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 何でもないはずの時間も、愛しい人と共に過ごせば心にそっと仕舞い込んでおきたくなるような大切なものへと変わる。きっと、日々の中でそういう小さな幸せを見つけることができたら、思い煩うことがあっても明日のために前を向いて生きていけるのだろう。髪に触れるくすぐったさを感じながら、なまえはぼんやりとそんなことを思った。
 外はすっかり明るくなっていた。数刻前、日が昇り始めた頃になまえは一度目を覚ましていたが、謹慎中の今、早く起きる必要もないのだと思い、再び瞼を閉じたのである。
 その温もりから離れるのを惜しむ気持ちもあったのだろう。彼の手を探し、指先を触れ合わせてそっと握り込む。布団の中の手は温かく、その熱を感じているうちに眠りについてしまったのだ。
 いつから起きているのか、マダラは握られた手をそのままにしていた。もう一方の手でなまえの髪を掬い、指から滑っていく様を眺めて目を細めている。
 なまえが身じろぎをして目を覚ましたことに気が付くと彼はその手を止めた。そして、見上げてくる彼女の顔にかかる髪を優しく横へと流す。
 慈しむようなその眼差しに、なまえはどきりと心臓が跳ねるのを感じた。熱い感情が胸に溢れ出し、寝起きから頭がのぼせそうになる。

「夢を見ていたのか?」

 不意にマダラが尋ねた。なまえは僅かに目を丸くして、開いた口の隙間から疑問の声を漏らす。

「え……?」
「オレの名を呼んでいた」

 そう返して彼はまたなまえの髪に指を通し始めた。
 だからこんなにも上機嫌なのだ。見つめられることに耐えきれなくなったなまえは布団の中に顔を隠した。すると小さく笑ったような声が聞こえ、恥ずかしさのあまりに手をぎゅうっと握り締める。

「……寒くなってきたな」

 繋いだ手が汗ばみそうなほど体を火照らせていたなまえだが、そうとは言わなかった。そして夢の中の彼も、今と同じくらい優しい目をしていたということも到底話せそうになかった。


 朝が過ぎ、なまえが家の掃除をしている間、マダラは物置からストーブを出していた。今年も活躍してもらわねば。昔は火桶で炭を焼いていたのが随分と変わってしまったものである。
 玄関の前に陣取って丁寧に手入れをしていると、掃除を終えたらしいなまえが様子を見にやってきたが、邪魔になると思ったのか早々に引っ込んでいった。毎度のことながら羽織の一枚も重ねていない彼女がマダラには信じられなかった。
 あとは油を入れるだけ、という状態にして家に戻る。換気のためかそこら中の襖が開け放たれており、なまえは寝室で日に当たりながら庭を眺めていた。かのように思えて、下のほうばかりを見ているその瞳には何も映されていないのだろう。その様子を遠目に観察するマダラの頭に、ある一つの考えが浮かんだ。
 買い物には人の少ない時間帯に行くようになった。時折向けられる視線にもなまえはもう反応しなかった。相変わらず下を向いているのはそれらを見ないようにするためだろうか。
 彼女が八百屋へ入る前、マダラは「油を探してくる」と言ってそばを離れた。店はそう遠くなく、少し寄り道をした後に目当てのものを手に入れる。
 なまえの元へ戻るとちょうど最後の勘定を済ませているところだった。出てきた彼女と合流し、それぞれの荷物を手に家へと帰る。
 ストーブの設置を終えたマダラは庭に出て日当たりのいい場所を探した。寝室からもよく見える場所に決め、膝を曲げてしゃがみ込みスコップで土を掘り始める。
 土を十分に柔らかくしたところで、その姿を見つけたなまえが草履を突っ掛けて家から出てきた。荷物の片付けが済んだのだろう。同じようにして隣に屈み、その手元を見て首を傾げる。

「何をしてるんですか?」

 まさかこの男が花を育てようとしているとは思いもしないだろう。マダラは懐からそれを取り出し、中身を零さないようにそっと包みを開いた。

「手を出せ」
「……これは?」
「花の種だ。冬に咲くらしい」

 先程寄り道をしたのはこれを買うためだったのだ。手の平に移された種をじっと見つめるなまえ。今し方買ってきたのだということは彼女にもわかった。しかし何故急に花を、と内心で疑問を募らせる。
 だが、その理由も何となく察しがついた。彼がそういうことをする時は決まって誰かのためなのだ。そして、その誰かとは他でもなく――。
 じっと動かない彼女の手からマダラが数粒それを摘んだ。土の上にぱらぱらと落とし、なまえにも催促をする。
 戸惑っているのかと思い、手本を示してくれたのだろう。なまえも同じようにして残りの種をまいた。

「きっと、綺麗な花が咲くでしょうね」

 その光景を想像しているのか、まだ何もない土の上を眺めて目を細めるなまえ。マダラは袖の汚れを払いながら庭の隅へと顔を向ける。

「……あれには及ばんだろうがな」

 そこにあるのは花桃の木。彼女の大切な思い出が眠るその花のことを彼は決して蔑ろにはしなかった。
 マダラは道具を片付けるため立ち上がった。なまえはその背中を視線で追う。そして再び土に顔を戻し、一人微笑みを浮かべた。
 そんなことはない。彼はああ言ったが、きっと負けないくらい美しい花が咲くだろう。いや、どんなものでもいい。彼が自分のために植えたというだけで、それは彼女の目に何よりも美しく鮮やかなものとして映るのである。


 その行為は彼が思っていた以上に効果を発揮した。定位置から庭を眺めるなまえがぼうっとして俯きかけた時、意識せずともそれが視界に入ってくるのだ。
 マダラはもう無理に上を向かせようとはしなかった。どうしたって俯いてしまうならその先の景色に変化を与えてやればいい。それで気を引くことができたら暗い思考に飲まれることもなくなるのではないかと考えたのだ。
 それは花ではなくてもよかったのだろう。他の植物や、料理に使えそうな野菜を育てるのも悪くなかったかもしれない。それでもその選択をしたのは、やはりなまえに喜んでほしいという思いがあったからだ。
 何度もそれを目にするうち、いつしかなまえはその成長を心待ちにするようになった。小指の先ほどの芽が出た時には寝ていたマダラを揺すって起こすほどにはしゃいで見せ、その日は一日中笑みを浮かべて嬉しそうにしていた。
 世話も勝手にするようになり、水ばかり与えたがる彼女にやりすぎても枯れてしまうことをマダラが教えると顔を青くして柄杓を地面に落としていた。
 そんなふうに過ごしているとあっという間に謹慎期間が明けた。また何か言われて帰ってくるのではないかと心配していたマダラだったが、なまえは一切そんな様子を見せなかった。どうやら花が気になってそれどころではないらしい。
 何気なく思いついたことがこれほどまで彼女を元気づけているのだ。そればかりに夢中になるなまえを見てもマダラは不満など感じなかった。楽しそうにしているならそれだけで十分だった。

「どんな花が咲くか、マダラさんは知っているんですか?」

 庭から戻ってきたなまえが尋ねる。彼女が土を弄る時、マダラはいつも寝室の内側からその様子を眺めていた。寒い外には出たくないが、一人にするのも不安だという思いがせめぎ合った末のことだ。

「いや……聞かなかったな」

 マダラは種を買った店でのやり取りを思い出して首を振った。この季節に植えられるものを、と言って包んでもらっただけなのだ。確かにそれくらい聞いておくべきだったなと今頃になって考えていると、障子を閉めようとしたなまえが庭のほうを見てぽつりと呟いた。

「……白い花だったらいいな」

 それからゆっくりと隙間を閉じ、汚れた手を洗うため廊下へ出ていった。
 白い花。どういう思いでそれを望んだのかはわからない。だがその色は清らかな心を持つ彼女に何よりも相応しいものに思えた。
 きっとよく似合うだろう。自ずとその光景が目に浮かび、マダラは静かに笑みを零す。そして彼もまた、そうであればいいと彼女の願いにそっと思いを重ねるのであった。