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 腹の傷は塞がったものの、なまえはその後数日の間眠り続けていた。所詮は素人の医療忍術。再生した皮膚はねじれたような跡を残し、赤黒い色を痛ましく滲ませている。
 内部の再生が上手くできていないのかもしれない。眠っていても、その顔は時折痛みに耐えるように歪められていた。
 マダラは囲炉裏に薪をくべて、火が広がる様をぼんやりと眺めた。ここは里から遠く離れた森の中。忍さえも通らぬような奥まった地に、ひっそりと佇む木造の小屋。里を出ることを見越して見つけていた新たな住処だった。
 近くには川がある。土を耕せば畑を作ることもできるだろう。里で暮らしていた時よりは不便になるが、当分はここで生活していく予定で色々と準備をしていたのである。
 それがまさかこのような始まりを迎えるとは思いもしなかった。マダラは未だ目を覚まさないなまえに視線を移し、静かに息を吐く。
 医者を探すことももちろん考えた。だが、この状況でなまえのそばを離れる訳にもいかず、連れて出るにしても長い時間寒さに晒すことになる。容態を悪化させて取り返しのつかないことになるよりは、ここで療養に努めるほうが賢明だと判断したのであった。
 それに、運よく見つけた医者が信用できる相手とも限らないのだ。里でさえそうだったのに、得体の知れない者になまえを預けるなど、マダラは恐ろしくて到底できそうになかった。
 これ以上、なまえを危険な目に遭わせる訳にはいかない。危うく本当に命を落とすところだったのだ。あの時、僅かな時間だからとそばを離れさえしなければ。この数日間、マダラはそれを何度も何度も悔やんでいた。
 あの日集落で襲われたのは偶然ではない。恐らく、庭先でなまえが集落に行きたいと言ったのを何者かが聞いていたのだろう。その場所を知り、そしてなまえの抵抗した形跡がなかったことからも、一族の人間の仕業であるのは間違いない。
 マダラは鍋の湯を椀に移し、なまえの枕元へ移動した。それは薬草を煎じた湯で、傷を癒やす助けになればと毎日飲ませているものであった。
 しかし、なまえが受けた傷は腹部のそれだけではない。彼女は言葉にこそしないが、誰よりも一族を愛し、守ろうとしていた。皆それに気付かず、知ろうともせず、庇うどころかこのような仕打ちをした。
 そうでなくてもなまえは同じうちはの生まれだ。同族に刃を向けるなど、彼らは一族の誇りさえも失ってしまったのだろうか。逃げることすらできなかったなまえがその時どんな思いでいたのか、想像しただけで胸が痛んだ。
 もっと早くに里を出る決断をしていればこんなことにもならなかったのかもしれない。マダラは強い後悔を抱きながらなまえの頭の後ろに手を差し込んだ。
 首を傾け、口元に椀を運ぶ。そろそろ栄養を摂らせなければ衰弱していく一方だ。早く目を覚ますよう願いながら少しずつ湯を流し込んでいると、突如、なまえがむせ込んだ。
 零れた湯が布団を濡らす。マダラはなまえの体を起こして背中を丸めさせた。なまえは自らの手で口元を覆い、咳を繰り返している。
 意識が戻ったのだ。マダラは逸る心を抑え、なまえが落ち着くのを待った。やがて咳が止まったなまえは口元を拭い、顔を上げて辺りを見回した。そして、ようやくその存在に気が付くのだ。

「……マダラさん……」

 たった一度、その声で名を呼ばれただけで、マダラの胸にせき止めていた思いが溢れ出し、求めるままになまえの体を抱き寄せた。
 触れた肌から伝わる熱が、生きていることを実感させる。安堵のあまりにかけるべき言葉が喉の奥につかえて出てこない。戸惑いつつも身を預けるなまえをマダラはただ静かに抱き締め続けた。


 状況がわからないまま腕の中に収まっていたなまえは、次第に痛み始めた腹部によってそれまでのことを思い出した。どれほど眠っていたのか、ここはどこなのかと尋ねるなまえに、マダラはゆっくりと説明をしていった。
 その傍らで食事の用意をし、なまえに食べさせた。時間をかけて全て平らげた彼女に改めて薬草を煎じた湯を渡すと、「おいしくない」という顔をしながらそれもしっかり飲み干していた。
 マダラが片付けをしている間、なまえはどうしても気になって服を捲った。しかしそこには丁寧に布が巻かれていて傷跡を確かめることができない。外してもいいかと聞くと、マダラが片付けの手を止めてその布を解いた。
 露わになった傷跡を見て、なまえは何とも言えないような表情を浮かべた。そして撫でるように手の平を添え、具合を確かめる。
 見事に、とは言い難いが表面はしっかりと塞がっている。問題なのは中のほうだ。その赤黒さは内側で出血している証。座っているだけでずくずくと痛みを感じることからも、治療は一時しのぎ程度にしかできなかったらしい。
 何事も好き嫌いせず学んでおけばよかった。なまえの口をついたのは、未熟な己を嘆く言葉。ここまでされていながら恨み言の一つも漏らさぬ彼女に、マダラの胸にあった疑念が確信へと変わっていく。
 マダラは再度傷跡を圧迫し、なまえの服を整えた。そして、今聞くべきものかと悩んだが、やはり確かめずにはいられなかった。
 あの日何があったのか。そう尋ねるとなまえは視線を落とし、小さく布団を握り締めた。次に口を開くまでかなりの時間を要したが、マダラは急かさずに待った。
 これほど話したがらないということは、つまりそういうことなのだろう。そう予測をしていたものの、実際に彼女の口から語られたのはそれを遥かに超えたものだった。

「……マダラさんが水を汲みに行った後、うちはの男の人が来たんです。……それで……」

 なまえは顔を俯かせたままマダラに全てを明かした。その男に、何故マダラと一緒になったのか、弱いふりをして操っているのではないかと問われたこと。自分達の平和な暮らしを滅茶苦茶にしないでほしいと言われ、戸惑っている間に刺されたこと。時折、疼く腹を擦りながらそれらを話した。
 自分たちの平和。つまり、なまえを排除するのはその男一人ではなく一族の総意だったと見ていいだろう。里を出ていくことは知っていたはずなのに、なまえがいるせいで躊躇しているとでも思ったのか、それとも、それでは許せないほどに恨みを募らせたのか。
 マダラは怒りを覚えずにはいられなかった。なまえの思いを踏みにじった彼らに。そして、いつも肝心な時になまえを守ることができない自分自身に。

「……でも、皆にそう思わせてしまったのは私に至らない部分があったからです。私がもっとしっかりしていれば、マダラさんや皆に迷惑をかけることもなかったのに……」
「……なまえ」

 それは違う、とマダラは言った。しかしなまえは視線を下げたまま、話をやめようとしなかった。

「守りたいだなんて気持ちばかりで……。何もできないどころか、私が一番皆を悩ませてしまったんですね……」

 なまえの目から涙が溢れ、頬を伝った。その光景を前に、マダラはそれ以上の言葉を失ってしまう。
 これまで数多くの困難が彼女に降りかかってきた。しかし、どれほど辛い目に遭っても、苦しい思いをしても、涙を見せることは一度たりともなかった。そんななまえが。
 マダラはなまえの手を掴み、その体を優しく引き寄せた。なまえは腹が痛むのも忘れ、悲しみのままにすがりつく。
 彼女の信念は間違いなくそこにあった。己が傷付くことも厭わずひたむきに励んでいたのは、里を、一族を心から大事に思い、守ろうとしてきたからだ。
 それは愛と呼ぶべきものなのだろう。たった一人、何かを得ることも望まずその火を胸に灯し続けた。だからこそ、マダラはその存在を守りたいと思えたのだ。
 一族のことも、里のことも、もう諦めたほうがいい。たとえ彼の口からそう告げられたとしても、なまえは愛することを止めないのだろう。
 なまえはそれでいい。彼女が変わる必要はない。間違っているのは、自分達ではなく彼らのほうなのだから。
 なまえを抱く指先が微かに震える。マダラはその感情を押し込めるように、拳を強く握り締めた。



 木ノ葉隠れの里ではマダラとなまえが失踪したという話が瞬く間に広がっていた。その真相について様々な憶測が交わされ、恐れを抱く者や安堵を零す者など反応もそれぞれで異なった。
 その話を耳にした時、扉間はすぐに兄の元へ向かった。二人と親しかった彼ならば何か知っているかもしれない。その予感は的中し、彼らのことを尋ねられた柱間は途端に表情を曇らせた。
 まさか全て知っていたのか。実の弟に鋭く睨まれると、柱間は観念したように口を開いた。

「……なまえを連れて里を出る。そう聞いていただけだ」

 それ以外のことは何も知らない。そう言ったきり口を噤んだ柱間に、扉間も口を閉ざす。
 嘘ではないことはわかる。だが、一体いつからその話を知っていたのか、何故少しでも相談してくれなかったのか。そして、何も気付かずにいた自分自身に腹立たしさを覚え、歯を強く噛み締める。
 柱間だけではない。なまえも悩んでいたはずだ。濃い隈を浮かべて来たあの日。扉間は、知らぬふりをすることが最善だと思い、何も聞こうとしなかった。
 もしもあの時、一言でも気にかけてやっていたら。どれほど悔やもうとも、過ぎてしまった時を戻すことはできないのである。
 いつまでも嘆いている訳にもいかず、扉間は頭を切り替えた。そしてこの件に関するひとまずの対応を柱間に提言する。
 二人の足取りは追わないこと。それから、なまえが死んだという噂について調査をすること。
 根も葉もない話だと誰もが思うだろう。だが、それを言い出したのはどうやらうちは一族の者らしく、扉間は妙な引っ掛かりを覚えたのだ。
 ただの空言であればそれでいい。恐ろしいのは、万が一にもそれが真実だった時。なまえが死んだなどと考えたくもないが、里を守る立場にある扉間達は、あらゆる可能性に備えをしておかなければならないのである。
 柱間の了承を得ると、扉間は即座に踵を返して調査に取りかかった。


 失踪した二人の家の前に女が佇んでいた。女は艶めく黒髪を靡かせながら、主をなくしてしまった家をぼんやりと見上げている。
 そんな彼女のそばに、別の女が歩いてきた。こちらは火を思わせる赤い髪をすっきりと左右に纏めていて、黒髪の女の隣で立ち止まると、同じようにして家のほうに体を向けた。

「……信じられないわ。なまえさんがいなくなってしまったなんて……」
「……ミト様……」

 女はミトの横顔を見つめた。里長、火影である柱間の妻となった女、うずまきミト。今や木ノ葉の里で彼女を知らぬ者はいないだろう。
 ミトとなまえに関わりがあったことを知り、女はしばし間を置いた後に、家を見上げていた心の内を零し始めた。

「私……なまえ様に酷いことをしてしまったんです。なまえ様は私をお慕いしてくださっていたのに……」

 一方から聞いた話を鵜呑みにして冷ややかな態度を取ってしまった。その時のなまえの顔が頭から離れず、彼女を傷付けたことをずっと後悔しているのだと。
 もしもそれが原因で里を出る決心をさせたのだとしたら。そう言って涙を浮かべる女に、ミトは首を横に振ってみせる。

「きっと、何か他に理由があったのよ。あなたのせいじゃないわ」

 その言葉に女は長い睫毛を伏せた。もう一度会えたらあの時のことを謝りたい。ここにはいない彼女に語りかけるように言葉を残し、ミトに頭を下げてその場から去っていった。
 一人になったミトは再び目の前の家を見上げた。そして、一度深く息を吐いた後、門に手を触れゆっくりと押し開いた。どうしても確かめておきたいことがあったのだ。
 玄関には入らず、外を回って庭へ向かう。目を凝らして探さずとも、それはすぐに見つかった。
 白い花。マダラが植えてくれたのだと、いつの日かなまえが嬉しそうに話していたものだ。
 純白の花弁は、汚れを知らぬ彼女の心を表しているようだった。花の前で膝を折ると、視界がその色で埋め尽くされる。
 今が最もよく咲いている頃なのだろう。本当ならなまえに招かれてここを訪れるはずだったのに、とミトは満開の花々に手を伸ばす。
 その時、ふと、視界の端で白が欠けていることに気が付いた。そちらに顔を向けてみると、そこだけ数本、茎の真ん中から綺麗に切り取られている。
 家の中に飾ったのだろうか。いや、それにしては切り取られた数が多いように思える。人に贈ったか、あるいは先立った者へ手向けたか。
 ミトは辺りを見回した。物干し竿に掛けられたままの服。雨戸さえ閉じられていない家。少なくとも、出かけた時点ではすぐに戻ってくるつもりでいたことが窺える。

「……なまえさん……」

 なまえの身に何かが起きたのではないか。どこかで耳にした話が途端に現実味を帯びてきて、思わずその名を呼びかけた。
 そんなこと、信じたくはない。ミトはなまえに思いを寄せるように足元の白い花を両手で包み込む。
 そして、はたと動きを止めた。では、彼は。こんなにもなまえを大事にしていた彼は今、どこに。
 胸騒ぎがする。かつて感じたことのない恐れが腹の底から湧き起こる。周囲の静けさがそれを一層掻き立てるようで、ミトは逃げるようにして家を離れていった。