、里にはマダラがいる上に、彼女に監視の目がついているため実行に移すのは厳しい。それで今朝のように猿芝居を打ちあの場所へとおびき寄せた。なまえに預けた手紙は白紙であり、渡す相手など初めから存在しなかったのである。
 カガミを攫って転がしておいたのは、なまえについて調べた時に子供を巻き込んだ事件があったことを知り、彼女を精神的に追い詰めるために利用させてもらったものだった。優れた目と機転の利く頭は扉間から単独での任務を許されるほどであり、数で追い回しただけでは捕らえられないと踏んだためだ。
 現になまえは里の防壁を破壊してみせた。もしあのまま里の中へ逃げ切られていれば此度の計画は失敗に終わっていただろう。念のために彼女と親しげにしていた女を暗示にかけ追い込み班に入れていたのだが、それが役に立ったらしい。命取りにもなりかねない僅かな心の乱れを生じさせ、計画通りにこの場所へ連れてくることができたのである。
 なまえを捕らえるためにそれほどの手間をかけたのだ。何としてもその悲願を成就させたいのだという彼の強い思いが感じられる。

「うちはカガミという少年……正義感が強く、賢しい子供のようだな」
「…………」
「まず一番にマダラ君の元へ駆け込んでいることだろう。そして、話を聞いた彼が君を助けるためにやって来る」

 マダラがこの洞窟へ辿り着き、むごたらしく横たわるなまえを見つけさせた後に男も自害するつもりなのだ。怒りの矛先はたちまち里へと向けられて、目論見通りに事は進むだろう。
 彼らはなまえだけでなくカガミのことまで調査していたのだ。以前なまえがカガミの修行に付き合っている時に墨のにおいが鼻を掠めたのは彼の部下がその様子を書き留めていたからだった。
 カガミの動きまで予測した彼の作戦は完璧なものだった。渦中にいるなまえにもそう思えた。だが何一つとして許せない。子供を利用し、危険な目に遭わせたことも。何の関係もない仲間を操り使い捨てにしたことも。そして何より、一族を追放するためにマダラをけしかけようとしていることが許し難かった。
 男は静かになまえを押し倒す。手を後ろで縛られているなまえは衝撃を受け流すことができず固い地面の上で顔をしかめた。
 まだ少し時間は残されている。どうにかしてこの状況から抜け出さなくては。写輪眼を封じられ、手を使って印も結べない今、できることと言えば体術くらいしか思い付かない。
 男がなまえの足の間に割り込み無表情にその姿を見下ろした。裂かれた服の下に視線を感じてもそれを気にする余裕はなまえにはない。唯一自由に動かせる両足でどうにかできないかと策を講じていると、少しの衣擦れの音が聞こえた後に、右の大腿部へ鋭い痛みが走った。

「大人しくしていてくれ」

 男がクナイを突き立てたのだ。まだ抗おうとしているなまえの様子に気付いたのだろう。身構えることすらできず激しい痛みに襲われたなまえは歯を食いしばり両の拳を握ってそれに耐える。
 容赦など微塵もない。そうすることに対して何の感情も抱いていないのだ。きっと、うちはの皆を追放するということに対してさえも。
 男はなまえの上に覆い被さった。痛みを堪え呼吸を浅くしているなまえの頬に冷たい指先が触れる。

「知っているか? 写輪眼の瞳力は深い憎しみを抱える者ほど強く顕れるそうだ」
「誰がそんなことを……」
「扉間君だよ」

 そう零しながらなまえの胸元を覆う下着をずらし、さらに下部へと手を滑らせていく。なまえはほんの一瞬黙り込んだが、今はそれどころではないと即座に思考を切り替えた。額当ての裏で汗が滲む。体をまさぐられながらも頭は妙に冷静だった。
 武器はある。足に突き立てられたままのクナイだ。あれさえ掴めたらこの状況を覆すことができる。行為が始まれば必ず隙は生まれるだろうと考え、身を汚されることに覚悟を決めたその時。
 下腹部に触れながら男が唇を重ねてきた。その瞬間、これまでに感じたことがないほどの嫌悪感が込み上げ、拒絶の意思が反射的になまえの口から火遁を吹かせる。
 さしもの男もこれは予期できず口内に広がる焦熱に呻きを上げた。その拍子に下唇に歯を立てられ、痛みに顔を歪めながらもなまえは今しかないと体を大きく捩る。
 男はむせ込み横へ倒れた。少量とはいえ気管へ直接火を流されたのだ。どれほど屈強な者であっても一溜まりもないだろう。その隙になまえは縛られた両手を前に回し、顔に巻かれた布を乱雑に取り払った。
 封印術の影響で視界が揺れる。足のクナイを抜いて手首の拘束を切り解き、ようやく見えた男の顔を言葉なく見下ろした。

「ま……待て……」

 掠れた声で語りかける男。しかしなまえは耳を貸さず、喉元を押さえている彼の手を無理矢理剥がし急所を露出させた。

「呪われた一族め……! いずれ必ず……里に厄災を……」

 それが彼の最後の言葉であった。なまえの持つクナイが喉を貫き、引き抜かれると血を吹き零して息絶えた。
 なまえは目を閉じ深く息を吐いた。そして静かにクナイを置き大腿部の傷へ止血の処置を施す。
 この程度の傷、一族が追放されることに比べたら大したものではない。乱れた服を手早く整えた後、再びクナイを手にして立ち上がる。上着は裂かれたままだが、この男の服など使いたくもないのでそのまま歩き出した。
 未だ視界は安定せず、歩く度に傷口も痛む。外には先程の四人が見張りに立っているのだろう。いや、他にも仲間がいると話していたから四人とは限らないかもしれない。
 なまえが殺めたあの女のように術で操られている者がいたとしても、もう解放されて自我を取り戻している頃だろう。尚も残っている者はあの男の一派と見なし、この足が動くうちに見つけて殺す。男の話を聞いている最中、そう決めた。
 なまえには彼らのように何としても成し遂げたい悲願がある訳ではない。全ての敵を排除できるほどの力がある訳でもない。だからせめてこの目に映る脅威だけでもどうにかして退けて、大切なものを守っていこうとあの日誓ったのだ。
 一本道を進んでいくと少しずつ光が差し込んできた。目を凝らしてみると外へ通じる出口があり、その脇に佇む人影のようなものもぼんやりと見える。恐らく自分をここまで担いできた男だとなまえは予想した。
 同じ里の仲間を手にかけることに対して抵抗はある。だがやらなければ自分が殺されるのだ。そして結局あの男の計画通りになってしまうのだろう。それだけは絶対に回避せねばならない。
 汗を拭おうとして額当てに手が触れた。今朝、マダラが巻いてくれたものだ。思い出すと途端に恋しさが胸に迫り、こんな所で挫けそうになっている場合ではないと己を奮い立たせた。
 早く済ませて家に帰ろう。なまえはクナイをしっかりと握り、あまり思い通りに動かない右足を一歩前へ踏み出した。



 黒衣を纏う男が凄まじい速さで森を駆け抜けていた。そのあまりの勢いに一寸遅れて枝葉が揺れる。
 あの男の読み通りカガミから助けを求められたマダラは、信用できる知人の家に少年を預けた後、なまえを探すべく里を飛び出した。
 朝の時点で何かが起きそうな予感はしていたのだ。無理矢理にでも引き留めておくべきだったかと後悔するものの、計画的な犯行であれば今日でなくともいずれ起こっていたのだろう。未然に防ぐにはもっと前の段階から対処しておく必要があったのだ。
 とにかく、手遅れになる前になまえを見つけて救い出さなければ。子供を人質に取るような非道な輩だ。何を企んでいるかわかったものではない。
 意図的に残されたであろう足跡を辿りながら、ここしばらく使うことのなかった写輪眼でなまえのチャクラを探す。その途中、茂みに潜む気配に気付いて足を止めた。
 そこに隠れていた黒ずくめの男はマダラを見るなり大地を蹴って駆け出した。マダラはすぐに後を追いその男を引っ捕らえると、何かを尋ねることもせず心臓を一突きにしてすぐに飛び立った。
 今の動きだけで十分にわかったのだ。この先になまえがいることも。そして、敵の真の狙いは自分であるということも。
 その瞬間、かつてないほどの焦燥感が背筋を駆け上った。考えたくもない最悪の結末が頭に過り、震えそうになる手を強く握り締める。
 そんなことは絶対にあってはならない。なまえまで失えばマダラは今度こそ己を保てなくなるだろう。だが、足場の木々さえ視界を塞ぐようで苛立ちを覚え始めた時、ようやく捉えることができたのだ。何よりも大切な存在を、その眼で。
 なまえは木の幹で身を隠しているようだった。彼女が見ている先には、同じような黒ずくめの格好をした二人組の姿。しかしそれらは気にも留めず、地へ飛び降りたマダラは真っ直ぐに突き進む。
 手を伸ばして届くほどの距離になるまでなまえは気が付かなかった。クナイを滑らせながら振り返った彼女の腕をマダラは容易く掴んで止める。
 そこに現れたのが愛しい男だったと気付いた時、なまえの目は大きく見開かれた。視線が交わると全ての時が止まったかのような錯覚に陥り、何もかもを忘れてしまいそうになる。
 だが、足の痛みで我に返ったなまえはその名を紡ごうとしていた口をきゅっと閉じ、掴まれた腕を引き抜こうとする。彼女には、やるべきことがまだ残っているのだ。

「なまえ」

 マダラが呼ぶとなまえはもう一度顔を上げた。そこにいつもの穏やかな表情はない。裂かれた服、土で汚れた頬、切れた唇に固まる血。足に傷を負っているのも一目でわかる。
 二人の気配を察知した敵が動き出した。離れようとするなまえを引き寄せたマダラは、息が止まりそうなほどに強く、その体を抱き締める。
 青白い光が二人を包んだ。マダラが須佐能乎を出現させたのだ。静かに沸き起こる怒りが形を成し大地を揺らして辺りを破壊する。
 なまえは生きている。だが、許せるはずがなかった。何故いつもなまえばかりが傷付けられるのだろう。何故、守りたいと思ったものほど奪おうとするのだろうか。
 このままではいつか本当になまえを失ってしまうかもしれない。弱々しく背中に腕を回され、マダラの心中はそんな不安に掻き立てられていた。