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 勤務を再開したなまえの仕事は、以前のように里の外へ出るようなものではなくなっていた。
 朝、扉間の元へ行くとそのまま彼の仕事部屋へ連れていかれて、あちらこちらに散乱する紙や巻物の整理を頼まれた。近頃忙しさが増したせいで手が回らないのだと言う。
 時折、里の周辺や火の国の情勢を愚痴のように聞かされながら作業を進めた。指示通りに分類して綴じたり棚に並べたりするだけなので難しいことは何もない。そして、彼が別の仕事へ向かう頃になると家に帰るよう促された。
 そんな毎日が続くうちになまえは気が付いた。初めはこの数週間で変わったことを教えるためだと思っていたが、そうではない。恐らく、例の件があって任務に出せなくなったのだと。
 それが扉間の判断なのか、周りから批判を受けてのことなのかはなまえにはわからない。こうして部屋に入れているのも人の目に触れさせないようにするためだろう。切り捨てることのほうがずっと簡単なはずなのに、どういう訳か彼は自分を守ろうとしている。

「なまえ。そこに赤い紐で綴じた書があるだろう」
「はい」
「目を通しておけ。各国の隠れ里についてまとめてある」

 なまえはその綴りを手に取り中を開いてみた。風の国という見出しの下に、その国の情報が事細かく記してあった。もちろんその中にはこれまでなまえが調べて報告に上げてきたものも含まれている。
 次の紙を捲ると、そこには「砂隠れの里」と書かれてあった。その名を目にするのは初めてだった。何度か調査に赴いたあの地に名前が付けられたのだと思うと、何か関わりがある訳でもないのになまえは少し感慨深い気持ちになった。

「やはり土の国が早かったな。他も後れを取らぬようにと急いだようだが……。これで五大国それぞれに忍族連合の隠れ里ができたことになる」
「この数年で大きく変わりましたね」
「だが問題は山積みだ。先を見据えて準備を進めてきたが、まだ十分ではない。……だと言うのに兄者は「火影という名も真似されてしまった」と訳のわからぬことを嘆いている」

 筆を置いた扉間はうんざりしたように溜め息を零す。難しい話が始まると思い身構えていたなまえは少しばかり拍子抜けしてそちらを見つめた。どうやら彼は相当疲れが溜まっているらしい。
 その原因が自分にもあることをなまえは当然わかっていた。しかし扉間は一度たりとも彼女を責めるようなことはしなかった。普段の彼なら平気な顔で皮肉を零しそうなものなのに。
 朗らかな兄と比べて冷徹さが目立つ男だが、優しい一面も持ち合わせているのだ。迷惑をかけてしまった上に気まで使わせていることがなまえは心苦しく思った。

「……私にできることがあれば何でも仰ってください」
「いや……そうだな。頼みたいことは山ほどあるが、まずはここを片付けてくれ」

 扉間がそう返すと、なまえは静かに書を閉じて作業を再開した。この資料整理も仕方なくやらせているのではない。大事な情報を扱うため自身の信用できる部下に任せていたが、後から確認すると中身が支離滅裂になっており、順序だとか関連性だとか考えてもいないことがわかった。
 外で体を動かすことしかしてこなかった連中だ。こういった細かい作業は煩わしく、あまりやりたくないのだろう。結局自ら手直しして、部下にはそれ以来触らせなくなったのだ。
 そうしてこの惨状が出来上がった訳だが、なまえがこういう状況になったのはある意味で都合が良かった。彼女は嫌な顔をせず引き受けてくれて、教えた通りに一つ一つ片付けていった。
 今回の件で扉間はなまえが責められることのないようにとできる限りの手を尽くしていた。それでもやはりどこからか話が漏れて一部の忍の間に広まってしまった。それも、何故そうなったのかという部分が省かれた形で。
 しかし、どういう訳かなまえは全く気にしていないようなのだ。扉間がここで時間を合わせて仕事をしているのはその辺りをフォローするためでもあったのに、彼女は一度たりとも暗い表情を見せなかった。

「……なまえ」

 呼んでみると、なまえはすぐに反応して顔を上げた。取り繕ってなどいない、いつもの彼女がそこにいる。
 気にしても仕方がないと開き直ったのか、あるいはマダラが上手く守っているのか。扉間にはわからなかったが、思い詰めるようなことにはなっていないのだと知り些か安堵を零した。

「それが済んだら兄者の所へ行け。お前に用があるらしい」
「柱間さんが?」
「ああ。くだらぬことを言い出したら聞くなよ」

 そう言っておきながら、きっと断りはしないのだろうなと苦笑を浮かべるなまえを見て扉間は思った。


 その日の午後、なまえは風呂敷を大事そうに抱えて町を歩いていた。目指しているのは柱間の家。あの後、扉間から言われた通り火影室を訪ねてみると、帰る時でいいから家に荷物を届けてほしいと頼まれたのだ。
 なまえは快く引き受けてこの風呂敷を預かった。彼の家には一度行ったことがあるので道に迷うことはない。
 目印は背の高い松の木。以前マダラが教えてくれたものだ。それほど昔のことではないはずなのに懐かしく感じてしまう。
 感傷的な気分になるのを抑えて門を潜る。誰もいなければ適当な所に置いておくように言われていたが、どうやらその必要はないらしい。玄関の戸を叩くと、中からすぐに声が聞こえてきた。
 家に届けてほしいというのは、つまり彼女に渡してほしいということだったのだ。開かれた戸の隙間から赤い髪が覗き、なまえはその一瞬だけ目を伏せた。
 二人が顔を合わせるのはこれが初めてだった。なまえは名を名乗り、用件を伝えて風呂敷を差し出した。

「あなたが……」

 女はそう呟きながらそれを受け取った。これ以上ここに留まる理由がなくなったなまえは別れを告げて早々に立ち去ろうとする。

「あっ、待って」

 高い声に呼び止められ、なまえは足を止めて振り返った。彼女は胸元に荷物を抱き寄せると、僅かに顎を引き、思いも寄らない提案をしてくるのだ。
 お茶を飲んでいきませんか。柔和な笑みを浮かべているが、そこに緊張の色が滲んでいるのをなまえは感じた。
 それは決して邪なものではないのだろう。彼女のことを知りもしないのに不思議とそんなふうに思えてなまえは首を縦に振った。すると女はぱっと顔を明るくして、なまえの手を取り家の中へ招き入れようとする。

「外は寒かったでしょう。さあ、どうぞ上がって」

 彼女の名はうずまきミト。ころりと態度が改まった彼女を前にして、なまえは巧妙に捕らえられた獲物のような気分になるのであった。

 座敷に案内され、ミトの向かいに座ったなまえは、急須を傾ける彼女の様子をぼんやりと眺めていた。
 この家に来るのは二度目でも、目の前にいるのは初対面の女。一体何の用があるのだろうかと考えていると、静かに湯呑みが置かれた。

「あなたのこと、あの人からよく聞いていたの」

 ミトはそう言いながら盆を端によけ、なまえに微笑みかけた。その美しい顔立ちをあまり直視することができず、なまえは湯呑みに手を伸ばして目を逸らす。

「その時に、一度お話ししてみたいって言ったから……きっと私のために呼んでくれたのね」

 愛おしげに目を細めるミトを見て、柱間がどういうふうに自分のことを話したのか、なまえは少しだけ気になった。
 熱さを堪えながら茶を啜っていると、ミトが先程の風呂敷を膝の上で開き、中に詰められていた布の塊を取り出した。そして形のいい眉を僅かに歪め、なまえにも見えるようにそれを広げてみせる。

「見て。こんなに雑に畳んで……皺になるなんて考えないのかしら。あの人のだらしなさに気が付く度、溜め息が零れそうになるわ」

 一変して不満を漏らし始めた彼女に動きを止めるなまえ。淑やかに振る舞いながらも物ははっきりと言う性格らしい。
 雑に丸められていたそれは柱間の上着だった。なまえをミトと会わせるために適当に用意したのだろう。そんな手間をかけずとも素直に言ってくれたらよかったのに、となまえは思った。
 それから二人は色々なことを話した。ミトは話を引き出すのが上手ならしくなまえの口数も少しずつ増えていった。ただ、彼女はマダラとのことばかりを聞きたがり、なまえはその度にしどろもどろになった。
 自分達のことを他人に話すというのは何とも恥ずかしいものであった。けれども、ころころと表情が変わり、些細なことにも笑うミトと話すのは楽しかった。時間が経つのも忘れてしまうほどに。
 冬は日が陰るのも早く、気付いた頃には空に夕暮れの気配が混じり始めていた。ミトは慌ててなまえに帰り支度をさせ、玄関の先まで連れ立った。

「こんな時間までごめんなさい。こんなふうにお喋りできる相手がいなかったから、つい……。彼に怒られたりしない?」
「大丈夫ですよ。……私も楽しかったです」

 なまえがそう返すと、ミトは安心したように笑顔を浮かべた。
 彼女は渦の国の出身で、数か月前にこの里へ移ってきたのだと本人が話していた。知らぬ土地で、その長を務める男の家に嫁ぎ、気丈に振る舞っていてもどこかで心細さを感じていたのだろう。初めの僅かばかり不安に揺れていた彼女の瞳を思い出し、決して親しみやすいとは思えない対応をしてしまったことをなまえは申し訳なく思った。

「またお話ししましょうね。聞きそびれたこともたくさんあるの。円満の秘訣とか」
「え、えっと……はい……」

 本心ではあるのだろうが、ミトはなまえが困るのをわかっていて敢えてそう口にしているのだ。眉尻を下げて弱ったような顔をするなまえとは対照的に、ミトは最後まで楽しそうに笑っているのであった。


 一度帰ってからでは遅くなると思い、そのまま買い物をして帰宅したなまえ。荷物を下ろして草履を脱いでいると、静かに居間の襖を開けてマダラが出てきた。

「遅かったな」

 いつもは昼頃に帰っていたのが突然こんな時間になったのだ。心配もするだろう。しかしマダラはそれ以上のことは言わずなまえが置いた荷物を拾い上げた。
 二人で廊下を進みながら、なまえは遅くなった事情を説明する。

「柱間さんの奥様と会って、家にお邪魔していたんです」

 台所で荷物を置いたマダラは少し考える素振りを見せた後、「そうか」とだけ返して戻っていった。
 あの様子からすると「そういえばそうだった」と思い出していたのだろう。最早そこまで関心が薄れてしまったのかと、なまえは彼が去ったほうを見ながら苦笑を零した。
 夕飯の後、なまえは新たな日課となった花の手入れを始めた。とは言っても、水やりも除草も朝のうちに済ませてしまったため無意味に愛でて眺めるくらいしかすることはない。
 しかしそれもなまえにとっては大切な時間だった。二人で植えたそれは低い気温の中でもよく成長し、ついに蕾が一つできているのを見つけたのだ。開くのが待ち遠しく、すぐに咲くものではないとわかっていてもなかなかそばを離れられなかった。
 そうしていると、なまえの頭に今日知り合ったばかりの女の顔が浮かんだ。上品なのに天真爛漫な性格をしていて、そこにいるだけで場が華やぐような美しい女性。これから先、彼女が柱間を支えていくのだ。

「なまえ」

 思案に耽っていると、家の中からマダラに呼ばれた。なまえは立ち上がって振り返る。彼は寒さを堪えるように腕を組み、こう言った。

「早く風呂に入れ」

 何かと思えば、ただそれだけだった。多分、夜になって冷え始めたから早く温まりたいのだろう。なまえは先に入ってしまって構わないのにと思いながら素直に部屋に戻った。
 そして、ふとマダラの顔を見上げる。早くしろと言いたげな彼の目を見つめ、こんなことを思うのだ。
 自分は、どこかの一部分においてでも、この男の支えになることができているのだろうか、と。
 不安になった訳ではない。ただ、彼女達が眩しく見えて、少し比べてしまっただけ。

「…………」

 じっと見上げてくるなまえをマダラも黙って見下ろした。何か考えているらしいことはすぐにわかった。
 ミトの話は夕飯の最中に聞かされており、彼女なりに思うところがあったのだろうなと、未だに動こうとしないなまえの心境をマダラは察する。
 悩みであれば聞き出すべきかと考えているとなまえは思い出したように風呂に入ってくることを告げて離れていった。
 うずまきミト。柱間の妻。どういう意図でなまえに近付いたのだろうか。
 この里で居場所を失いつつある彼女に自分以外の話し相手ができるのは良いことなのかもしれない。噂など当てにせず普通に接してくれる者がいるだけでなまえにとっては救いとなるはずだ。
 だが、それも今の間だけ。彼女の傷となり得ないのならその接触には目を瞑っておこう。
 闇の迫る空に繊月が浮かんでいる。男はそれを見上げながら、ゆっくりと障子を閉じた。
 その薄い隔たりに遮られ、一筋の光さえも彼の元には届かなくなった。