65


 麗らかな日和。のどかな陽だまりが春を感じさせる。マダラは昼の少しの間だけ障子を開け、なまえに外の景色を見せていた。
 なまえは布団に横になったまま首だけを外に向けた。反射する光の眩しさに目を瞑り、ゆっくりと瞼を上げる。
 冬の寒さを越え、大地には新たな命が芽吹いている。木の枝から萌え出す新芽を見つけ、なまえは里の花桃の木を思い浮かべた。
 マダラと共に迎える二回目の春。たとえこのような形であっても、それはなまえにとって喜ばしいことだった。
 時折視界の端に見える彼へ視線を移しながら、景色の一つ一つをゆっくりと眺める。傷の具合は悪くなる一方だ。外に連れ出してもらい、その夜に熱を出した後から体を起こしていられなくなった。
 すべきこともなく、考えるべきこともない。腹が痛む以外は平穏な時である。そうやってぼんやりしていると、起きたばかりだと言うのに、いつの間にかまた眠りに落ちていた。
 寝て過ごす日々が増えてくると、だんだんと時間の感覚が曖昧になってくる。目を覚ましたのが当日なのか次の日なのか、部屋が薄暗いと夜なのか明け方なのかさえわからない。
 だが、目を開けた時には必ずマダラがそばにいた。何もわからなくてもそれだけでなまえは安心できた。その優しさに触れるたび思っていたのだ。全てを失ったとしても、彼さえいてくれたらいいと。
 懐かしいような、心地よい感覚に胸を包まれる。髪を撫で、頬に触れる冷たい指先。それが両親や兄ではなく愛しい男のものであることを、微睡みの中でなまえは確かに感じていた。
 この幸せな気分のまま眠りについたらどんな夢を見られるだろう。そんなことを考えてみても、肌に触れる感触に意識は覚醒していく。

「なまえ」

 優しい声で呼ばれる。目を覚ますのを待っていたのだろう。瞬きを何度か繰り返して、ようやく視線を交わすことができた。
 閉じられた障子の向こうは明るく、昼間であることがわかる。枕元に座るマダラはそのまま頬を撫でながら、思いがけないことを尋ねた。

「……食べたいものはあるか?」

 食べたいもの。なまえは天井に目を移して考える。
 好き嫌いはなく、好物と言えるものも特になかったなまえ。そんな彼女から具体的な答えが返ってくるとはマダラも思っていない。それでもわざわざ起こしてまで尋ねたのは、何かをしてあげたいという彼の優しさの表れだろう。
 そう思い至ったなまえは、どうしてか過去のとある出来事を思い出し、その問いの答えにふさわしいものを口にすることができたのである。

「……団子……」

 それを聞いたマダラは僅かに目を丸くした。彼女にしてはあまりにも意外なものだったからだ。

「すごく甘い、たれがかかった……」

 その味を思い浮かべるようにしながらなまえが呟く。みたらし団子のことだろう。求めているものはわかったが、何故よりにもよって団子なのかマダラは不思議でならない。
 なまえは、そんなマダラの心境を見透かしたように微笑みを浮かべた。

「……ずっと前、マダラさんが「そこで貰った」って言って、団子を持って帰ったことがありましたよね」

 そう言われてマダラは思い出す。なまえを家に迎えて間もない頃の話だ。そんな昔のことをよく覚えているものだと少しばかり感心を覚える。

「もしかしたら、本当は私のために買ってきてくれたんじゃないかって……。そんなふうに考えたら、もう一度……」

 傷のことなど忘れてしまったかのように楽しげに話すなまえ。相変わらず先の読めない彼女の言動に、マダラは呆れたような笑みを口元に浮かべ、小さな溜め息をつく。
 そんな思い出の欠片で笑ってくれるのなら団子くらい何度だって買って帰ってやろう。マダラはにこにこと見上げてくるなまえの布団を整え、帰るまで寝ているように言って家を出ていった。


 かりかりと何かが掻くような音がしてなまえは目を覚ました。首を動かして部屋を見回すがマダラの姿はない。
 何だろう、と音のする場所を探ってみると、どうやら部屋と外を隔てる障子の低い位置から聞こえるようだった。
 障子の向こうに人影は見えない。風で飛んできた何かが引っかかっているのだろうか。それにしては、随分と音に意思が込められているように感じる。
 体は弱っていても頭は冷静に分析しようとしていた。そんな時、その向こう側から正体を知らせる声がなまえの鼓膜を震わせる。
 動物の声。犬が鼻を鳴らす声だとなまえは気が付く。掻く音は、爪で引っ搔いている音だったのだ。
 障子のそばにはマダラが摘んできた花が生けてある。少し前に花の広場で出会った犬の親子が頭に浮かんだ。
 花の匂いがして開けようとしているのだろうか。迎えてやりたいが、戸を開けるなというマダラの言葉がなまえを躊躇させる。
 悩んでいる間に犬の鳴く声が次第に大きくなっていく。もしかすると何かに困って助けを求めているのかもしれない。
 少し覗くくらいなら。事情を話せば彼もわかってくれるはずだ。なまえは己にそう言い聞かせ、障子を開けることを選んだ。
 体の向きを変え、腕の力で上半身を起こす。腹の傷が激しく痛んだ。歯を食いしばり、膝を擦って障子の前まで移動する。
 たったそれだけで息切れが起こった。なまえは肩を上下に揺らしながら、犬の声にせき立てられるように障子に手を掛けて開こうとする。

「固い……っ」

 何かが引っかかっているように固かった。下のほうにできた僅かな隙間から外が見える。そこにいるのは例の犬で間違いないようだ。
 なまえは隙間に指を差し込み体重をかけて横に引いた。障子は外側から貼られた札によって閉ざされていたのだ。何者の侵入も許さぬように。
 ただし内側からはあまり効力がなかったらしい。札が破れ、戸が勢いよく開かれる。踏ん張ることができないなまえはそのまま横に倒れ込んだ。外からは、あの母犬が家の中を覗き込んでいる。
 額に汗を滲ませたなまえは体を起こし、乱れた呼吸を落ち着かせながら犬に手を伸ばす。犬はその手を受け入れ、首の辺りを大人しく撫でさせた。
 しかしそれも束の間、犬はなまえのそばを少し離れて忙しなく周囲を見回した。そしてなまえの元へ歩いてくると、何かを伝えたいのか顔を見上げて小さく鼻を鳴らした。
 なまえはすぐに気が付いた。あの日一緒にいたはずの子犬がどこにも見当たらないのだ。きっとどこかではぐれてしまって、母犬はそれを探してここまでやってきたのだろう。そう考えたなまえは、自分も辺りを探そうとして顔を上げた。
 すると、その拍子に耳鳴りがして目に映る景色が回り始めた。急激に動いたために貧血の症状を起こしたのである。
 焦点が定まらず方向の感覚が狂う。支えになるものがなくなまえの体は前に倒れ外に転げ落ちた。咄嗟に伸ばした腕も力が入らず地面に頬を擦り付ける。
 犬が下敷きにならなくてよかった。そんなことを思いながら、霞み始めた意識の中、部屋へ戻るために体を動かそうとする。
 言いつけを破った挙句こんなところで眠ったら流石に怒られるだろう。なまえは己を必死に奮い立たせるが、体を上に向けるだけで力尽きてしまった。
 青空を映す瞳を今にも閉ざそうとする彼女の顔に影がかかる。それは、突然のことに戸惑い様子を窺う犬、ではなかった。
 闇の色を纏った何か。目のようなものをなまえに向けてじっと見下ろす。そして、人間の腕の形をした影が音もなく伸びてきて、彼女の細い首を覆った。
 なまえは静かに瞼を閉じる。自分はもう長くない。目前に迫った死がその幻影を見せているのだと、薄れゆく意識の中でぼんやりと考える。
 犬が唸り、吠える。そのけたたましい咆哮に混じり、死へ誘う声が聞こえたような気がした。


 施した結界術の一つが断たれたことを感知したマダラは大急ぎで家へと引き返した。犬の吠える声が聞こえて裏手に回ると、開け放たれた障子の下になまえが転げ出ていた。
 荷物を投げ捨て駆け寄った。まだ息はある。マダラはなまえを抱きかかえて家に上がった。
 開けるなとあれほど言ったのに、となまえを布団に戻しながらマダラは思う。それから放り捨てた荷物を拾いに行き、犬とその子供の前に屈んだ。

「なまえは大丈夫だ。……もう行け」

 背中を優しく叩く。犬は家のほうを一瞥した後、子を連れて歩いていった。子犬のほうは、母親の吠える声を聞いて戻ってきていたのだ。
 マダラは外から障子を閉じ、真ん中から裂けた札を見つめた。そして、剥がすことも貼り直すこともせずに家の中へ戻った。
 一見、大人しく従順そうに見えるなまえ。しかし、駄目だと言われてもそこに理由があれば身の危険も顧みずに飛び込んでいく。そんな彼女をあんな札の一枚で閉じ込めようとしたことが間違いだったのだ。
 彼女の思考や行動はマダラにさえ思い通りにできない。その何にも囚われないところがなまえの良いところでありマダラもそれを気に入っていた。
 水で濡らした布を絞り、汚れたなまえの頬に当てる。途中で引き返したため団子は持って帰れなかった。約束を守れなかったのは自分も同じかと深く息を吐く。
 その時、下げた視線の先に違和感を覚えた。
 なまえの白い喉。そこが少し赤みを帯びているように見えたのだ。
 人が入り込んだ形跡はなかった。犬が噛んだということはないだろうし、何者かに首を掴まれたなどと、あるはずがない。
 薄暗い明かりの加減でそう見えるだけかもしれない。マダラはそう思い、揺らめく囲炉裏の火を静かに見つめた。


 柱間のようにお喋りな人間であればこんな時でも話をして気を紛らすこともできたかもしれない。あいにくマダラは陽気に喋り続けられるような性分ではないため、他のことでなまえの気分に変化を与えるしかなかった。雨の日以外は出来る限り戸を開け放ち、なまえが陰鬱な気分にならないようにした。
 しばらく天気のいい日が続いて外の空気も随分と暖かくなった。囲炉裏で火を焚く必要もなくなり、マダラは洗った服を外に吊るしていた。
 柔らかな風が通り抜けて優しげに草木を揺らしていく。こうした大地の息吹をマダラが感じられるようになったのはいつからだろうか。土を踏み締める感触や自然の鮮やかさを思い出させてくれたのはなまえだった。
 もっと色々と彼女のためにしてやりたかったと今更ながらにマダラは思う。今年でようやく成人すると言っていたなまえ。これからさらに多くのことを経験して人生が広がっていくはずだった。
 こうなってしまった今、できることはほとんど残されていない。あと何度名前を呼べるか、何日を共に過ごせるのか。もうそれほど長くないことだけはわかっている。
 服を干し終えた時、咳き込むような声が家から聞こえた。マダラはすぐさま戻り、囲炉裏の中に顔を伏せるなまえを見つけ愕然としながら助け起こした。
 灰を吸い込んでしまった彼女に水を飲ませる。呼吸が落ち着いた頃、何をしていたのか尋ねるとなまえは弱々しい声でこう答えた。

「……火を入れようと思ったんです。何だか、寒くて……」

 マダラはなまえを布団に寝かせ、障子を閉めて薪に火を付けた。すぐに気付いてやれなかったことを申し訳なく思いながら、礼を零すなまえに首元までしっかりと布団を掛ける。
 熱いものが苦手で寒さには強かったなまえ。風呂はいつもすぐに上がり、気温が高い夜は布団を蹴飛ばしている時もあった。冬でもあまり厚着せず、寒さに凍える姿など一度も見せたことはない。
 そんな彼女が寒いと言った。その時はすでに目の前まで迫っていたのだ。


 月の満ちた夜。マダラはあの後から一歩も動かずになまえのそばでぼんやりとしていた。
 すべきことはわかっている。頭に駆け巡る無数の思い出に、もう少しだけ、と浸るうちに時間だけが過ぎていった。
 すでに決めたことだ。これが最善の方法なのだ。己にそう言い聞かせても、体はなかなか動こうとしない。
 いつの間にか握っていたなまえの手。なまえは手を繋ぐのが好きだった。手くらいいつでも握ってやるのにと思っていた。だが、今はこの温もりを離してしまうのがどうしようもないほどに惜しい。繋いだ手を離した時、少しだけ寂しそうな顔をしていたなまえの気持ちが今ならわかる。
 迷いを振り払う術は知っている。感情を押し込めて心を殺せばいいのだ。今まで幾度となくやってきた。たったそうするだけのことを、心は酷く拒み続けている。
 握った手に力が込められる。なまえの表情が苦痛に歪む。
 いつもなまえばかりが辛い目に遭ってきた。それなのに、守ることも、痛みを代わってやることもできなかった不甲斐ない自分。
 そんな自分と少しでも長く一緒にいようとして、痛みに耐えながら今日まで懸命に生きたなまえ。
 もう十分に頑張った。これ以上長引かせても苦しみが増すだけだ。意識があるうちに別れを告げて痛みから解放する。それが最善の選択だろう。
 その小さな手の温もりがマダラに決心させた。

「……なまえ……」

 声が震えそうになる。

「なまえ」

 なまえがゆっくりと目を開けた。僅かに首を動かしてマダラの顔を見上げる。
 外に転び落ちた時の頬の擦り傷は未だ治っておらず、マダラはそれを避けるようにしてそっと指先を滑らせた。

「……お前を……眠らせる」

 なまえはマダラを見つめた後、一度視線を外した。そして、全てを悟ったかのように薄く微笑みを浮かべ、頬に添えられた手に己の手を重ねた。

「……目を覚ます時、そばにいてくれますか?」

 嘆きや悲しみの言葉のほうが多くあるはずなのに、なまえはただそれだけを問う。
 彼女といえどもまだ死にたくはないだろう。自分がいなくなればマダラが本当に一人になってしまう。それを考えると胸が張り裂けるような思いになるはずだ。
 しかし、彼の最後の優しさを前に泣き喚くことなどできない。その決断をする彼のほうがずっと辛いのだということは、微かに震える声が、指先が伝えていた。
 ああ、といういつもの短い返事の後。マダラはなまえを抱き起こし、額と額を合わせて目を閉じた。そして、しばらくして顔を離し、もう一度その名を呼ぶ。

「……なまえ」

 赤い眼が満月のように開かれる。

「愛している」

 チャクラに頭を支配されていく感覚。優しい夢の中で終わらせてくれるのだとなまえは理解する。

「わたし、も……」

 意識が沈む寸前、声を絞り出してそう返した。
 ちゃんと届いただろうか。なまえが最後に感じたのは、頬に触れる冷たい指先と、温かい滴が伝っていく感覚だった。



 その後、マダラは木ノ葉の里を襲い、柱間との決着に敗れた。遺体は扉間が回収し里の山の奥深くへと保管した。
 閉ざした棺の前で、扉間は一人深く重い息を吐く。
 何故このような結末になったのか。もっと他に道があったのではないか。
 扉間とマダラの間には決して埋まらぬ深い溝があった。そしてマダラの危うさを恐れていたものの、彼が里の一員として過ごしている限りはその存在を排除しようとは考えていなかった。
 なまえが嫁に迎えられることに知った時、色々と心配はあったものの彼の心の安定が図れるのではないかと少しばかり期待した。だが、結局はこうなってしまった。彼女でさえ、マダラが秘める闇を払うことはできなかった。
 いや、彼女がいなければもっと悲惨な未来を迎えていたのかもしれない。なまえだったからこそ、この結末になったと考えるべきだろう。

「……愚かな男だ」

 なまえは偽りなくマダラを思っていた。どんな道を選んだとしても彼女なら共に歩んでくれたはずだ。それなのに、よりにも寄って破滅の道に突き進むとは。
 しかし、彼ばかりを責められないのも事実。なまえが零すサインに気付きながらも己が出しゃばることではないと見て見ぬふりをしたこと、後悔していないと言えば嘘になる。
 彼女はどこにいるのだろう。マダラは命を捨てる覚悟で戦いを仕掛けてきた。なまえが生きているならば絶対にそのような無茶はしない。なまえが死んだという噂は、出たらめではなかったのだ。
 彼女を探すべきだろうか。いや、この男のことだ。誰にも見つからぬような場所に隠しているだろう。それならばそっとしておくべきかと扉間は判断する。
 この二人について思い巡らすのはここまでにしよう。もう、終わったことなのだ。
 外に出て、入り口の穴を土遁で塞ぐ。その上に目印となる石を一つ置いた。
 一族と同じ場所に眠らせてやれないのは申し訳なく思う。けれども、墓を掘り返してその遺体を奪われることはどうしても避けたいのだ。
 片膝をついたまま石を見下ろす。風もなく、鳥の囀りも聞こえず、まるで時間が止まっているようだった。
 せめて、最後の時くらいは。扉間は少しの間目を伏せて、安らかに眠るようにと静かに祈りを捧げた。