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 その日になまえが初めて目を覚ます時、マダラはいつもそばにいた。意識がはっきりとしているか確認し、体の具合を尋ねてからようやく自身のすべきことに取りかかる。
 なまえは横になったまま、時折首だけを向けてその様子を眺めた。里にいた時は彼女のほうが先に起きてマダラの目覚めを待っていたのだ。その立場が変わってしまうとは思いもしなかっただろう。
 確かにマダラが起きる時間は早くなっている。だが、それ以上になまえの眠る時間が長くなっているのだ。言うまでもなく腹の傷が原因である。
 ある時なまえは医療忍術で更なる治療を試みた。しかし体内にあるはずのチャクラを操ることができず、どれほど念じても流れてくる感覚さえしない。マダラは、刺された時にチャクラの経路を損傷したせいだと言った。
 忍術自体が使えなくなったことになまえは肩を落とした。忍としては致命的だ。傷が治れば経路も回復するはずだとマダラに言われ、大人しく布団を被った。
 目覚めたばかりで眠気もなく、囲炉裏の熱が上っていく天井をただ見上げる。簡素な造りで所々に隙間があり、幼い頃、集落で家族と住んでいた家を思い出させた。
 目を閉じると懐かしい光景が瞼の裏に浮かび、なまえは深い溜め息を吐いた。今、里はどうなっているだろう。自分がいた時と変わらぬ日常を送っているのだろうか。遠く離れてしまった地に思いを馳せていると、布団に僅かな重みを感じて目を開けた。

「傷が痛むか?」

 マダラが布団にそっと手を乗せていた。なまえは、心の底から心配しているようなその瞳に微笑みを浮かべ、首を横に振って見せる。


「いえ……ただ、里に色々と残してきてしまったなと思って」

 なまえは再び天井に目を移し、ゆっくりと睫毛を伏せた。里を出る前に家の掃除をしておきたかったのに、できなかった。やっと咲いた花もそのままで、着替えの一つさえも持って来られなかった。
 そういえば、洗濯物も外に干したままだ。扉間に頼まれた仕事もまだ途中で、ミトと交わした約束も果たせていない。一つ思い出すと次々浮かんできて、胸の奥をぎゅっと締め付ける。マダラと共に行く決意をしたとはいえ、思いも寄らぬ形でその時が訪れたのだ。心残りを覚えるのも無理はない。
 いや、たとえ準備が万端だったとしても彼女は同じように里を思っただろう。マダラは布団に乗せた手をそっと滑らせ、「そうだな」と静かな声で呟いた。


 それから数日が経った頃からなまえは体を起こして過ごすようになった。傷跡は未だに癒える様子はなく痛ましい色を滲ませているが、ずっと横になっているほうが辛いとなまえが零したので、本人がそう言うならばとマダラは許したのである。
 すると次は「何か手伝わせてほしい」と言い始めたので食材の下処理などゆっくりとできることを任せた。なまえは一つ終える度に手を休めて少しずつ処理していった。
 薪や食料を集めるためには外へ出なくてはならない。マダラは誰一人としてこの家に近付かせぬよう術や仕掛けを幾重にも施し、なまえには決して戸を開けないようにと毎度必ず伝えてから家を出た。
 豊かとは言えない生活だが、里ができるまではずっとそうやって生きてきたのだ。知識不足に悩まされることはなく、必要なものを手早く確保して、その後にいつも一つだけ寄り道をした。
 そこはいつの日かなまえと二人で見つけた小さな神社。苔むす鳥居の向こうにひっそりと佇む社が静かに彼を迎える。
 なまえの傷が早く治るように。手を合わせたマダラはそれだけを祈り、家に戻った。

 ある日、外を歩けないなまえのためにマダラが花を数本摘んできて部屋に飾った。喜ぶなまえにこの近くに花が咲いている場所があったことを話すと、彼女は「行ってみたい」と小さな声で零した。
 マダラは言葉に悩んだ。自力で立ち上がることもできないような状態で連れていける訳がない。どう言って諦めさせるべきか考えていると、それを察したなまえが先に口を開いた。

「やっぱり、駄目ですよね……。すみません、困らせるようなことを言ってしまって」

 彼女とてわかっているのだ。傷が治らないことにはどうしようもないのだと。こうして座っているだけでもかなりの痛みがある。本当は横になってじっとしているのが最善であることは、誰よりも彼女自身がわかっている。
 それでもなまえは小さな願望を口にした。花など無理をしてまで見に行くものではない。だが、その行為は今の彼女にとって大きな意味のあるものだった。
 マダラはそれを薄らと感じ取ったのだろう。撤回して俯いてしまったなまえに手を伸ばしながら言葉を返す。

「明日、外が晴れたら連れていってやる」

 だから、と体を休めておくように言ってなまえを布団に横たえさせた。
 なまえは驚きに目を丸くしながら布団を掛けるマダラを見つめる。そして、礼を言いながら笑みを浮かべ、眠るまでの間、明日が晴れるように心の内で何度も何度も念じ続けるのであった。


 祈りが通じたのか、翌日の空は見事に晴れ渡っていた。冬ももうじき終わろうとしているらしく、降り注ぐ暖かい陽光が春の気配を肌に感じさせる。
 これなら体に障ることもないだろう。マダラは約束した通り、最も気温が高くなる昼過ぎになまえを連れて花が咲く場所へ向かった。
 厚着させられたなまえは移動中、マダラの背中越しに見える景色を楽しんでいた。初めは横向きに抱えようとしたが、「おぶってもらったほうが痛まないかもしれない」というなまえの主張により変更されたのだった。
 傷を理由に我が儘を言っているようにも思えたが、マダラはその通りにした。いつも遠慮気味だったなまえがあれがいい、これがしたいと口にしているのだ。叶えてやりたいと思うのも当然のことだろう。

「着いたぞ」

 そう声をかけると、なまえは身を乗り出す勢いで肩から覗き込んだ。そして、そこに広がる景色を瞳に映し、感嘆の声を漏らす。
 マダラは、近くで見たいと言うなまえを花のそばに下ろした。なまえは汚れるのも構わず座り込んで辺りを見回す。
 広く渡っている訳ではない。綺麗に整えられている訳でもない。色鮮やかな花々が思い思いの場所で自由に咲き乱れている。
 花は、背が高いのもあれば低いのもある。花弁の数が多いのもあれば少ないのもある。同じに見える色だって、目を凝らすと濃淡が異なっているのがわかる。
 花にも個性があるのだ。そのことに初めて気が付いたなまえは、近くに生えている花にそっと手を伸ばした。
 皆違っているのに、互いに損ね合うことはない。ふと、その色に人の生き方を重ねようとした自分に気付き、なまえは内心で呆れ笑った。つくづく、里に未練が残っているらしい。

「いい場所ですね」

 この体が動いたならば、毎日でも通いたいほどに。なまえは傍らに立つマダラを見上げて微笑んだ。
 その時、脇のほうから枯れ葉を踏む音がして二人は同時に首を向けた。マダラが赤い眼を走らせた時、草の中から小さな影が飛び出してくる。

「犬……?」

 それを見てなまえが呟いた。確かにそれは犬だった。生まれて数か月というくらいの、小さな犬。
 マダラはこちらを窺いながら近寄ってきた子犬を捕まえ、異変がないか確認する。そして、興味津々に見ているなまえのほうへと放した。
 子犬は尾を振りながらなまえに近寄っていく。なまえはどうすればよいかわからず両手を胸元へ避難させた。膝に乗ろうとする子犬に戸惑いマダラに助けを求めるが、彼はその場で静かに見守っている。
 なまえは里で出会った犬の太郎を思い出しながら恐る恐る指先を伸ばした。子犬は匂いを確かめ、数回舌で舐めた後、足元に生えた草で遊び始めた。
 その無邪気な姿はなまえに腹の痛みを忘れさせた。里を出てから初めて見る彼女の穏やかな表情に、マダラの胸にも幾分かの安らぎが生じる。
 後を追うように母犬も姿を現した。野良犬にしてはあまり警戒心が強くないようで、二人の近くに座り子犬が遊ぶ様子を見守っていた。
 それから少しの間、時折寄ってくる子犬と触れ合ったり風景を楽しんだりした。母犬が子犬を連れて森の向こうへ帰っていくと、なまえは寂しげにその姿を見送った。
 自分達も帰ることにしてマダラはなまえを背中に乗せた。疲れてしまったのか、なまえはすっかり身を預けてしまっている。

「……あの場所は、あの子の遊び場だったんですね」

 歩く度に小さく揺れる体が眠気を誘う。独り言のように零されたなまえの声に、マダラは前を向いたまま相槌を返す。

「私が取ってしまったら、あの子がかわいそうですね……」
「……なまえ」

 また別の場所を探しておいてやる。そう返した彼の耳に届くのは、緩やかに繰り返される呼吸の音のみだった。


 布団に寝かせた後もなまえは眠り続けた。少しとはいえ活発に動いたのが傷に響いたらしく、夜になると熱を出して痛みにうなされていた。
 マダラはなまえの汗を拭い、水を飲ませ、そばで看病を続けた。そうしていると、どうしてもあの時と、傷を負った弟の看病をしていた時と重ねてしまった。
 あの時と同じだ。傷を癒やすことも、痛みを代わってやることもできない自分は、こうしてただ見守ることしかできない。
 体の向きを変えようとしたなまえの手が布団の下から覗き、マダラはそれを反射的に握った。すると、薄く目を開いたなまえが苦しみの中で微かに笑みを浮かべた。
 マダラにしてみれば些細な行為だったとしても、なまえはそれらによく気が付いて多くの反応を返してくれた。それがどれほど特別なことだったのか、彼は今になって実感する。
 当たり前のことなど一つもない。なまえが笑いかけてくれることも、こうして手を握っていられることも。この命の火が消えてしまえば、全て呆気なく失われるのだ。
 それでも、今日、なまえを外に連れ出したことに後悔はない。言葉の裏で彼女が本当に望んだこと。それは、残された時間を少しでも長くマダラと過ごしたいというものだった。