彼女は全てを知っていた


「どうりでシズが前より綺麗になったと思った」

 それは、ただの呟きだった。別に沙華を止めようだとか説得しようだとか、そんなことは一切考えていない、不意にチヒロの口から出た独り言……雨に濡れた葉からぽたりと一雫を落としたかのような、そんな一言だったのだ。

「……」
 
 しかし、それはこの場の時を止めるには十分過ぎるほどの力があった。
 あれほどの阿鼻叫喚が一瞬にして静まり返り、皆が皆チヒロの言葉を頭の中で反芻してしまう。
 そして数秒が経った後、柴と薊は内側から何かが飛び散るような感覚に襲われ、思わず力一杯に己の身体を抱きしめた。
 思わぬ方向から急角度で賛辞を受けた静姫も、不意打ちのあまりに少し照れ臭くなったのか両の横髪をくしゃりと柔く掴んでは、顔を隠すように軽く寄せてしまう……真っ赤な顔を覆いながら「きゃ、きゃあ……!」とかなんとか言っている羅幻に『なんでお前が私より照れているんだ』という呆れた視線を向けながら。
 そして、沙華はチヒロの方へと鋭い視線をスゥと送るだけで何も言わない。

「……なんでしょうか」
 
 そんな沙華の視線に対してチヒロは無表情のままだったが、実際にはその心臓は冷や汗をかいていた。何かまずいことでも言ったのだろうか、と完全に蚊帳の外だったはずの自分に皆の意識が集中している状況に少々困惑してしまっている。

「……ン゛ン゛ッ!」

 そんなチヒロに助け舟を出すかのように静姫は咳払いを一つして、ぴょいっとチヒロの前に出る。
 その表情は困ったような、それで嬉しいような……所謂、満更でもないと言いたげなものであった。
 
「……ほんと?綺麗になった?」
「うん、なったよ。髪も肌も艶々で、光沢があるっていうか。髪は切ったよね?」
「そうっ!そうなの、私の髪って前は毛先がバラバラで……沙華さんが揃えてくれたの!」
「前からだけど、肌は更にきめ細かくなったっていうか、見ただけで滑らかになったなっていうのが分かる。ちょっと触ってみてもいい?」
「触って触って!」
「えっ俺もいい?」
「羅幻は下がりな」
「なに便乗しようとしてるんですか」
「ひーん」

 おそらく羅幻に邪な下心は一切ないのだろう、チヒロと違って。まあ、それはそれとして、静姫は無闇矢鱈に自分の肌や髪を触らせようとはしないし、チヒロもそれを許すわけがない。
 それは、まるで当然の如く『自分は静姫に触れていい』というチヒロの認識からきているものだ。
 しかし、それで別にいい。何故なら実際に当然である。静姫は、チヒロのものなのだから。

「……」
「んふ」

 静姫はなんの抵抗もなく、目を閉じてはふすふすと鼻を鳴らし、チヒロの手を受け入れる。
 チヒロの指が静姫の肌を撫でればすり、と。チヒロの指が静姫の髪を通るならさら、と。
 そんな、どこもかしこもシルクのように滑らかな彼女の身体はとても心地よく、愛おしいもので。
 静姫も静姫で艶やかになった肌や髪を誇らしく思っているので、チヒロにそれを実感してもらうのは嬉しいようだ。凄いでしょう、と稚拙な自慢をしたいらしい。
 それを察して、自分と彼女の感情と真意の乖離を実感し、ちくりと胸が痛むことだってチヒロは何度でも経験している。
 だからと言って、この立場を今更誰にだって譲る気にはなれないし、ならない。今回、沙華と話をしてそれを強く感じるようになった。
 何度でも言おう、静姫はチヒロのものなのだ。

「さらさらしていながら、はりがあって。やっぱり、すごく綺麗だ」
「でしょでしょ!前までそういうケアとかやろうと思ってなくて……でも沙華さんが『美を主張していて、それに足る素質も持ち合わせてるのに磨こうとしないのは愚かな怠慢よ』って教えてくれてね」
「綺麗な石もそのままでも魅力的だけど、磨けばその美しさがより強いものになるからね」
「流石は刀匠だ!」
「見習いだけどね」

 先程までの必死の形相とは打って変わり、きゃぴきゃぴと嬉しそうにチヒロに喋りかける静姫……そしてそれを慈しむように微笑むチヒロ。

「……ちっ」
 
 そんな二人をただ黙ってじぃと見ていた沙華は手に持っていた逆刃刀を鞘に納めた。
 どうやら、二人の会話を聞いているうちに怒りが失せてしまったようだ。

「あなた達、次はないわよ。チヒロに感謝することね」
「うす。あんがとチヒロくん」
「了解です。ありがとチヒロくん」
「どういたしまして」
「それにしても、本当に目がいいのね。国重譲りの……ほんとぉーに、良い目ねぇ……?」
「……ハッ!!」

 静姫は沙華がチヒロの紅の瞳を怪しげな目つきで凝視していることに気付く。そして、すぐさま二人を引き離すようにチヒロを背に隠し、沙華の前で大の字を作った。危ない危ない、チヒロくんは私が守る。
 揶揄いのつもりだったのだが、静姫があまりにも予想通りの反応だったため、沙華はケラケラとおかしそうに笑った。どうやら沙華は随分とご機嫌のようだ。そして、その彼女の機嫌の良さは静姫の行動が要因ではない。
 沙華は静姫の磨かれた美しさに、それを此方が言及せずとも気付ける者がいた事が純粋に頗る嬉しいのだ。

「さ、見てわかる通り……ほんっとーに見て分かる通り?シズは生来の美しさを殺すことなく磨き続け……更に美しくなるように私は躾けたわ。もちろんそれに理由はある。八割は私の拘り、残りの二割はシズが強くなるために必要なる為よ」
「せめて逆であってくださいよ、神」

 沙華は語る。
 強い剣士になるならば、まずどう刀を振りたいのか。己の信念と性質を正確に理解することから始まるのだと。そして、その道を極めることが強さの秘訣なのだと。

「私の知り合いには『居合白禊流』という剣術を生み出したジジイがいるわ。あいつは刀を振る際に『最速』に浪漫を見出しそれを極めた。疑う余地もなく、あいつはこの世で最も強い最速の大剣豪でしょうね」
「ジジイっつっても年下やろ」
「確か八歳差では」
「あいつも昔は落ち着きのないクソ生意気なガキだったわねぇ。今ではあんなに立派に老け込んで……熊斬りたいって言ってたわね確か」
「ぜ、絶対にみたらしに会わせないようにしなきゃ……!」
「大剣豪って全員幾つになっても落ち着きがないんですか」

 怯えている羅幻の横で、思わずチヒロが辟易としているが、彼もその剣術の名を知っている。
 その剣術は父である国重から聞いた話だと、始祖である白廻逸夫という男を除けば、今まで二人しか習得が出来ていないという最高難度のもの。
 そして、その二人はかの『斉廷戦争』にて国重から妖刀を託され、日本に見事勝利をもたらしたという……。

「私は最速で刀を振りたいというわけではないから白禊流を習得しようとはしなかったけれど、あいつの理屈自体はとても気に入ってるわ」

 刀で強くなるならオールラウンダーになろうとする必要はない。
 とある一点を極めようとすれば自然にあらゆる身体の動きが精錬されていき、それはいずれ強烈な一太刀を生み出す力になる。

「ちなみに沙華さんは刀の振り方でどの道を極めてるんですか?」
「享楽」
「強いわけだ」

 極めすぎなんだよ。

「んで、私は『美』を極めようと思って」
「美しくなって刀を振りたいってこと?」
「そうだけど、勿論容姿だけじゃなくて、剣筋も美しく振れるように。だって、私が刀を振りたいと思ったきっかけは……国重さんの手で打たれた刀が、この世の何よりも美しかったって理由だから」

 そんな美しい刀を手にするのなら、その刀を振るう者はそれに見合うほどの美しく、同時に美しい剣筋を生み出すことのできるものであるべきだと静姫は確信したのだ。

「私の見解で言えば、美しいことが必ずしも強さに繋がるわけではないわ。美しい弱者だって、私は沢山見てきたから」

 美しさが必ずしも武力的な強さに直結するわけではないだろう。実際に、静姫が六平国重の打った刀と同等に美しいと思った四十万紗凪は武力的な面では圧倒的に弱者であったのだから。
 そうだとしても……。

「けれど、私が見てきた強者たちは皆総じて……美しかったわ」

 だから、静姫は決めたのだ。

「私は美しさで強さを手に入れる」

 この世で最も美しい刀を振るう、この世で最も美しく強い剣士になってやる、と。

「まあ、そのために美貌を保つことは前提条件なんだけど。六平家には明らかに私に適さない洗髪料しかないことに気付いて絶望してたら、沙華さんがね?」
「そういう流れでシズの美容セット一式を全てプロデュースさせて頂いたわ」

 静姫と沙華はとてもよく似たキメ顔で、チヒロに向かって同時にサムズアップした。やめろ、眉をキリッとさせるんじゃない。なんだこのテンションの落差は。

「素晴らしい話ですね。それで、その話がどうしてあのシズに対する暴行証拠写真に繋がると言うんですか」

 そもそも、この話は何故写真をあまり残したくない静姫が沙華に従い、彼女の性癖フォルダに潤いの一滴を注いだのか……それを説明するものであるはずだ。
 なんか、良い感じの雰囲気を醸し出して誤魔化そうとするんじゃない。

「あー、それなんだけどさぁ……」
「タダで譲るわけないじゃない。シズにはお代を払ってもらったのよ、カラダで」
「は」
「ダァから語弊が!」

 あまりに衝撃的な沙華の台詞にチヒロは思わず声を漏らした。
 いや、落ち着け自分、ビークールだ。これはいつものアレだ……静姫だって語弊だと言っているだろう。
 だが、沙華の口から事情聴取しようとすれば逐一ノイズが入ることは間違いない。ことのあらましはこれまで通り、静姫の口から聞くことにしよう。

「で、どういうこと、シズ?」
「えっとぉ、さぁ……私ってこの伊澄家に来た時はマジで無一文なわけ。実際にはいくらかあるんだけど、それは全部柴さんに預けてるの」
「預かっております」
「つまり、柴がシズの財布ってことね」
「シャラップです、神」

 チヒロはその額を詳しくは知らないが、柴銀行に預けた静姫の預金残高は例の『百六万八千三百七十二円』である。
 柴はそのお金に一切手をつけていないし、もちろん一時的な建替えなどにも利用していない。
 これは静姫の金だからという至極当然なことでもあるが、凍霞家から受け取ったお札に印刷された記番号が流出してしまえば、そこから足がつく可能性が高いということが理由だ
 凍霞家のことだ。そういった面にまで徹底的に調べ尽くしているはず。

「でも私は売掛、絶対許さない主義なのよねぇ」
「ウリカケ?」
「って何?婆ちゃん」
「あら、羅幻も知らなかったのね。つまり……」
「借金は絶対にしないってことだよ」
「へぇー!シズちゃんって物知り!」
「ソウネ」
「ソウダネ」
「ソヤネンナ」
「何故皆さん片言に?」

 チヒロも羅幻も未成年である。羅幻にも説明するため沙華は、あまり陽ではない部分を回避しつつ噛み砕いて説明しようとした。
 しかし、それより先に同じく未成年であるはずの静姫が超絶噛み砕いて説明してしまった。しかも、このスンッとした表情は明らかに色々知っている。おそらく六平家に来る以前からあった知識だろう。哀しい日本の現状がそこにはあった。

「それで、私はこの一式セットを手に入れるためのお金がその場になかったから、その代わりに写真撮影を許したということなんだよチヒロくん。鍛錬中にできた怪我を撮りたいからって」
「……いや、カラダで払ってるじゃん」
「え?」
「なんで不思議?」

 チヒロは一瞬納得しかけた。しかし、よく考えて話をまとめると……静姫はお金の代わりに沙華のちゃんと歪んだ私利私欲のために写真を撮らせているということになる。
 あれ、おかしいな。語弊って聞いたんだけど。流れが怪しくなってきたぞこれ。

「そうよシズ、それだけじゃ説明が足りないわ」
「沙華さん……」
「撮影許可だけじゃなくて、おさわりだって許してくれたわよね?」
「沙華さん?」
「違うんだよチヒロくん。一式セットと別売りで七万円相当の美顔スチーマーがあったんだよ」
「ちょっと、ねぇ」
「おい!ついにシズちゃんが『語弊』って言わなくなったぞ!?」
「静姫!おま自分の身体を安売りすな言うたやろ忘れたんか!?」
「安売りしてないですよ?キューティクルと美肌は金で買えないんですよ、実質プライスレス」
「アカン闇堕ちしとる!」

 徐々に静姫の目に光が消え失せていくのを三人は確かに見た。彼女は『美』を手にするために一体どんな犠牲を払ったと言うのだ。

「伊澄ィ!なにとんねんうちの弟子に!」
「羅幻は詳しく解説を!」
「ラジャーッ」

 こんな状態の静姫の言葉はもう信じることができない。彼らに残された希望はもはや羅幻のみであった。
 さぁ、プレイボールである。

「あれは楽しかったわぁ。赤く腫れ上がったシズのアレを執拗に指で愛撫できて……そこから溢れ出る蜜がまた甘美なもので……!」
「シズちゃんのミミズ腫れを婆ちゃんは爪でめっちゃガリガリ引っ掻いてた!傷から血も結構出てた!」
「いたかった」
「シズ!」

 ワンアウト。

「あの時のシズときたら……!涙を浮かべて大声で喘ぎながらビクビクっと身体を打ち震わせちゃって……!」
「シズちゃん、号泣しながら痛みのあまりに絶叫してのたうち回ってた!」
「いたかった、ないちゃった」
「シズッ!」

 ツーアウト。

「最後にシズは首筋を噛ませてくれたわ」
「婆ちゃん、シズちゃんの首噛んでた!」
「かまれちゃった」
「シズーッ!」

 スリーアウト。刃の師はチェンジである。
 しかも、スリーアウトめはストレートボールであった。どういうことだ。

「シズ!もう帰ろう!というか羅幻さんは何故その様子を黙って見てるんですか!」
「え?だって婆ちゃんが『涙の数だけ人は強くなれるの』って言ってたからそっか!って思って」
「おまっ羅幻!アレ、そん時の録音だったんかい!」
「私ッあんなことされるなんて思ってなかった!美肌生成後のチェックだろって……!仕上がり具合の確認だってェ!」
「すんごく仕上がってたわよォ!」
「やかましいィッ!」
 
 後から補足すると、沙華のよる治癒能力は人の血を吸う必要があるのだとか。
 沙華の妖術は吸血鬼のようなものであり、血を吸った際に玄力を込め、対象の体を操るというもの。その応用で細胞組織を変異させることが出来るのだ。
 欠損した部位を生やすなどという芸当は出来ぬものの、生まれつきの色盲などを治すことが出来たり、逆に元々存在する細胞を殺すこともできる。つまり、先ほどの沙華は柴と薊に噛みつき、本当に毛根を殺そうとしていた。危なかった。
 そして、沙華は静姫で享楽に勤しみ満足した後に、彼女の血を吸ってミミズ腫れの治癒を行なったとのこと。負傷に対する迅速な治癒に必要だったことだと主張しているが……「はあそうですか、知るかボケ」としか言いようがない。

「そもそもシズが強けりゃ怪我も負わなかったし、私の攻防を防げたら美顔スチーマーは無償で贈呈したわよ。恨むなら弱い自分を恨みなさいって話なのよねぇ」

 静姫は悔しさのあまりにそのままヨヨヨと涙を流しながらチヒロにしなだれかかり、チヒロはそんな彼女の体を庇うように抱きしめた。なんて可哀想なんだ。
 
「くっ!沙華さん、覚えておいてください……あの時の雪辱はいつか必ず果たしますからね……!」
「オーッホホホホ!メスガキのくっころ負け台詞は栄養価が高いわねぇええ!」
「キィイイイ!」

 静姫は十歳の頃、生半可ではない地獄を味わったことがある。弱者は食い物にされるのだという現実を突きつけられ、強くならなければ抗う術がないということを。
 それを、今になってこんな形で再現されるとは夢にも思わんだろ。
 
「でもこれは全て貴方のせいでもあるのよ、チヒロ……」
「正当な怒りを表してもいいですか?」

 困ったふりをしながら頬に手を当てつつ眉を下げ、謎の責任転嫁をしだす沙華。
 なんだ、そのわざとらしい八眉は。被害者面をするんじゃない。

「そもそも私は弟子を取るタイプじゃないのよ。だからシズの師範は柴だけで私は違うわ。私は誰かを導くつもりなんて毛頭ないもの。いやよ面倒くさい。私は私が楽しく生きることに全力を注いでいるというのに弟子を抱えるなんて冗談じゃないわ。自分良ければ全て良し」
「めっちゃ言うじゃん。流石は私利私欲に極限までド正直、享楽神の申し婆大剣豪ですね。私にはとても真似出来ないやぁ」
「もっと言いなさい」

 嬉しいんかい。腹立つな。

「私が見るのは精々お世話レベルよ。それで、その対象は身内だけ。だから羅幻の訓練だけは見てあげているの。何故ならこの子は私の孫である可愛い可愛い羅幻だから」
「可愛い可愛い俺だから!」

 ついに、羅幻までもがキメ顔サムズアップをし始めた……薄々感じてはいたが、彼の『俺はめっちゃ可愛いキューティーフォーエバー』精神はどう考えても沙華の可愛がり方が原因なのだろう。

「シズはお気に入りよ。でも、身内じゃない。そんな人間に対して何から何まで世話をするなんて私には出来ないわ。だから、私はシズ寄越せと言ったの。そうすれば、私はシズの面倒を見れるのだから」
「えっ本当に直談判したんですか」
「したわよ。フラれちゃったけど」
「だから、言ったじゃないですか」

 沙華は一度、深く深い溜息を吐く。静姫はそんな彼女に呆れたように口を開いた。

「私はチヒロくんのものです」
「!」

 その言葉にチヒロは目を見開いた。
 チヒロは今までも静姫のことを自分のものだ、と何度も主張してきたし彼女もそれを否定したことはない。それに、沙華も静姫の口から「自分はチヒロのもの」と聞いたと言っていた。
 しかし、チヒロはそれに対して、常日頃から言いようのない歯痒さを覚えていたのだ。
 彼は静姫を手に入れた時からずっとずっと真剣な想いで何度も言葉にしてきたのに、彼女はそれを全く重く捉えていない。
 だから、静姫はチヒロの元を離れて伊澄家に一週間も滞在していたし、沙華に静姫の所有者としての威厳が見えないと言われてしまったのだ。
 ずっと痛感してきた。静姫はきっとチヒロが本気で自分のことを欲しがっているわけじゃないと。そう、高を括っては侮っているんだろう、とチヒロは思っていた。

「私のことは既にチヒロくんが貰い受けました。だから、私のお世話をするのはチヒロくんです。私を懐に入れたいのであれば、チヒロくんに交渉してください。絶対に無理でしょうけどねって」

 だが、侮っていたのはチヒロの方であった。
 この真剣な声色から分かる。静姫はチヒロが自分のことを本気で欲しているのを理解しているし、同等の覚悟でそれに応えている。きっと、とっくの昔からずっとそうだったのだ、と。
 それに呆けているチヒロを知ってか知らずか、静姫はサッと荷物を纏め直し始めた。
 そして、纏めた荷物を背負い再びチヒロの腕に抱きつき、びしりと伊澄家の二人に指を差した。

「言っときますけど、私は羅幻が結婚するまで伊澄家に二度と来ないし、会いもしませんから!羅幻の隊服は洗濯後、柴さんに返却を頼むことにします!」
「えぇ!?嘘ぉ!少なくとも俺達一年以上シズちゃんに会えないってこと!?」
「そうだよ!じゃなきゃ今度は沙華さんが『羅幻と結婚したらシズは身内よね!全て良し!』とか言い出すだろ!何も良くねぇよ!」
「黄金ルートが閉ざされたわね。残念だわ」
「そらみたことか!」
「仕方ないわね。婚活頑張りなさい、羅幻」
「俺!超頑張る!シズちゃんにロリィタ作りたいもん!」
「一年後もロリィタで喜ぶと思ったら大間違いだからな!?」

 ようやく……これで、本当にようやく帰ることが出来るらしい。
 柴も薊も疲れ切った様子で、静姫と彼女に抱きつかれたままのチヒロに歩み寄る。このまま柴の妖術で六平家に戻れば無事に帰宅成功だ。

「あぁシズー。最後にひとつー」
「何だというんですか!?」
「私の知り合いの剣豪に話はつけておくから刀の修行はそこで積みなさい。次に会う時までには、私の太刀をある程度は受けられるようになっておくのよー」
「何から何まであらゆる面でありがとうございましたァ!羅幻の結婚報告以外でもう連絡して来ないでくださいね、さようならァ!」

 そんな静姫の怒りを交えた感謝の声とシュンッという音だけをその場に残し……四十万静姫奪還部隊の任務が完了したのだった。

 *

 その日の夜のことである。

「あー!おはぎぃ一週間ぶり!会いたかったよー!これでやっと安眠出来る!『シズちゃん!お疲れ様!』ありがとう、おはぎ!」
「だからおはぎは喋んないって」

 ボフッと静姫は布団に沈み込み、相棒の茶色のマスコットをぎゅむぎゅむと抱きしめた。やはり、これでなくては。日はチヒロも静姫も一段と疲れた一日だったこともあり、いつもより就眠時間が早い。

「明日からいつもの日常が帰ってくると思うと心が休まるよぉ。他人ん家って気を張っちゃうからマジで疲れる」
「よその家ってだけが理由じゃなさそうだけどね」

 チヒロも静姫と同じように自分の布団に潜り、そそそっとその中で軽く移動する。静姫はそれに応えるようにチヒロの布団に手をやり、彼はその手を優しく包んだ……ああ、おかげで本当にいつもどおりの日常に戻ってこれたのだと実感が出来た。
 この硬くて愛おしい、静姫の手の温もりに直に触れながら眠れない一週間はとても寂しかったな、とチヒロはどうしてもしんみりしてしまう。
 しかし、完全に就眠するには一つだけ……チヒロは静姫に聞きたいことがあった。

「でもさ、シズ……アレはどうして?」
「……んー?アレってぇ……?」

 静姫はもう眠そうで、寝ぼけ眼をこすりながら、チヒロにむにゃむにゃとした声を返す。

「これから羅幻さんがシズ以外の誰かと結婚するまであの二人と会わないなら……わざわざ、あの場で羅幻さんのことを明確にフッちゃう必要ってなかったんじゃないの?」

 チヒロがそう疑念に思うのは当然のことである。
 本来ならチヒロと沙華の話が終わった後に、静姫達はすぐに家に帰ることができたはずなのだ。
 それなのに無駄に時間がかかってしまったのは、確実に静姫が告白してもいない羅幻をフッたことが原因だろう……まあ、彼女が羅幻の隊服を着るというハプニングもあったのだが。
 どう考えても話が拗れるとは分かっていただろうに。しかも、あれさえなければ白日の元に晒された……主にチヒロの神経を逆撫でする沙華のやらかしは闇に葬られていたはずだ。いや、明らかになってよかったが。
 だから、チヒロには静姫のあの時の言動が、どうしても必要なものだったとは思えないのだ。

「必要だったよぉ」

 しかし、静姫の答えはチヒロと真逆のものだった……何でもないような間延びした声で、さも当然のように。
 チヒロは疑問符を浮かべながらも彼女の言葉の続きを待つ。

「だって、チヒロくんが嫌がるかなーって思ったから」

 どくり、と心臓が一等大きい音を出した。

「え……?」
「チヒロくんは嫌でしょー、私がチヒロくん以外の男に狙われてる状況」

 それは、図星だった。
 チヒロは静姫のことが好きだ。恋愛感情で、彼女を恋しく思っている。
 だからこそ、同じように静姫のことを想っている存在がとても嫌だった。さらに言えば静姫が強くなるために必要なこととは言え、彼女がこれ以上美しくなることも、あまり喜ばしいことではなかった。
 本当なら静姫が姫になるのも皇子になるのもやめてほしい。チヒロただ一人を沈ませる沼であって欲しいから。
 静姫が美しくなればなるほど、羅幻のように彼女に恋する存在が沢山増える……それが、チヒロには堪らなく嫌だった。

「チヒロくんには極力嫌な思いをさせたくないから……それに、今日はチヒロくんがいたからねー。チヒロくんの目がある場所で確実に潰しておこって。だからだよぉー」

 問題なのは、静姫が何故……チヒロの図星を指すことができているのか。
 どくっどくっとチヒロの心臓は暴れるのをやめないどころか激しさを増すばかりで……彼女を包むために優しくあろうとした手からはじっとりとした汗が吹き出している。
 チヒロは息を殺して、静姫が続きの言葉を口にするのを……まるで肉食獣に殺される前の小動物のような緊張した心持ちで、じっと待った。

「……すぅ」

 しかし、静姫はもうとっくに話し終えてしまったらしく、聞こえてくるのは彼女の愛らしい寝息ばかりだった……まるで、チヒロの心を置き去りにするかのように。

「……シズ」

 考えたことがなかったわけじゃない。
 静姫はまともじゃないし、やることなすこと突拍子もない破天荒な女の子だが、決して鈍いわけじゃない。むしろ、本質はその逆で聡く鋭い女の子だ。

「シズ……」

 今までは確信が持てなかった……いや、確信を持ちたくなかった、というのが本当か。

「シズ」

 だが、今日を持ってそれは確信になってしまった。

「もう、気付いてないふりをするのは……俺も、疲れたよ……」

 それに、静姫はもう既に何度も言っていた。

__『知ってる……』
 
 こんなふうに月が輝くあの夜にも。

__『知ってる、よ……』

 冷たい水の中で抱きしめあった、あの場所でも。
 本当はずっと、ずっと前から届いていた、伝わっていた。

「シズ……」

 静姫は、とっくの昔からずっと知っていたのだ。
 チヒロが静姫を好きだということを。