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 この手で触れても逃げ出さなくなったのはいつからだっただろう。柔らかな髪に指を滑らせながら、マダラはふとそんなことを考えた。
 初めはどこか素っ気なかったなまえ。マダラも強引に距離を詰めることはしなかった。ゆっくりと時間をかけて彼女の心を解き、愛を育んだ。
 まだ慣れずに少し触れただけで慌てていた頃が懐かしい。そう感じてしまうほど彼はこの家で短くとも充実した日々をなまえと重ねてきた。
 頬を撫でられて恥ずかしそうにマダラを見上げるなまえ。真意を見通すその瞳は彼が計り知れないほどの愛情を秘めていることに気付いているのだろうか。こうして表現しているのはその内のほんの一部分でしかない。
 だが、この日からマダラはもう少しだけ深くなまえを愛することにした。多少戸惑うかもしれないが今の彼女ならきっと受け止められるはずだ。
 彼がそうするのには理由があった。これまでずっと里のために尽くしてきたなまえは、この数日の間に一体何を思うだろう。
 里のこと、任務のこと、親しい人間、殺した者達、一族や兄弟のこと。柱間のそばを離れた後、彼自身がそうだったように彼女もまた過去に思いを馳せるのではないだろうか。
 それはそれで構わなかった。なまえが辛いと言うなら支えるだけ。悲しいと言うなら静かに寄り添い、前を向くならその隣を歩いていく。
 すでになまえには伝えてあるのだ。この先何があろうと愛し続けることを。どんな道を選んだとしても共に歩んでいくことを。
 彼女は覚えていないかもしれない。だから、どんな状況になっても自分だけは変わらずそばにいるのだということを薄らとでもいいから気付かせておきたいのである。

「あの……お茶が冷めてしまうので……」

 いよいよ耐えきれなくなったらしいなまえがぼそぼそと話す。朝の茶を入れて起こしに来たところをマダラが捕まえていたのだ。
 やはりまだ難しいだろうか。内心で苦笑を零しながら解放するとなまえはいそいそと布団を片付け始めた。
 それでも、とその背中を眺めてマダラは思う。ただ自分がそうしたいからという訳ではない。これから先、恐らくなまえは辛い思いをすることになる。それを密かに予感し、彼女を守るために行動へ移そうとしているだけなのである。

 昼頃、なまえは居間で縫い物を始めた。任務中に裂いてしまった手袋をそのうち直そうとしてずっとほったらかしになっていたのを思い出したのだ。
 古い忍術書を読み返していたマダラはそっと表紙を閉じてなまえに目を移した。用などはなくただその様子を眺めているだけ。それでも当然なまえは視線を感じて顔を上げる。
 マダラと目が合い、なまえはふわりと微笑んだ。そしてすぐにチクチクと手元の作業を再開させる。
 なんて穏やかなのだろう。なまえがいるだけで彼の目に映る世界は彩りに満ち溢れる。ほんの一瞬笑いかけてくれただけで、辺りに花が咲いたかのように、美しく鮮やかな色が蘇るのだ。
 この先もこんな毎日を送ることができたなら。叶わぬ夢だとわかっていても、マダラは思い描かずにはいられなかった。

「…………」

 なまえが再び顔を上げる。あまりにも熱心に見つめるものだから何か用事があるのかと思ったのだろう。しばし無言で見つめ合い、なまえはようやく膝に手を下ろす。

「どうかしましたか?」

 そう尋ねられ、マダラはどう返すべきか悩んだ。が、別に隠す必要もないかと思い、ありのままを答えることにした。一体どういう反応を示すだろうか。そんな期待を僅かに寄せながら。

「お前を見ていただけだ」
「……私を……」

 繰り返すように呟くとそれがどういうことなのかを理解したらしく、なまえは見る見るうちに頬を赤く染めた。どう対応すればいいかわからないのだろう。視線は彷徨い、もじもじと指先を擦り合わせている。

「なまえ」

 優しい声でマダラが呼ぶ。近くに来るよう促され、なまえは逡巡するような素振りを見せた後、静かに腰を上げてマダラの前へ移動した。
 顎を引き、眉を下げてじっと見上げてくるなまえ。そんな顔をする割には素直に従う彼女をマダラは愛おしく思う。
 いっそどこかへ閉じ込めてしまえば無意味に傷付けられることもなくなるのだろうか。その身を案じた時、彼の頭にそんなほの暗い考えが浮かぶ。
 腕を伸ばし、小さな体躯を抱き寄せる。そして、他の誰にも見せない優しい眼差しを向けながらゆっくりと顔を近付けた。
 考えはしてもマダラにはできなかった。縛り付け、自由を奪うことなど決して望みはしない。そんなことをしたらなまえがなまえではなくなってしまう。
 その代わり、苦しい時に縋れるように、いつでも守ってやれるようにその隣を離れずにいよう。だから少しだけ辛抱してほしい。そんな思いを込めながらそっと唇を重ねた。


 いつものように二人で買い物に出掛けた時のことだった。その目で色々なものを見つけるなまえが一つ一つに感想を零すのもいつものこと。
 散歩気分でいるのだろう。マダラも急かすことはせず、短い相槌を打って彼女の言葉に耳を傾けていた。
 もう少し鈍感であればよかったのかもしれない。人通りが多い道に出てしばらく歩いていると、やはりその違和感に気付いたようだった。
 不意に足を止めて後ろを振り返るなまえ。きょろきょろと視線を巡らせた後、少し先で待っているマダラに駆け寄り、何事もなかったかのように歩き出す。
 違和感とは「人の視線」だった。特定の誰かではなく、通り過ぎた人々の中に妙な視線を向けてくる者がいる。

「マダラさん、私……」
「お前がおかしい訳じゃない。いちいち反応するな」

 どこか変なところでもあるのかと不安になったなまえにきっぱりとマダラは言う。その口ぶりから何か知っているらしいことを悟るなまえだったが、咄嗟に聞き返すことができずにただ小さく頷いた。
 気にしないようにしても背中に感じる視線は居心地の悪さを覚えさせ、買い物はあまり時間をかけず手早く済ませた。そしてなまえは重い荷物を持ってくれたマダラに対して礼を言ったきり下を向いてしまう。
 つい先程とは打って変わり、家路を辿る二人の間に会話はなかった。一体何だろうと思案するなまえの横を平然とした様子でマダラは歩く。
 彼はわかっていたのだ。いずれ必ずこうなることを。そして、そうなった時にどうすればいいのかもわかっていた。

「あいつがやったらしい」

 後ろで誰かが呟いた。マダラは足が止まりそうになったなまえの手を掴み、そのまま家を目指した。誰が言ったかなど今はどうだっていい。
 通りから離れてもなまえは俯いたままだった。顔なんて上げられるはずもなかった。これは、他でもない自分自身が招いたことだったのだ。
 マダラがいてくれてよかった。一人ではきっと足が竦んで動けなくなっていただろう。手を引いて前を歩いてくれる彼に感謝しながら、ずり落ちそうになる荷物を胸元で抱え直した。


 上層部の二人の死は伏せておけるものではなかった。しかしそこに至るまでの経緯は秘することもできただろう。いや、あの兄弟なら迷わずその選択をしたはずだ。
 ただ同じ上層部の人間には伝える必要があった。なまえがやったという情報が漏れたのは、その中の誰かが口を滑らせたか、あるいは耳をそばだてる何者かが存在したか。ここが忍の住む里であることを忘れてはならない。
 町の様子を見た限りでは全員に知れ渡っているという訳ではないようだった。数日が経つのに今になって話が広がり始めたのは柱間の結婚というめでたい知らせがあったせいだろう。
 こんな中途半端な時期に公表したのは恐らくそういう意図も含んでのことだ。落ち着いてしまえばこの有り様だが、まあ、他に打つ手がない彼らを責めるつもりはない。
 マダラは夕飯の支度をするなまえの姿を廊下から覗いていた。彼女が動揺を見せたのはあの時だけで、家に帰ってからはそれについて触れることもなくいつも通りに振る舞っていた。
 だが、一人にするとどうだろう。度々動きを止めては物憂げに顔を俯かせている。
 マダラは足音を立てながら台所へ入った。気付いたなまえが振り返り、何事かと首を傾げる。料理中に姿を見せることなど滅多にないので不思議に思うのも無理はない。

「もうできますよ」

 盛り付けが済んだ皿を見下ろすマダラになまえが言う。彼女の顔には微笑みが浮かんでいて、それが取り繕ったものでないことくらいマダラは瞬時に見分けがついた。
 もしかすると、それほど深刻には悩んでいないのかもしれない。彼は今の僅かなやり取りからそう感じ取った。
 料理はいつも通りにできている。手慣れた家事の最中には他に考えることがなく、どうしても頭が埋め尽くされてしまうのではないだろうか。
 マダラは少し様子を見てみることにした。鍋の前に立つなまえにちらりと目を向けた後、棚から盆を取り出し、箸や皿を載せて居間へ運んでいく。
 その突然の行動になまえはお玉を持つ手を止めた。後ろを見てもすでにその姿はなく、数回瞬きを繰り返して鍋に顔を戻す。
 腹が空いたのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。見当違いな対応をしたにも関わらず何も言わなかったのは彼の優しさだろう。
 それに彼は腹が空いたからと言って催促をしに来るような男ではない。そのくらい知っているはずなのに、となまえは自己嫌悪に陥りながら味噌汁を小皿によそった。

「熱っ」

 お玉がカシャンと音を立てる。考え事をしていたせいで冷まさないまま口につけてしまったのだ。
 自身の間抜けぶりに嫌気が差す。小さな溜め息と共に肩を落としていると物音を聞きつけたマダラが戻ってきた。状況を一目に察し、真っ直ぐになまえへと歩み寄る。

「火傷したのか」

 頬を両手で挟まれたなまえは間近に迫る彼を見上げて大丈夫だと答えた。マダラはしばしその顔を見つめ、嘘ではないことがわかると「気を付けろ」と眉を寄せて言う。
 するとどういう訳かなまえは嬉しそうに口元を綻ばせた。にこにこと笑顔になった彼女を前にして、マダラは少々呆気にとられてしまう。
 なまえは本当に嬉しかった。こんな些細なことで真剣に心配してくれる彼の優しさが。偽りなどなく心の底から自分のことを思ってくれているのだ。落ち込みそうになっていた気分もすっかり晴れてしまった。
 たとえどれほどの苦境に立たされたとしても、ただ一人この男がいてくれたらきっと大丈夫だ。頬に添えられた両手にそっと手の平を重ね、愛おしさに目を細める。
 何があったとしてもこの手が離れることはない。あの日の晩、彼が一度だけ囁いた愛はなまえの心に確かに刻まれていた。