66


「なまえ」

 それは幾度となく呼ばれてきた名。
 愛した男の声で紡がれる己の名。
 振り返ると彼はそこにいる。
 温かい日差し。
 見慣れた里の風景。
 この眩しい世界には、失ったはずの全てがあった。
 なまえの兄や両親がいた。マダラの弟達もいた。そして、柱間と扉間の弟達も。
 何一つとして欠けたもののない理想の世界。うちは一族も里の皆に受け入れられ、あの頃のように蔑むような目つきを向けられることもなかった。
 しかし、ここは。ここはあの世ではない。
 なまえは自身の最後の記憶を思い出す。死が目前に迫った夜、マダラの写輪眼によって眠りについた。苦しまぬよう幻術にかけている間に死なせてくれるのだと、そう思いながら。
 だが、いつまで経ってもこの夢が終わることはなかった。なまえには自我があり、こうしてものを考えることができる。これが幻術で見せられている世界だということを認識することができる。
 なまえはまだ死んでいないのだ。眠ったまま、何らかの方法で延命させられている。
 なまえにわかるのはそこまでだった。何度解術を試みても無意味に終わり、この幻術の中でも僅かに感じていた腹部の違和感は、いつしか消えてしまった。
 何故生かされているのか。マダラはどうしているのか。誰に聞いてみても不思議そうな顔をされるだけだった。

「何かあったのか?」

 目の前のマダラが心配そうに尋ねる。なまえは首を横に振り、大丈夫だと答えた。

「帰るぞ。皆お前に会いたがってる」

 マダラはなまえの手を引いて歩き出した。優しく握られた己の手を見つめ、なまえはその隣に並んだ。
 二人が暮らす家にはマダラの弟達も住んでいた。彼らはまるでずっと前から一緒にいたかのようになまえに接し、なまえもすぐに皆の名前を覚えて馴染んでいった。
 ここは彼が子供の頃に思い描いた理想の里なのだろう。その夢は今でも捨てられず彼の心の奥底に残り続けていたのだ。
 それとはかけ離れたあの現実の世界で、何もかも失い空っぽになってしまったはずなのに、それでもマダラはなまえを愛した。誰よりも痛みを知る彼は誰よりも愛情に溢れていた。
 ふと懐かしい匂いが漂ってきてなまえは顔を上げる。それが何なのかはすぐにわかった。桃の花の匂いだ。
 しかし周囲を見回してもその花はなかった。気のせいかと首を傾げながら道を歩いていってもしばらくその匂いは続いた。
 もしかして、となまえの頭に一つの考えが浮かぶ。現実の世界で、マダラが花を持ち帰ってくれたのではないだろうか。
 なまえは隣を歩く彼に気付かれないよう目元を拭う。幸福に満ちているはずのこの世界で、どうしようもないほどの切なさが胸にこみ上げてきたのである。


 長い間隔を空けて二度目の花の匂いを感じた時、なまえは現実で一年の時が過ぎたのではないかと推測した。ただ平穏な毎日が繰り返されるこの夢の世界では時間の感覚も曖昧になり、次第にその匂いがするのも何度目なのかわからなくなっていった。
 誰も年を取らず、人が死ぬことも新たな命が生まれることもない。夢の世界だという認識がなければ気が狂いそうなほど代わり映えのしない長い時を過ごすなまえ。
 それでも現実の彼を思い胸を痛めることがあった。姿形は同じなのだ。思い出すなと言うほうが無理な話であった。
 堪えきれなくなった時は誰もいない部屋に隠れて少し泣いた。そうしているとマダラの弟のイズナがやって来るのだ。しかしなまえは決して理由を話さなかった。イズナも執拗に聞くことはせず優しく慰めていた。

「なまえは本当に兄さんのことを思っているんだね」

 そう零したイズナを見上げようとした時、なまえの左目に鋭い痛みが走った。それは一瞬のことだったが、眩暈がするほどの痛みであった。
 顔を歪め目元を押さえるなまえにイズナが手を伸ばす。その指先がなまえの手に触れて視線が交わると、イズナは微笑みを浮かべてこう言った。

「兄さんを頼むよ。なまえ」

 その直後、なまえの視界は闇に覆われた。
 痛む左目を押さえる。真っ暗の中でも体は思い通りに動いた。皮膚に伝わる感触から固いものの上に寝ているようだった。
 なまえは体を起こした。ゆっくりと呼吸を繰り返す。土の湿ったような匂いが鼻を通り抜ける。夢の中にはなかったじめじめとした空気が肺に溜まり、生きている実感が全身を駆け巡った。
 ここはどこなのだろう。顔を横に向けた時、なまえはそこに人がいたことに初めて気が付いた。
 白髪の老人。ひっそりと佇み、こちらをじっと見つめている。その姿になまえが恐怖を覚えなかったのは、よく知る男の風貌と酷似していたからだ。

「……マダラさん……?」

 そう発した自身の声に違和感を覚える。伸ばした腕も短くなっていて、いつもなら触れられる距離なのに届かない。
 体が変わっている。しかし今はそんなことどうだってよかった。ずっと会いたかった男が目の前にいるのだ。しわの入った手に体を抱き寄せられると、その胸に顔をうずめて再会の喜びに浸った。


 全てはマダラの策の内だったのだ。戦いに敗れ遺体を保管された後、写輪眼に仕込んだイザナギによって死を逃れ、持ち帰った柱間の細胞を移植し傷を癒やした。
 そして、なまえも。眠らせておくことで体力の消耗を最小限に抑え、マダラが死を偽装して戻るまでの間を生き永らえさせた。彼女にも細胞を与えて腹の傷を治したが幻術は解かなかった。
 脈は弱いまま回復せず、目覚めて活動ができるほどの体力は戻らなかったからだ。マダラは無限月読のための準備を始める予定だった。しかしそれにはどれほどの時間がかかるかわからない。先の見えない道のりに無理をさせてまで付き合ってもらおうとは思えなかったのだ。
 それを成し遂げるためなら孤独に耐えることも厭わなかった。いや、ただ眠っているだけでなまえはずっとそばにいたのだ。その頬を撫でる度に思いは強くなっていった。彼女のために何としても実現させなければならない、と。

「……どうして私は子供の姿に?」

 なまえは随分と低くなった目線からマダラを見上げた。マダラが老いるほど時が過ぎているのだ。本当ならなまえも同じくらい年を取っているはずなのに、幼い子供の体に戻っていることが不思議でならなかった。
 マダラは首を傾げるなまえの髪を愛おしそうに掬い上げた。よく見ると、彼の右目は瞼で閉ざされている。

「お前が術の実験に失敗して子供の姿になったことがあった。その時にお前の兄の眼を一時的に移植しイザナギという術を仕込ませた」

 写輪眼に仕込んだ術は時間差で発動することができる。イザナギは術を使用した目が失明する代わりに不都合な現実をなかったことにできる禁断の瞳術。
 柱間の細胞に繋がれて命を維持していたなまえ。時が来たために保管しておいたなまえの兄の眼を移し、イザナギを発動させ命を絶つと、その死はなかったことになり術を仕込んだ時の子供の体に戻った、ということだった。
 失明した眼は処分し、左の眼孔には以前のなまえの眼が入っている。右は今の幼い体のもので、もし写輪眼が開かなくても、左の本来の眼が扱えるようになれば問題はない。
 マダラはそう説明したがなまえは理解が追いつかなかった。眉を寄せ難しい顔をするなまえにマダラはふっと微笑みを浮かべる。こんなふうに笑うのも何十年ぶりだろうか。そんなことを思いながら小さななまえの体を抱き上げた。

「お前の兄に感謝せねばな……」

 そう零し、なまえを腕に抱いたまま歩き出す。その足取りに重さを感じるのは衰耗だけが原因ではない。長く太い枝のようなものが彼の背中から伸びているからだ。なまえは肩越しにその枝の先を辿った。そして、ようやくそこに、今まで見たものよりも何倍も大きな木がそびえていることに気が付いた。
 人の体よりも太い根を幾重にも広げ、触れられるのを拒むかのような刺々しい枝を伸ばし、巨大な幹の上には花の蕾のようなものが暗い赤色を帯びて膨らんでいる。
 それこそが培養された柱間の細胞であった。なまえは暗闇に潜む異形な植物におぞましさを感じ、目を背けてあまり見ないようにした。それは、さらにその奥にある外道魔像の存在を薄らと感じ取ったせいかもしれない。

「……その体にも柱間の細胞を与えておく」
「え……」

 椅子に座したマダラは、膝に乗せたなまえの顎を持ち上げ唇を重ねた。言葉と行為が結びつかず混乱を極めるなまえ。小さく狭い口内に舌が割って入り、そこから伝ってきた唾液を反射的に嚥下する。
 しばらくそれが続いた後、マダラがゆっくりと顔を離した。なまえは大きく息を吸い込み、濡れた口元を手で拭う。

「奴の細胞は特別なものだ。今後、水や食事を取らずとも困ることはない……」

 マダラは疲れを滲ませた溜め息を漏らし、「おい」と暗闇の向こうへ声をかける。なまえがそちらを振り向くと、異様な風貌をした二人の男がそこに現れた。

「培養した細胞からできた副産物だ。わからぬことは奴らに聞け。……オレは少し休む」

 最後になまえの髪を撫でた手が力を失ったように下がっていった。その直後には彼はすでに眠りについていた。
 なまえは僅かな焦りを感じてマダラの首元に触れる。浅い呼吸が繰り返されていることに安堵を零し、眠りを妨げないよう静かに膝から降りた。

「やっと長い眠りから目を覚ましたのに、今度はマダラが眠っちゃったね」

 片方の男がなまえに話しかけた。なまえはマダラの足元から二人を見上げる。彼らの違いと言えば、体に枝のようなものが生えているか、顔が渦状
の皮膚に覆われているかという程度で、どちらも真っ白な体を剥き出しにしているためあまり見分けがつかない。

「でも安心しなよ。あの子供が意識を取り戻す頃にマダラも起きるだろうから」
「……あの子供?」
「気付かなかった? そこにもう一人いるってことに」

 白い男が後ろを指で示す。なまえはそちらに視線を向け、短い足でゆっくりと近付いた。
 木で作られたベッドがあった。今のなまえにはとても大きなものに見える。縁に指を掛け背伸びして覗き込むと、確かに人が横たわっていた。
 白い男がなまえを抱え上げてベッドの端に座らせた。その姿をはっきりと視認した時、なまえは思わず顔をしかめた。
 全身に巻き付けられた包帯。ところどころに血が滲み、浅くはない傷を負っているのがわかる。少年と呼べるくらいの年齢だろう。それがどうして痛ましい姿でこんな所にいるのか、目を覚ましたばかりのなまえには見当もつかない。

「この子、腕が……」

 少年には右腕がなかった。なまえの呟きに、白い男がその隣から付け加える。

「腕だけじゃないよ。体の右半分が潰れていて死ぬ寸前だったんだ。マダラが細胞を移植したお陰でここまで再生したけど……」

 未だになまえは柱間の細胞にそれほどの力があることを信じられなかった。しかしどうにもそれが事実らしいのだ。そういうものなのだと無理矢理にでも理解していかなければ、これ以上話についていけそうになかった。

「……この子はどうしてここにいるの?」
「ある日突然向こうの通路に倒れてたんだよ。今は塞いじゃってるけどね。それをマダラが見つけて手当てしたってワケ」
「そうなんだ……」

 ベッドから降りながらなまえは相槌を打つ。不可解なことばかりで驚くのにも疲れてきたのかもしれない。
 だが、次にもう一人の白い男が話したことは彼女にとって到底聞き流せるようなものではなかった。

「写輪眼を持ってるからうちはの子供だろうって言ってたし、君らの知り合いの子なんじゃないの?」

 うちはの子供。その言葉を聞いた時、どうしてかなまえの心臓がどくりと跳ねた。
 傷だらけの少年を振り返る。なまえは少しの間その姿を見つめ、この妙な胸騒ぎが何でもないことを祈りながら、眠るマダラの元へと戻っていった。