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 空風が吹き付ける度、揺れた窓が小さな音を立て、僅かな隙間から冷気を流す。今日は特に風が強い日だった。物音に気が散らされ、扉間は忌々しげに窓の外を睨みつけた。
 彼女は気にならないのだろうか。ふと疑問に思い、黙々と資料を読み耽るなまえに目を向ける。すると、その答えがわかった。開いている資料の頁が少し前に見た時から変わっていないのである。
 どうやら別のことに意識が奪われているらしい。思えば今朝挨拶を交わした時もどこか上の空だった。
 彼女を悩ませる存在と言えば一つしかない。故に扉間は己が首を突っ込むべきではないと判断し、それについては触れないようにして気分を変えさせることを試みる。

「なまえ」

 声をかけるとなまえはすぐに反応した。目の下に隈が浮かんで見えるのは照明のせいだろうか。扉間は筆を置き、先を続けた。

「いい加減飽きてきたようだな」
「……すみません。そういう訳では……」
「まあ、それはいい。ところでなまえ、分身の術は使えるようになったか?」

 その問いに、なまえは不思議そうな顔をしながら首を横に振った。突拍子もないように思えるが、彼がそう尋ねたのには理由がある。
 里が形になる以前より柱間が考案していた忍の階級制度。下忍、中忍、上忍と分け、その実力に見合った仕事をさせる。基準や試験の方法など話し合いを重ねてようやく実際に設けられる運びとなったのだ。
 それはこれから忍者学校を卒業する子供達のため。そして、すでに任務の経験がある忍も一から試験を受けることが決められた。

「それで、まず初めの課題だが……ただ忍術を成功させるだけでいい。忍者学校の卒業試験と同じ内容だ。そうすると下忍の試験を受ける資格が得られる」
「それが分身の術ですか?」
「ああ。もしくは変化の術といった基本の術だ」

 いずれもなまえが苦手としている術だった。入門程度の試験が彼女にとっては最も難関となるのだ。扉間はそれなりに心配しており、こうして先に知らせているのも彼の優しさなのである。

「試験の実施までまだ日はある。お前が望むならオレが教えてやってもいい」
「……はい。頑張ります」
「頼むぞ。下忍にもなれぬようでは外の調査にも行かせられんからな」

 なまえは今日初めての微笑みを浮かべて「はい」と頷いた。ようやく表情が変わったことに扉間は少しばかり安堵を零す。
 彼は、何の疑いもなくなまえの明日を考えていた。


 純白の花が風にそよぐ。時折、傾くほどの突風が吹いても花びらは散ることなく茎は真っ直ぐに上を向いた。
 支えの一つもないのに強い花だ。花弁の縁を指でそっとなぞりながらなまえは思った。
 これを植える時、彼はどんな思いでいたのだろう。だって、あの頃にはすでに里を出る考えがあったと言うのだ。
 否、想像するまでもない。全て自分のためだ。彼はそういったことを決して口にしないが、なまえにはわかった。だから、里に留まることを望めば本当にその通りにするのだろう。
 大きな決断を迫られるのはこれで二度目だ。あの時と同じように、必要以上のことは語らず選択を委ねている。
 どうすればいいのだろう。自分はどうしたいのだろう。ぼんやりとしながら問いを落とした時、視界に広がる白色がとある日の景色を思い起こさせた。
 一年前。里に初めて雪が積もった日。マダラがなまえを誘い、白に染められた道を二人で歩いた。特別なことをしなくても、そうして二人で過ごす時間が大切な思い出になっていくのだと知った。
 恐れる必要はない。答えはすでに出ているのだから、あとはそれを伝えるだけでいい。
 一層強い風が吹き抜け、花となまえの髪を揺らした。そろそろ家に入ろうかと思い、なまえは腰を上げる。すると見計らったかのように障子が開かれ、中からマダラが姿を現した。
 なまえを見つけたマダラは怪訝そうに周囲を見回した。そして呆れたような顔をして縁側の端まで出ると、近寄ったなまえに目線を合わせるよう膝をつき、白い息を吐き出す。

「いつからそこにいるんだ」
「少し前からですが……」
「早く中に入ってこい」

 何をしていたのかは聞かずともわかるのだ。優しく促され、なまえは小さく頷いた。
 だが、その前に。袖の下で手の平を握り締め、できる限りの明るい顔を作ってみせる。

「マダラさん。明日、集落に行きませんか? 花を皆に見せてあげたいんです」

 精一杯にそう誘った。マダラはその微笑みの裏に隠された思いを感じ取り、「わかった」と真っ直ぐに目を見て頷いた。なまえは、そこで返事をするつもりなのだ。



 翌日。風はすっかり止んで雲のない青空が広がっていた。今年は雪が見られないかもしれない。そう思わせるほどに冬の火の国は穏やかな天候が続いている。
 休みを貰っていたなまえは、朝、いつも通りに目を覚まし、マダラが起きるまで静かに居間で過ごした。室内がストーブで暖まった頃に彼は起きてきて、なまえが入れた茶をあっという間に飲み干した。もう一杯入れようかと聞かれたが、マダラは「いい」と断った。
 それから掃除と洗濯を済ませて出掛ける支度をした。集落に持っていく花は、植えてある端のほうの数本を切って紙に包んだ。
 最後に戸締りをして家を出た。洗濯物は、昨日のように風が強くないので干したままで大丈夫だろう。
 里から集落まではそう遠くない。道を知っていれば半刻もかからず着く距離にある。近頃里の外に出ていなかったせいか、なまえは森の空気を新鮮なものに感じた。
 集落に足を踏み入れ、なまえは迷いなくその奥へと進んでいく。辺りを見渡しながらマダラも後に続いた。以前訪れた時よりも色を失っているように感じるのは、恐らく季節のせいだけではない。
 墓の前に着いてなまえは荷物を下ろした。幾度となく祈りを捧げられてきたその石は塵や雨水ですっかり汚れてしまっている。手入れをする人間がいないのだから仕方のないことだが、置き去りにされたものはこうして少しずつ忘れられていくのだろう。なまえは文字一つ刻まれていない墓碑に触れて思いを募らせた。
 掃除をするため水を汲みに井戸へ向かったが、底まで枯れてしまっていた。なまえは周辺の地形を頭に浮かべ、マダラに尋ねる。

「確か、少し離れた所に川がありましたよね」
「ああ。汲んでくる」

 マダラは手桶を持って林の中へ跳んだ。自分が行くつもりだったのに、となまえはその背中が消えていったほうを見つめて立ち尽くす。本当に、彼の優しさはいつだって変わらない。
 やがて、準備だけでもしておこうと思い墓碑の前に戻った。風呂敷を広げ、家から持ってきたものを確認する。
 花はまだ傷んでないだろうか。巻いていた紙を外して中を確認してみると、どうやら大丈夫なようだった。安堵を零した時、後ろで砂を踏む音がしてなまえは振り返る。

「あ……」

 もう戻ってきたのかと口を開きかけたが、そこにいるのはマダラではなかった。しかし、ここを知っているのはうちはの人間だけ。なまえは驚いたが、その男の身なりからしても一族で間違いないと判断する。
 だが、墓参りに来たという雰囲気ではない。嫌な感じがしてなまえは花を持つ手を胸元に寄せる。男は顔が見える距離まで近付いてくると、あまりにも唐突な問いを投げかけた。

「……なまえ、お前はどうしてマダラと一緒になったんだ?」

 なまえはその問いの意味がすぐにはわからなかった。思わず、聞き返す声が喉の奥から漏れる。
 どうして一緒になったのか。それは事の経緯を尋ねているのではないだろう。戸惑う彼女を差し置いて男はさらに詰め寄る。

「……それからだ。おかしくなっていったのは。少しずつ酷くなって、ついに上層部の奴が死んだ。そして、他里からの和平の使いも襲われた」

 なまえは押し黙っていた。何故ここでそんな話をするのかわからなかった。すると、男はさらに思いも寄らぬことを口にした。

「お前がマダラを唆しているのか?」
「……え?」
「弱いふりをして、あいつを操っているのか?」

 男の言っていることが何一つ理解できずなまえは顔を歪めた。否、理解することを頭が拒んでいるのだ。全身が強張り、目の前に迫る男を、瞬きの後に瞳を深紅に変えた彼を、ただ見上げることしかできない。

「――ようやく争いから解放されたんだ。やっとの思いで手に入れた平和なんだ。これ以上里を、オレ達を滅茶苦茶にしないでくれ」

 忌むような表情。怒りを灯したその眼。彼らを脅かしているのは自分なのだと告げられて、なまえは指の先一つ動かせなかった。
 男はなまえの肩を強く掴み、右手に握っていたクナイを突き出した。衝撃に揺れ、なまえの両手から花が舞い落ちる。
 男はそれ以上何も語らなかった。踵を返す彼の足元で花びらが潰れ、土に汚れる。
 腹の痛みと押し潰されるような胸の苦しみ。倒れ込む彼女の瞳に、去り行く背中の赤と白の紋が映る。
 ああ、自分は間違えてしまったのだ。朦朧とする頭を支配するのは、恨みや憤りではなく、大きな悲しみであった。


 緩やかに流れる川のほとりにて、爪先に当たった小石が清流へと沈んでいく様を眺める男がいた。
 ここは始まりの場所。柱間と出会い、一度目の決別をした運命の場所。
 思えば、彼は何度手を差し伸べてくれたのだろう。自分は何度その手を振り払ってきたのだろう。信じようとする度にすれ違い、掴もうとする度に阻まれて、此度こそはと信じて掴んでみても、やはり駄目だった。
 きっと、自分達はそういう定めにあるのだ。同じ空の下では生きられない。助け合い、共に歩みを進めることなど初めから叶うはずがなかった。彼が言ったように兄弟として里に残る道を選んだとしても、必ずどこかで破綻する。それは確信としてマダラの胸の内にあった。
 何より、このまま里に留まっているとなまえの命が危ないのである。とうとう一族の人間にも突き放され、彼女を守る者は自分と柱間達しかいなくなってしまった。
 何故なまえばかりがこれほど危機に晒されるのかマダラは薄々感付いていた。うちはマダラの妻。その存在は、うちはをよく思わない者にとって格好の的であろう。
 本当はずっと前からわかっていた。だが、なまえを手放すことは一度たりとも考えなかった。そんなこと、できるはずがなかった。だからどんな手を使ってでも守り抜くと誓ったのだ。彼女の心を。幸せを。笑顔を。その全てを。
 ――戻らねば。なまえが待っている。マダラは手桶を川に沈め、水を汲んだ。
 彼女が出す答えは、とっくにわかりきっている。


 着地の反動で跳ねた水が数滴、袖を濡らした。待たせているだろうなと思い、足を速めて墓を目指す。
 薄い日差しの中、木々の向こうから鳥のさえずりが聞こえる。のどかだ。人がいなければ邪気もない。里の空気はどこか少し淀んでいるのだ。
 そうして、遠くに墓碑が見えた時、マダラの足が止まった。
 散らばる白い花。それに囲まれるように墓碑にもたれて首を垂れるなまえ。待ちくたびれて眠ってしまったのだろうか。早鐘を打つ心臓に気付かないふりをして、ゆっくりと近付いていく。
 いつもそうだった。どこででも居眠りをする彼女を見つけ、起こしてやるのが自分の役目だった。また、こんな所で寝るなと呆れ、微睡む彼女を運んでやらねばならない。

「なまえ……!」

 落ちた手桶が音を立てる。なまえの腹部で黒く光るそれを見つけ、マダラは息を飲んだ。
 駆け寄り力なく垂れる首を持ち上げた。顔を歪めながらなまえが薄く目を開ける。まだ息はある。まだ、間に合う。
 懐に手を差し込みそれを取り出そうとした時、短く繰り返される呼吸の狭間に、なまえが言葉を漏らし始めた。

「……水、汲んで、きて……くれたん、ですね……」
「……なまえ」
「冷た、かった、でしょう……」

 腹を動かさぬよう息をしているのがわかる。それでも痛みが伴い、額に汗を滲ませて、そんな状況でも人の心配をしているらしい。

「無理に喋るな」
「……傷を、塞ぐ、ので、……抜いて、くれま、せんか?」

 自分では抜けないからとなまえは腹を押さえながら言った。マダラは一瞬の躊躇いを見せた後、その「保険」から手を離した。
 これを使うにはほんの数秒があれば事足りる。なまえがまだ諦めていないのなら最後まで手を尽くすべきだ。
 マダラはおぞましく突き立つクナイを見下ろした。そして、焦燥が指先を震わせぬよう息を整え、ゆっくりとそれを握る。柄を伝う血液が手袋を生ぬるく湿らせた。
 腹を押さえるなまえの手にチャクラが集まる。マダラは写輪眼でその動きを追った。少しずつ引き抜かれる異物に合わせ、傷が塞がっていく。
 掌仙術。医療忍術の中でも最も基本的な術。とはいえなまえはその術を習得していた訳ではない。以前、扉間から冗談交じりに医療忍術の書を見せられた時、一番初めに記されていたそれをわからないなりに読んで記憶していたのである。
 無論、一度の試しもなくまともに使えるものではない。大量のチャクラを消費して無理矢理それらしい術を発動しているだけだ。
 マダラはもう一方の手をなまえの手に重ねた。このままでは彼女のチャクラが先に尽きてしまう。汗を滴らせるなまえに使えと促すと、途端に吸い尽くす勢いで奪われていく。
 やがて切っ先までクナイが抜けた。マダラは首巻きを外し、なまえの服を捲って血を拭った。それ以上の出血はなく、どうにか傷を治すことができたようだ。
 脱力して横に倒れそうになったなまえをマダラが支えた。尚も荒い呼吸を繰り返すなまえは、汗に濡れた髪を肌に張り付けたまま、朦朧とする意識の中で彼の名を呼ぶ。

「……マダラさん……先日の話、ですけど……」

 全ての体重を預け、瞼を上げる力さえ残っていなかったが、これだけは伝えておかなければならない。ここを訪れた本来の目的はその返事をするためだったのだから。

「私は……マダラさんと一緒に……行きます……」

 弱々しくも強い意志の込められた声で言った。マダラと共に里を出る。それが彼女の出した答えだった。