清掃員さんと先生の酷い一日(1/2)
酷い一日だった。クルーウェルはネクタイを緩めながらグラスを手に取った。氷が涼やかな音を鳴らしながら琥珀色の中で揺れる。酒はワインをよく嗜むが、こういう日はウイスキーを選ぶと決めていた。
明日は休みで、今日はこのまま怠惰に過ごすつもりだ。帰宅するなりソファの背に放ったコートも、脇に投げ置いた鞄も、片付けは明日でいい。
しかし悲しきかな、そんな時にも気がつけば酷い回答用紙と枯れてしまった薬草、終わりの見えない会議に部活動のトラブルと問題の数々が頭に浮かんでしまう。勉強を教えるだけでいいと思っていたこの仕事も膨れに膨れ、今や初出勤日に大ドジをかました清掃員のために魔法薬を作ってやるまでになっていた。
もはや人の短い一生に詰め込んでいい量ではなく、そのせいか、気を抜けば頭は学園でのことばかりだった。
(あいつ、まさか酔い潰れてないだろうな)
思い出すのは今日の放課後、嬉しそうにワインボトルを抱えてそれを見せびらかしに来た、清掃員ことヒトハ・ナガツキの姿である。
トレインに貰ったというワインは一目見て高価なもので、曰く「良い物を知るのも勉強」なのだと言う。酔えば手がつけられなくなる彼女に最も与えてはいけない物だ。トレインはもう巣立ったという自分の娘を思い出してか、なにかにつけて彼女を甘やかした。あの惨状を知れば、とてもではないが酒を譲ろうなどとは思わないだろう。
それにしても、あの満面の笑みである。
まるでお気に入りのおもちゃを見せびらかす犬のようだった。手にしている物がトレインから譲り受けたワインボトルなのは、あまりにも可愛くなかったが。
クルーウェルは空のグラスを置き、なんとなしにスマホを手に取った。帰ったらテレビでマジフト観戦をするのだと上機嫌に言っていた彼女が、どうしても脳裏にちらついてしまう。
――家で酒を飲んでいるが、来るか?
そんな傍から見れば迷惑なメッセージを送りつけてしまったのは、アルコールで少し気分が浮ついていたからに違いない。時刻は夜の九時を回っていて、相手は仮にも女性で、まして、そんな関係でもない。どうかしている。
彼女はどこか抜けてはいるが、常識はきっちりと弁えている方だ。このふざけたメッセージも、どうせ冗談で済ませるだろう。そう思ってスマホをテーブルに伏せると、クルーウェルは二杯目を作りに席を立った。
***
それは酒を飲むのにも飽きて、煙草でも吸うかとバルコニーに出る窓を開けようとした時のことだった。
「なんだ……?」
こんな夜更けにもかかわらず、呼び鈴のけたたましい音が家中に響く。
クルーウェルは眉を寄せ、仕方なく火を点す前の煙草を手にしたまま玄関に向かい、扉を開けて、そして閉じた。
「ちょ、ちょっと! ちょっと先生! 私です、私!」
ドンドンと遠慮なく扉を叩く音を聞きながら、クルーウェルは眉間を押さえた。どうやら飲み過ぎてしまったのか、幻覚と幻聴に侵されているらしい。
「本当に来る奴がいるか?」
「いるじゃないですか、ここに」
再び開いた扉の先に、やはり頭ひとつ分小さな女性が口を曲げて自分を見上げていた。
ヒトハはいつもきっちりと結い上げている髪を下ろし、いつかどこかで見繕ってやった緩いワンピースを着込み、そして片手に大きな袋を抱えていた。彼女はいかにも急いで来た様子で、しきりに前髪を手櫛で整えながら「せっかく来たのに」とぶつぶつと文句を口にしている。
「冗談に決まっているだろう。ハウスだ、ハウス」
クルーウェルは片手で追い払う仕草をしながら鬱陶しく前髪を搔き上げた。
まさか本気にして家までやってくるとは思わなかったのだ。ここは仮にも異性の家で、時計の針はもう夜の十時に届く。一線を踏み越える覚悟もなさそうな顔をしてのこのこ来ていい場所ではない。要らない冗談で夜道を歩かせる羽目になったことは申し訳ないと思うが、そこまでだ。
せめて家まで送って行ってやるかと指に挟んだままの煙草を仕舞おうとしたところで、ヒトハは不満の声を上げた。
「もう! 先生が呼んだんですよ!? マジフトの試合、まだ終わってなかったのに!」
先生のおうちを散策するまで帰りません! などと言いながら強行突破しようとするのを慌てて引き留めると、彼女は「やめてください!」と、どっちの台詞か分からないことを言い出した。
今に始まったことではないが、ヒトハ・ナガツキという清掃員は実に強情な女である。
「ステイ! 分かった――分かったから、この家ではお利口にしていろ。いいな」
「はぁい」
渋々許すとヒトハは聞き分けの良さそうな声で返事をして、ついに室内に足を踏み入れることに成功したのだった。
他人の家をモデルルームか何かと勘違いしているのか、ヒトハは興味深げに家具や家電を眺めては「高そう」と呟いた。
カーペットからテーブル、ソファ、キャビネット、照明に至るまで素材からこだわりぬいたインテリアである。当然の感想ではあるが、彼女が言うとどうにもチープに聞こえてならない。
クルーウェルはちょこまかとリビングを動き回るヒトハの後ろをついて回りながら嘆いた。
「はぁ……。お前、悪い男には捕まるなよ」
こんな夜更けに呼び出されて言うことを聞くような都合のいい女では先が思いやられる。
クルーウェルの親切な忠告に、ヒトハはキョトンと目を瞬いた。
「もう捕まってるじゃないですか」
先生に、と言いながら人差し指を向けられて、クルーウェルは顔を顰めた。
「……意味分かってないな?」
「いやですね、先生。酔ってます?」
「お前にだけは言われたくない」
ヒトハは少しだけムッとしたが、結局よく分からなかったのか、すぐに気を取り直すと遠くに視線を移した。
「先生、家でも葉っぱ育ててるんですか?」
葉っぱ、と呼ばれた物を見ると、それは大事に育ててきた観葉植物だった。手をかけた甲斐あって、ついに腰の高さを越え、葉は鮮やかな緑で彩られている。
「葉っぱじゃない。観葉植物だ」
「じゃ、あれは?」
「あれは……薬草だな」
「葉っぱじゃないですか」
と、ああ言えばこう言う可愛くない女である。
魔法薬学室にある物と同じ物をめざとく見つけたことは、褒めるべきなのか呆れるべきなのか悩ましい。
「おい、日を跨ぐ前に帰れよ」
「え? 子供じゃあるまいし。あと二時間もないですよ?」
ヒトハはそんな呑気なことを言って当たり前のような顔をしていた。気を遣って言ってやっているのに全てを台無しにするのだから、今までどうやって生きてきたのか甚だ疑問だ。
さすがに苛立って「どうなっても知らないからな」と忠告をしてみるものの、それを聞いて理解できるなら最初からこんなことにはなっていないのだろう。「はい」と素直に分かったふりをしている姿は、実験室を逃げ回るマンドラゴラより遥かに憎らしかった。
壁掛けのテレビはうちの二倍サイズ、ワインセラーが羨ましい、などのコメントを残しながら、ヒトハはようやく部屋の散策をやめて持ち込んだ袋を広げ始めた。
ワインやらチーズやら、酒のつまみがスルスルと袋から出てくる。本気で飲みに来ただけらしく、そのラインナップには一切可愛らしさが感じられない。
そこでふと、クルーウェルはヒトハが持ち込んだワインに目を留めた。それは今日の放課後に彼女が得意げに持って来た物である。
「なんだ、開けてなかったのか」
「え? だって放課後に見せに行ったじゃないですか。先生も好きかと思って」
ヒトハはボトルを片手に首を傾げた。
どうやら放課後はワインを見せびらかしに来たのではなく、一緒に飲むつもりで持って来たようだ。
「いい心がけだな」
「でしょう?」
そう言って、ヒトハは目を細めながら得意げに笑った。
結局こういうところに絆されて、憎みきれないところがまた憎いのだ。
こうして深夜から始まった二人だけの酒盛りは、すでにお互いがそこそこ疲労を抱えていたおかげで全く派手なものではなかった。グラスにワインを注いで、少量の食べ物を摘む。会話はいつものように実のない雑談で、しばらく続けていると沈黙も増えたが、幸いにしてトレインから貰ったというワインは沈黙を埋めるに足る美味しさだった。
時計の針がとうに日を跨いでしまった頃、クルーウェルはヒトハが椅子に座りながらうとうととしているのを見つけた。下手をしたら天板に頭をぶつけてしまいそうだ。
とはいえ今から自宅に帰すのは困難で、かといってこのまま放置もできない。どこかに寝かせてやろうかとは思うものの、選択肢はリビングのソファか寝室の二択しかなかった。
そこで寝室を譲ってやろうと思い至ったのは、決して下心があってのことではない。さすがにソファに寝かせて自分だけ寝室に向かうことは気が引けたのだ。
クルーウェルはヒトハの肩を揺すって「起きろ」と声をかけた。せめて部屋までたどり着いてもらわなければ困る。しかし当の本人は「ううん」と呻きながら動こうとしない。
「はぁ、まったくお前は」
こっちも激務で疲れているのに、と思うと色々と配慮してきたことがどうでも良くなってきて、両手を脇に差し込んで子供にするように持ち上げた。
「ん、意外と軽いな」
「ふふ、だって先生が『痩せろ』って言ったから。頑張っちゃいましたねぇ」
そこでヒトハは意識を取り戻したのか、微睡みながらも掠れた声で言った。とろとろと腕を首に伸ばして絡ませ、完全に子供の仕草である。横抱きにしてやると落ち着かないのか、肩口の生地をぎゅっと握りしめた。誰がこのベストにアイロンをかけると思っているのか。
「先生、『太れ』とか『痩せろ』とか、注文多いんですよねぇ」
「悪かったな」
一体何が面白かったのか、彼女はクスクスと囁き程度の小さな笑い声を上げて、両足を宙で揺らした。
よくもこんな状況でこれだけ大胆になっておきながら、何も起きないとたかを括っているものだ。小言の一つでもくれてやりたかったが、こうも夢現では言ったところで無意味だろう。第一、正気ならこんなことはしないはずだ。酔いが醒めて自分が何をしたかを知れば、泡を吹いて卒倒してもおかしくはない。
クルーウェルはそのままリビングを出た先の扉を片手で軽く開け、片足で押し広げた。廊下から入り込む薄い光だけが寝室を照らしている。
そこでようやくベッドに下ろしてやると、ヒトハは完璧なベッドメイキングを崩しながら「ベッド広い」と独り言を呟いた。ちゃっかり寝たまま枕の位置を調整するあたり、本当は眠くないのではと思うほどである。
「おい、まさかここまでして何事もなく帰れると思ってはいないだろうな」
ヒトハは乱れた髪の隙間から、ぼんやりと自分を覆う男を見上げていた。
わずかな光に照らされて、潤んだ目元が扇情的に見えてしまうのは、アルコールと眠気のせいだろうか。口元に貼り付いた髪を払ってやると、擽ったそうに身を捩る。その仕草一つに自制心を揺さぶられて、思わず耳の横についた手に重心がかかった。ギィ、とベッドのスプリングが嫌な音を立てて軋む。
すると彼女は何が気に食わなかったのか、たちまち不快そうに眉を寄せた。
「ちょっと、うるさい」
「うるさい……?」
そして気怠げな声をあげてシーツを引っ掴むと、くるりとくるまって背を向けてしまったのだった。次の瞬間にはもう静かに寝息を立て始めている。
「おい、まさかこの状況で寝るのか?」
しかし熟睡中の白い塊をどうすることもできず、クルーウェルはシーツから縺れ出た髪を指で梳いてやると、今日一番のため息をついたのだった。
「お前……本当に悪い男にだけは捕まるなよ……」
などと言いながら、こんな時間に呼び出したのは紛れもなく自分だ。まさか来るとは思わなかったなんて、今にしてみればただの言い訳でしかない。今この時、ほんのひと摘みの下心が胸に忍び寄ったことを思えば、結局のところ自分も大概“悪い男”である。
ただ今は、こうして無防備を晒すほどの信頼が惜しい。それだけが一線を越えずに済んでいる理由で、枷でもあった。
ついに寝室をまるまる奪われて、クルーウェルは仕方なくリビングのソファで体を横にした。
使い慣れたベッドと違って硬いし狭いし最悪である。スラックスのポケットにいつの間にか入っていた折れた煙草を適当に放り、大きく息を吐くと、今まで忘れていた疲れが思い出したかのようにどっと溢れてきた。
今日ばかりは、シャワーも着替えも、とっ散らかったテーブルの片付けも目が覚めてからでいい。翌朝、寝室から聞こえる絶叫がいい目覚ましになることだろう。その後のことは、もう考えたくもないが。
ソファの背に掛かったコートを手繰り寄せて、クルーウェルは静かに目を覆った。やはりこの一日を締め括るのは、この一言に限る。
酷い一日だった。
2022/02/26