清掃員さんと先生の酷い一日(2/2)
片腕にだるさを感じていつものように寝返りを打ち、いつもと違う香りと肌触りに「ん?」と思わず掠れた声が出る。ヒトハは重い瞼を半分開いて朝の淡い光を感じ、のっそりと体を起こした。
(……どこ?)
見覚えのないベッド、サイドテーブル。柔らかな枕も、無惨な姿にしてしまったシーツも、記憶にない。――そうだ、記憶がないのだ。
昨日の夜、マジフトの後半戦を観ている最中にクルーウェルから連絡が来て、こんな夜に酒のお誘いなんて一体どうしたのかと慌てて家を出た。
彼は無意味なことはしないほうだし、夜中に呼び出すくらいだから余程のことかと思ったのだ。
シャワーも済ませて家着だったのを手早く着替え、軽く化粧をして、いつか一緒に飲もうと思っていたワインを袋に詰める。鏡に写る自分の出来は八十点ほどだったが、彼が選んだ服を着ているのならダメ出しはないはずだ。
そうして夜道を早足で歩いて行ったら、なぜか締め出された。全く納得がいかない。聞けば冗談だと言うから、尚更納得がいかなくて半ば無理やり家に侵入したのだった。
「うう……それから、なんだっけ」
クルーウェルは自分で呼び出したくせに、やたらヒトハを帰らせたがった。そもそも冗談だと言っていたから、本当は夜中に他人が家に上がり込むのは嫌なのだろう。
とはいえ、こちらも呼び出されて来たのだから目的は達成したい。持って来たワインを開けて、ほどほどに会話をしたら帰ろう。そう思ってコルクを抜いた。
そこからが曖昧だ。確か、ふわふわしたまま何か他愛のない話をした。記憶が霞がかったようにはっきりとしないのは、おそらくひどく眠かったからだ。思い出せるのは浮いたような感覚に心地よい温かさと、それから、絹糸の様な白い髪が薄い光で透ける様と、シルバーグレーの瞳がとても綺麗で。
「わ――――っ!!!!」
ヒトハは明らかに自分の物ではないベッドの上で悶絶した。今死ねば間違いなく死因は“羞恥”である。恥ずかしさで死ぬ。それもまた恥ずかしい。
今自分が素足でめちゃくちゃにしたシーツも抱く勢いで一晩共にした枕も、あの男のものだ。誰か他にいた形跡がないのだけが救いだが、しかしそれならあの記憶はいったい何なのだ、と思うとまた頭がおかしくなりそうだった。
「うるさいぞ駄犬! 近所迷惑だろうが!」
「ひゃああああ!!」
部屋の扉が勢いよく開け放たれて、クルーウェルの怒鳴り声が響いた。
彼はとうに朝支度を終えたのか、いつも後ろに流している髪を下ろし、化粧をしていないくらいで普段通りに身綺麗にしている。
ヒトハはこのベッドの主を前にして、ひどく狼狽えた。一度引き摺り出してしまった記憶がフラッシュバックして、冷や汗と同時に涙まで滲んでくる。
「先生、先生! 私は一体何を……何もしてませんよね!?」
クルーウェルは入り口に凭れて「はぁ」とひとつため息を落とした。その端正な顔には苦々しさが滲み出ている。
「安心しろ、何もしていない」
「ほ、ほんとですか? 本当に!?」
「ああ、していない。――“俺は”な」
「してるじゃないですかー!」
ヒトハは体を丸めて嘆いた。なんせ印象的な光景だけを頭に残して、自分が何をしたかの記憶がない。そしてクルーウェルは一部始終を覚えているのだ。だからか彼の言葉には、妙に含蓄があった。
「あんな夜更けに呼び出した俺が言うのも何だが、これに懲りたら無防備に男の家には来ないことだ。今回は――まぁ、お前もほとんど無害だったが、あれではいつ何が起きてもおかしくはない」
ヒトハはクルーウェルに諭されながら下唇を噛んだ。
そうは言われても、だ。
何も意味がなくて来たわけではない。そして夜中に呼び出されたことに対して、何も考えていなかったのかというと、そういうわけでもない。
「だって、先生が呼んだから来たんですよ!? 何かあったのかと……先生、元気ないのかなと思って……」
クルーウェルは無意味なことはしないほうだ。からかいが過ぎるときもあるが、無駄な負担をかけることもしない。そんな彼だから、何か必要があって呼ばれたのだと信じてやって来たのに。
クルーウェルはヒトハがシーツを握り締めながら肩を落とすのを見て、「悪かった」と静かに答えた。
「さすがに俺のために本気で来るとは思っていなかったんだ。お前がまさかここまで……………………純真だったとは」
「なんか今、馬鹿にしました?」
「してない。褒めているんだ。お前は本当に……………………お利口だな」
「馬鹿にしてる……」
ヒトハがぶつぶつと文句を言うと、クルーウェルはいつもよりいくらか穏やかに笑んで、入口に凭れていた体を起こした。
「朝食は?」
「……いただきます」
「よし、では身なりを整えて来るように。それもなかなか悪くない光景ではあるが、品に欠ける」
そう言い残して、ゆったりと部屋を後にしたクルーウェルを見送り、ヒトハはさっと視線を落とした。
部屋に二度目の絶叫が響き、廊下の向こうから笑い声が聞こえてくる。
穏やかな陽が差し込む寝室で。
ヒトハは息絶えたようにシーツの海に倒れ込んだ。それは間違いなく、酷い一日の始まりだった。
2022/02/26