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 瞼を上げるとぼやけた視界に明るい天井の色が映り込む。もう随分と日が入ってきているらしい。深く息を吸うと寒く沈みきった冬の空気が肺に広がった。
 どれほど服を重ねて布団を厚くしても寒いものは寒い。起きるのはもう少し日が照り始めてからでもいいだろうか、とマダラはまるで餓鬼のような己を内心で嘲りつつも、やはり布団からは出られず体の向きを変えて瞼を閉じた。
 そんな彼に視線を送る者がいた。指が通る程度に開かれた襖の向こうから、瞳を一つ覗かせている。
 マダラは首の裏にむず痒さを感じた。正体はわかっているためしばしそのままにしていたが、彼女が動き出す気配はない。仕方なくもう一度体の向きを変え、その隙間に目を向ける。
 すると、自分が見られていることに気付いたなまえは顔を離して立ち上がり、ゆっくりと襖を引いて中に入ってきた。にこにこと笑顔を浮かべる姿はどこか楽しげで、羽織りの前を押さえながらマダラのそばに腰を下ろした。

「よく眠れましたか?」

 目だけで見上げるマダラになまえが尋ねる。その顔を見ると陰鬱だった気分も幾らか和らいできて、マダラはやっと身を起こすのであった。

「もう出るのか」
「はい、そろそろ」

 そう言ってなまえは少し視線を下げた。ただそれだけを伝えに来たのではないだろう。寝起きの頭でもそれはすぐにわかった。
 促すようにマダラがじっと見つめていると、なまえはちらりと上目遣いで様子を窺い、手袋をした両手の指を膝の上で交差させた。

「あの……今日の午後、何か予定はありますか?」

 先程までとは打って変わり、随分と控えめな声でなまえが言った。マダラはすぐに「特にない」と答えを返す。するとなまえはぱっと顔を上げ、わかりやすく目を輝かせた。

「実は、気になっているお店があって……もし今日早く帰れたら一緒に行ってみませんか?」

 体を前に傾けて一生懸命に誘おうとする様子が愛らしく、気付けばマダラはその頭に手を伸ばしていた。
 この時ばかりは朝の寒さも忘れられる。マダラは優しい手つきでなまえの髪を撫でながらそれを了承した。

「わかった」

 そうして返ってくるのはなまえの嬉しそうな表情。彼女はわかっていないのだろう。たとえいかなる用事があったとしても、この男がなまえよりそちらを優先することはないのである。


 仕事を終えたなまえは急いで家に帰った。扉間は新たな用件を頼もうとしていたが、妙に張り切っている彼女の様子からこの後何か予定があるらしいことを察して「今日はもういい」と早めに切り上げさせたのだ。
 髪を乱れさせて帰宅したなまえをマダラが迎えた。綺麗に梳かされている間もなまえはそわそわと待ちきれない様子で、そんなに楽しみにしていたのかとマダラは笑みを零した。
 防寒と戸締りをして二人は家を出た。冬の青空はどうしてこうも澄んで見えるのだろう。足元に落ちていた葉を気付かず踏むと小気味いい音が小さく響いた。

「最近、いつもと違う道を通って帰っていて、偶然見つけたんです。お茶屋さんなんですけど……」

 それを聞いて、マダラは尚のこと珍しいと思った。飲み食いすることに関しては必要か不必要かくらいしか考えていないなまえが、わざわざ自分を誘ってそこに行こうとしているのだ。
 マダラはその心の変化を嬉しく思いながら道を案内するなまえの隣を歩いた。そして、目的の店に着いた時、その考えが間違っていたことに気付かされる。
 彼女が茶屋と言ったのは、茶を飲んで一息つくような場所ではなく茶葉を取り扱っている店のことだったのだ。
 やはりなまえはなまえのままだった。マダラは呆れたような、けれどもどこか安心したような思いになりながら暖簾を潜るなまえの後に続く。
 そこは商店街にある店よりも多くの茶葉を取り揃えていた。互いに詳しい訳でもなく、どこで取れたものだとか書かれた札を読んでいると、奥から店の主らしい男が下駄を引きずりながら近寄ってきた。

「よろしければお入れしましょうか」

 わざわざ声をかけに来た彼に遠慮するのも申し訳なく思えて、適当に二つほど入れてもらうことにした。その間、二人は腰掛けに座り、壁際に並べられた茶器を物珍しそうに眺めていた。
 そうしているうちに主の男が盆を持って戻ってきた。なまえがそれを受け取って自身とマダラの間に置くと、彼は「ごゆっくり」とだけ言って離れていった。
 盆には湯気が立つ二つの湯呑みと羊羹ののった小さな器。それから茶葉の名が書かれた小さな紙も添えられており、細やかな心遣いが感じられた。
 羊羹、と呟くなまえを余所にマダラは早速湯呑みを手に取って一口飲んだ。それを見てなまえももう一方を取りふうふうと冷ましながら慎重に啜る。互いに湯呑みを渡して同じように味わった後、二人は少しの間を置いて言葉なく顔を見合わせた。
 結局、いつも家で飲んでいるものと同じ茶葉があったのでそれだけを買った。試した二つの茶も決して悪くはないのだが、馴染みがないせいか何かが違うような気がする、というのが二人の抱いた感想だった。

「お気に召しませんでしたか」

 勘定の最中に男が尋ねた。声に抑揚がなく機嫌を損ねているかのように思えるが、その表情は終始穏やかで人柄のよさを感じさせていた。

「すみません。せっかく入れていただいたのに……その、あまりよくわからなくて」

 包みを受け取るマダラの横でなまえが話す。申し訳なさそうにする彼女に、男は目尻に皺を作ってこう言った。

「いいんですよ。あなた方、まだお若いでしょう。私のように年老いたらわかるようになりますよ」

 茶を味わうくらいしか楽しみがなくなりますからね。そう付け加えて彼は笑った。反応に困ったなまえは眉尻を下げて曖昧に微笑み、マダラも何も言わなかった。
 茶屋を出ると、なまえの提案によって付近を少し散策することになった。あまり来ることのない場所なので、同じ里の中でもまた違った雰囲気が感じられる。
 広場に出ると何やらたくさんの子供が集まっていて二人は足を止めた。大人が一人、彼らの前に立って話をしている。マダラは忍者学校の子供達だとすぐに気が付いた。
 外で授業をしているのだろう。そうなまえに教えると、寒いのに大変だというようなことを呟いた。本心なのかマダラにはわからなかった。
 不意に一人の子供が振り返る。それがよく知る少年であったため、なまえは小さくその名を口にして手を振った。少年はなまえ、そしてマダラへと視線を移し、気まずそうにしながら顔を戻した。反応がないことになまえは肩を落としたが、彼は今授業を受けているところなのである。
 その後も川沿いを歩いたり、路地裏に入ってみたりして散策を楽しんだ。やがて昼も過ぎ、気温が下がってきたので夕飯の買い物をして帰ることにした。
 こんなふうになまえと外を歩いたのはいつ以来だろう。居間で暖を取りながらマダラは思った。あの日以降なまえは外出を控えるようになり、買い物に行く時も不安や緊張からか顔を強張らせていた。
 それでも、彼女は少しずつ前に進もうとしている。日常を取り戻そうともがいている。その心の変化を一番に感じているのはマダラなのだ。ある日を境に今まで触れようとしなかった部分に手を伸ばし始めたことももちろん気付いていた。
 そうさせるきっかけが自分にあったのだとしたら、なまえはそれを知ったうえで選択したことになる。そう考えると、裏に潜む思いも見えてくるようだった。
 大事にしなければ。時は迫りつつあるのだ。せめてそれまではその思いと共に彼女の望む日常を送るよう努めることにしよう。マダラは揺らめくストーブの火を瞳に映しながらそう胸に決めた。
 その直後、襖が開いてなまえが顔を覗かせた。手には手袋を嵌め、何やら困ったような表情を浮かべている。

「醤油を買い忘れてしまって……急いで買いに行ってきます」

 そう言って返事も待たずに襖を閉めた。その向こうからバタバタと足音が聞こえる。相変わらず人を頼ろうとしない女だとマダラは思った。
 しかしそのほうが早いのは事実だろう。彼女が帰るまでの間、外に干した服を取り込んでおこうかと思い廊下に出た。
 ふと立ち止まり、玄関に顔を向ける。外はまだ明るく、商店街までの道程に危険はない。他国まで一晩もかからぬ彼女の足ならすぐに戻ってくるだろう。

「…………」

 ただし、何事も起こらなければ、の話であるが。
 沈黙を落とす彼の足元で、ギシ、と床の軋む音がした。


 なまえは醤油の瓶を片腕に抱えて走っていた。屋根の上を跳んで行けば店にはすぐに着いた。人々の注目を集めてしまったことを気にして帰りは地を走った。
 大事なものを買い忘れるなんて、心が浮かれていたのかもしれない。だが、本当に楽しかったのだ。今もまだ自然に笑みが零れるほどに。
 早く帰ってまたたくさん話をしたい。そう思いながら瓶を抱え直した時、向かいに見知った姿があることに気が付いた。
 顔が見える距離まで近付いてなまえは足を止めた。いつも親切にしてくれていたうちはの女だ。隣に連れ添っている男は彼女の夫だろう。しばらく会っていなかったことを思い出しながら二人に向けて口を開く。

「こんにちは……」

 いつも見守ってくれていた優しい微笑みで女も会釈を返した。そう、いつもなら、そのはずだった。
 女はなまえを見るなり表情を暗くした。そして、言葉を発することなく顔を背け、夫と共に足早にその場を離れていく。
 なまえは横を通り過ぎる二人を引き止めなかった。何故なら足は縫い留められたように動かず、声をかけようにも何と言えばいいか一瞬にしてわからなくなってしまったからだ。
 今の態度は拒絶を示したものだった。どうして、と思った時、なまえはようやく我に返る。今日を過ごすうちに薄れかけていた記憶がはっきりと蘇り、そして、恐れていた可能性が現実に起きてしまったことを同時に悟った。
 ああ、そうか。冷静に呟いてみても心臓は激しく脈打ち、胸を苦しくした。覚悟していたつもりでも、ほとんど関わりのない者と、うちはの親しい者に拒絶されるのとでは訳が違う。一族に対する思いが強いなまえにとっては尚更そうであろう。

「――なまえ」

 突如かかった声になまえは息を飲んだ。振り返ると、家にいるはずのマダラがそこに立っていた。
 彼は、何かが起こるとすればこういう時だと予感してなまえを探しに来たのである。彼女の表情からそれが的中したことを悟り、視線の先にあった二つの背中をその目に捉える。
 赤と白の紋。見まがうはずもない。よりにもよって、と僅かだけ鋭い視線を向け、なまえの肩に手を触れる。

「何か言われたのか?」

 そう尋ねると、なまえは静かに首を振り、「何も」と呟いた。
 彼女達は何も言っていない。言葉なき拒絶を示しただけ。なまえに自覚させるには、それだけで十分だったのだ。

「……帰るぞ」

 顔を伏せてしまったなまえの手を引いてマダラは歩き出す。後ろに続く重い足取りが彼女の心情を表しているようだった。
 家に着くまでどちらも口を開かなかった。玄関に入って戸を閉めると、黙って家に上がろうとしたなまえをマダラの手が引き止めた。
 なまえは一度だけマダラの顔を見て、またすぐに視線を下げた。彼が心配してくれているのはわかる。話を聞こうとしてくれているのも、わかる。なまえは溢れる感情をせき止めるように強く目を閉じた。

「……私がいけなかったんです」

 しんとした空間にそう零し、弱々しい力で手を解いて離れていった。
 マダラは廊下に消えてゆく背中を見つめ、空になった手の平を握り締める。昼間は楽しそうに笑っていたというのに、何故こうなってしまうのだろうか。
 初めから彼が同行していたとしてもあの女の反応は変わらなかっただろう。いや、それどころか一層強く拒絶されたかもしれない。なまえはまだ知らないのだ。この里はとっくに自分達の居場所ではなくなっていることを。
 マダラも草履を脱いで家に上がった。今の彼に怒りはなく、ただ、時が近付いていることを静かに感じていた。里を思いうちはを信じている彼女には気の毒だが、もう、他に道は残されていないのである。


 その日の晩。明かりを落とした寝室でなまえは眠れずにいた。目を閉じると昼間の光景が瞼の裏に浮かび、考えないようにと体の向きを変えてみても胸はざわついたままで落ち着かない。
 気持ちの切り替えがうまくできないのだ。食欲も湧かず夕飯は少し食べただけで下げてしまい、見兼ねたマダラが片付けを代わるほどに意識はそちらに引きずられていた。
 なまえは自分でわかっていた。恐れていた事態が実際に起こってしまったこと。たった一人の友人と言える存在に拒絶されたこと。そのショックが大きく、未だに受け止めきれていないことを。
 一旦気持ちを落ち着かせたほうがいい。そう思って静かに布団から抜け出し、寝室を後にする。
 襖が閉じられる音にマダラは目を開けた。寝付けずにいるなまえが気にかかって起きていたのだ。
 暗闇の天井を見つめ、深く息をつく。これまでにも傷付けられ悲しみに囚われる彼女を見てきたが、今回ばかりは相当に堪えているらしい。恐らく、思いを吐き出させてやったとしても解決には至らないだろう。
 どうしたものかと思案を始めた時、廊下のほうから物を落とした音が聞こえた。真っ暗闇の中、鋭敏な忍の耳にはうるさいほど届く。ここが潮時かもしれない。マダラは腹を決め、ゆっくりと体を起こした。
 廊下に出て台所へ向かう。明かりを点けて入るとなまえが床を拭いていた。水を飲んでいて湯呑みを落としたのだ。なまえは突然の眩しさに目を細めながら顔を上げる。

「ごめんなさい、騒がしくて……」

 湯呑みは割れて三つほどの破片が脇に集められていた。マダラは膝を折り、手拭いを持つなまえの手をそっと掴んだ。

「来い。話がある」

 なまえは短くそう告げた彼を見た後、少しの間を置き、立ち上がる素振りを見せることで了承を示した。先程から、その目は見ているようで見ていない。
 マダラは寝室へと戻りなまえを布団の上に座らせた。自身も腰を下ろし、俯いている彼女を呼んで顔を上げさせる。そして、躊躇いなく口を開いた。

「いずれ里を出ようと思っている」

 勿体ぶって妙な間を置くことはしなかった。言葉の意味を遅れて理解したなまえの目が徐々に見開かれていき、その時、ようやく本当に視線が交わった。

「え……?」
「お前も連れていくつもりだ。うちはの連中にも話をしたが……皆、里に残ると言った」

 驚きに打たれ戸惑うなまえを置いて話は続けられる。その考えは少し前から彼の頭にあり、裏で着々と準備を進めていた。動機はなまえの問題だけではない。火影が定められた日から、この里にうちは一族の居場所がなくなることを予見していたのだ。
 あの頃に思い描いた陽光の滲むような平穏などありはしなかった。このままでは自分達だけが日の当たらない場所に追いやられ、暗闇で息を潜めて過ごすことを強いられるようになる。それに耐えてまで里に留まる必要など、最早どこにもない。

「……だが、お前がここに留まることを望むなら考え直す。お前を残して去るつもりはない」

 話を終えてマダラは口を閉ざした。終始落ち着き払っている彼とは対照的に、混乱を極めているなまえは自分を待っているのだと気付き、しどろもどろに言葉を返す。

「あ……あの……、すぐには……」
「返事はいつでもいい。答えが出るまで待つ」

 マダラはそう言って立ち上がった。今日はもう休むようになまえに促して寝室を後にする。
 台所に戻り、割れた湯呑みを拾い上げる。これが何かの兆しだったとしても、その吉凶を知ることは叶わない。
 こんなはずではなかったのだ。なまえがただ笑って過ごせるならそれだけで十分だったのに。何もかもが、少しずつおかしくなっていった。
 静けさが包む空間に湯呑みを置く音が響く。一度壊れてしまったものは元に戻せない。だったら新しく作り変えてしまえばいいのだ。今度こそ、誰もが幸せになり、なまえが苦しむことのない世界へと。