輝石の国(3)
雪の積もる街頭もホリデー真っ只中とあれば行き交う人々で溢れている。新年も迫った今日、夜の街は特別な賑わいを見せていた。例えば店の隅にいる酔っ払いとか、楽しそうに歩いている恋人たちだったりとか。
ヒトハはそんな風景に似合わず浮かない顔をしたクルーウェルを度々見上げては、これといって面白みのないことを口にした。笑って欲しいわけでもないし、何か特別な返事が欲しいわけでもない。ただ少し、今だけでも気が紛れたらそれでよかった。どうにもならないことにもどかしさを感じているのはお互い様だったが、フォレストを案じる気持ちは自分よりはるかに強いと分かっていたからだ。
二人はあてもなく夜の街を彷徨い、最終的に人が賑わうビストロの前で足を止めた。結露で曇った窓ガラスの先に木製の暖かな内装の店内が見える。ろくに食べずに歩き回っていたせいか、もうお腹が空いてしょうがない。
ヒトハは外に出ている黒板をじっと見てクルーウェルの袖を引っ張った。
「先生、私ここが気になります」
「ここか? せっかくならもう少し特別な店がいいのでは?」
「ふふん、地元の人に人気のお店なら間違いないんですよ!」
「食に関しては妙に自信があるな……」
まぁいいだろう、と押し開けた扉の先は陽気な店内で、運良く空いた席に座って壁掛けの黒板にあるメニューを仰ぎ見る。使い古しているせいか粗く削れて文字が上手く読めなかったが、それがまた味わい深かった。
「先生、ワイン頼んでもいいですか?」
続けてワインのメニューに熱心に目を通しながら言うと、クルーウェルは「一杯だけだからな」と念を押した。麓の街でたまに飲みに出かける時に彼がよく言うセリフだ。
ヒトハは悩みに悩んで、結局「メインの時に頼みます」とメニュー表を閉じた。クルーウェルはそれを取り上げながら「懸命な判断だな」と鼻で笑う。その時の彼は、街中で見たよりも幾分か柔らかい顔をしていた。
「ほら、この店当たりだったでしょう?」
赤ワインのグラスを片手に得意げに言うと、クルーウェルは白ワインを手に「そうだな」と仕方なく笑った。
美味しいものでお腹が満たされれば多少の疲れは飛んでいく。日中溜め込んだ疲労と緊張をすっかり解いて、二人は明日の予定を話し合っていた。
「しかし今日で完全に予定が狂ってしまったな……。明日の午後からは本来のスケジュールに戻るが、午前中は少し時間がある。どこか行きたい所はあるか?」
クルーウェルは悩ましげに尋ねた。完璧なスケジュールを立てていたから、空いた穴を塞ぐ案が必要なのだ。でなければせっかく長い移動時間をかけてここまで来たのに無駄になってしまう。
ヒトハはワイングラスを置いて、相変わらず物憂げにしている目を真っ直ぐに見据えた。
「私、教授の家に行きたいです」
はっと見開かれた目が向けられる。
ヒトハは自分の眉間を指差して笑った。
「だって先生、ずっとここに皺寄せてるんですもん。先生がそんな顔をするってことは、納得いってないってことですよね? 教授は意味もなく約束を破ったり、忘れたりする人じゃないってことでしょう?」
ずっと気になっていた。時折り和らぐことはあっても、今日は絶えず不安や心配を抱えて過ごしている。原因は明白で、他でもないフォレストのことだ。彼は何の連絡もなく約束を放棄した教授の身を案じていた。けれど同行者がいる手前、表立ってそれを口にはできなかったのだろう。それならば、旅のパートナーである自分が言うことは決まっている。
「だから明日は教授の家に行きましょう。何事もなければそれでいいじゃないですか。私たちのことを忘れていたなら思い出して貰えばいいんです。もし教授の身に何かあったのに気づけなかったら、きっと後悔します」
「いいのか?」
「ええ、私も心配なんです。一緒に様子を見に行きましょう」
ヒトハが力強く頷き、クルーウェルはやっと強張っていた眉間から力を抜いた。
「お前を連れてきて正解だったな」
「でしょう? では、明日のことも決まったことですし、もう一杯!」
「それは駄目だ」
ひょいと抜き取られたメニュー表を目で追いかけて、ヒトハは「あぁっ」と悲しい声を上げたのだった。
***
忘れていた。この部屋がシングルであることを。
クルーウェルは気まずいまま鍵を挿し、扉に手をかけた。どこにでもあるありきたりな扉だ。それがこんなにも重く感じるとは。
クルーウェルの後ろではのんびり欠伸を噛み殺す女が「もうさっさと寝たい」と言わんばかりに突っ立っている。腹を満たして酒が入り、心身ともに疲労したうえに凍える寒さの夜道を歩いてきたのだから当然のことだ。しかしここまで危機感がないとなると、いっそ心配になる。彼女の精神の図太さに救われてきたことも確かだが、肝を冷やしてきたことも確かである。
そもそも、こんな状況でなければ別室にしていたのだ。明日から宿泊予定のホテルはそれなりに奮発したものだったし、きっちり二部屋抑えていた。それなのにトラブルによってツインでもダブルでもセミダブルでもない部屋に決まるなど誰が思うだろうか。キャンセルが出てないだろうかと電話をした際、事情を知ったホテルから出されたシングルという選択肢に、少なくとも五秒は無言であったとクルーウェルは記憶している。
部屋に遠慮なくよたよたと入ってベッドに突っ伏したヒトハを見ながらため息が落ちる。
「おい、寝るな。先にシャワーを浴びてこい。化粧を落とせ。肌が荒れる」
「ふぁい」
まるで口うるさい親にでもなった気分だなと辟易しながら腕を持ち上げてやると、ヒトハはもごもごしながら自分のトランクに歩み寄った。着替えを手に狭い室内を器用にすり抜けながらシャワールームに消えていく姿を見送って、クルーウェルはしみじみ呟く。
「なんという図太さだ……」
だんだん怠惰な大型犬でも見ているような気分になってくる。ひとりで悶々としていたのが馬鹿らしくなって、部屋の片隅に置かれた椅子にどかりと腰を下ろした。
薄っぺらいカーテンの隙間から見える夜の街は少しずつ灯りを落として静かになっていく。本来であれば、招かれた屋敷でかつて世話になった教授と談笑していたかもしれない時間帯だ。酒の一杯でも酌み交わそうと思って遥々やってきたというのに、どうにもままならない。
トラブルも旅の醍醐味と前向きな彼女は言うが、クルーウェルは不吉な予感が拭えなかった。静かに降り注いでいた綿雪が叩きつける吹雪に変貌するように、刻一刻と悪い方へと向かっているような、そんな嫌な予感がするのだ。
「先生」
とんとん、と肩を叩かれ、クルーウェルは窓に向けていた視線を声の方へ向けた。
小綺麗なルームウェアに厚いガウンをを羽織り、湯上がりに頬を上気させたヒトハが「次どうぞ」とシャワールームを指さす。
不覚にもどきりとしてしまったのを誤魔化すように彷徨わせた視線を濡れた頭に移して、クルーウェルは口を曲げた。
「早く髪を乾かせ、髪を」
「私、自然乾燥派……」
「なんだと!? 自然乾燥などもってのほかだ! この俺の前で身だしなみに手を抜くことは許さん。さっさとドライヤーを持ってこい」
「えー」
めんどくさそうにぶつくさ言いながらとぼとぼと行って戻ってきたヒトハの手には、アメニティの安物のドライヤーが握られていた。思わず舌打ちもしたくなるというものだ。
「シット」
「はーい」
自分の座っていた椅子を譲り、ドライヤーを奪う。安っぽいプラスチックに勢いが有り余る熱風と苛々する要素は絶えることなく湧いて出てくるが、これしかないのだから仕方がない。
「トリートメントは」
椅子に座るヒトハの後ろに立って問うと、彼女は少し間を置いて渋々「家……」と白状したのだった。
「お前はよく男の俺の前で堂々とすっぴんを晒すな」
手持ちのものでなんとか上手く仕上げてやろうと躍起になっていると、やはり大型犬を乾かしているような気にならないでもない。
クルーウェルはヒトハの柔らかい髪の毛を乾かしながら言った。自然乾燥派などとポムフィオーレ寮長なら卒倒しそうなことを言った割にいい髪質だ。
ヒトハはされるがままに頭を触られながらクスクスと笑った。
「だって今更じゃないですか。寝てるところも泣いてるところも見られてますし、化粧なんてあってないものですよ」
「そういえば瀕死の姿も見たな」
「それは忘れてください……」
げんなりとして返す言葉には苦々しさが滲んでいる。もうずいぶん前のことだが、未だについ最近のことのように思い出される最悪の事件だ。
「先生と出会ってそんなに経ってないのに、いろんなことがありましたよね。なんだかこれからも色々ありそうですね」
「俺は穏やかに過ごしたいんだがな」
クルーウェルはすっかり水気の飛んだ髪を指で梳きながら答えた。来年の目標を立てるなら『穏やかに過ごす』で決まりである。ただでさえナイトレイブンカレッジというトラブル絶えない学園にいるのに、これ以上トラブルを抱えてなるものか。
来年は穏やかに過ごせたらいいですねぇ、とほのぼのと言う彼女さえ大人しくしていれば、それはきっと難しいことではないはずだ。
「先に寝てろ」
「えっ」
ヒトハの髪を整え終わると、クルーウェルはそう言ってさっさとシャワールームに向かった。何か言いたげな声が追いかけてきたが、それは聞かないことにした。出てくる頃にはもう忘れてベッドで寝てしまっていることだろう。
――そう思って戻ってきたのに、ベッドを丸々占領してすっかり寝ているはずだったヒトハは、両手で顔を覆ってベッドに座り込んでいた。
「……何してるんだ」
「私は先生がバスローブで背中に薔薇背負って出てくる姿なんて見てません」
「お前の中の俺のイメージは一体どうなってるんだ。おい、隙間から見てるだろう」
ヒトハはパッと手を下ろした。
そしてつまらなさそうに口を尖らせる。
「先生、意外と普通ですね」
「お前は意外とまともだな」
ヒトハは自分の服を見下ろして、裾を引っ張って見せた。部屋の電球色が生地の光沢感を際立たせている。少しは寝具に金をかけようという気持ちがあるらしい。
「教授のお家にお世話になるって言うからちゃんとしなきゃと思って。いつもはジャージです」
「ジャージ……」
聞かなければよかったと半ば後悔しながら荷物を置き、クローゼットにかけたコートを手にする。クルーウェルはそれを持って部屋の奥にある椅子に腰掛けた。
「俺はこっちで寝るからお前はベッドを使え」
「え!?」
部屋の暖房はよく効いているし、コートを被って寝れば耐えられないほどでもないだろう。服をこんな風に使うのはあまり好きではないが、背に腹はかえられない。
「いけません! 今日は先生も疲れてるのに!」
クルーウェルのそんな気遣いを察することのできないヒトハは、ベッドから勢いよく立ち上がった。
「なんかこう……頑張れば入りますって! ほら!」
狭い部屋を大股で二、三歩。ヒトハは勝手にクルーウェルの片腕を引っ張った。余計なお世話である。
「お前は俺をどうしたいんだ」
「どうって、そんなところで寝たら明日体が痛くなっちゃいますよ! 教授のところに行くんだからちゃんと休まないと!」
気乗りしないまま引っ張られてベッド近くまで行くと、彼女は顎に手を当ててベッドを見下ろしながら目を細めた。
「半分……いえ、私は先生より小さいので三分の一でいいです」
つつつ、とシーツに指で線を引く。確かに三分のニというだけあって範囲は広いが、その分残りの三分の一があまりにも心許ない。
「ね!」
と力強く言う姿を見て、「これはもう言うことを聞かないと寝られないな」と察したクルーウェルは、仕方なく彼女の無理のある案に乗った。
深々とため息を吐きながら狭苦しいシングルベッドの端に寝そべる。確かに寝心地は椅子より何十倍もマシだが、全く落ち着けない。
天井の照明は落とされ、サイドテーブルのランプだけが部屋を照らしている。向かい合わせた背中が触れるか触れないかの距離で温かい。シーツの擦れる音が妙に耳に障って、一度体を起こして振り返る。
その時ふと気がついた。背を向けて寝ている彼女の耳が、いまだに赤い。湯上がりで赤いだけだと思っていたが、それにしては時間が経ち過ぎている。
「お前……実はずっと緊張して……」
「明日早いんですから寝てください!!」
ヒトハはそっぽを向いたまま怒ったような声を出すと、それきり黙り込んでしまったのだった。
クルーウェルは悟られないように苦笑を浮かべた。
今日はずっと気遣われてばかりだ。こんな酷い旅の始まりに、もう少し文句を言ったって構わないくらいなのに。彼女は黙っていても欲しい言葉をくれ、進むべき道を示し、そして見返りもなく何もかもを赦すのだ。
(それにしても三分の一は心許ないな……)
クルーウェルの嫌な予感が当たったのは、意外にもすぐのことだった。
「んギャン!」
と、おおよそ人の出すような声ではないような声を聞いて、クルーウェルは浅い眠りから覚めた。起き上がり、ぼんやりとした頭で声のほうを見る。そこにはランプに照らされた腕が、一本だけベッドに乗っていた。本体はない。
「な……おい、大丈夫か……?」
案の定ベッドから墜落したヒトハの腕を取って引き上げてやると、彼女は事態がよく飲み込めていない顔をしながら「いたい……」とだけ呟いた。
「だから俺は椅子で寝ると言ったのに」
「あい……」
頭がふらふらしている。クルーウェルは半分夢を見ているヒトハをベッドの中央に寝かせると、自分はコートを手にして椅子に腰掛けた。
明け方にはまだ時間がある。今から寝ればもう少し疲れが取れるだろう。
それにしても、と眠りに入り始めた頭で思う。
(これは先が思いやられるな……)
安い窓から染み出る冬の空気から逃れるように、クルーウェルはコートを胸に引き上げて目を覆った。
***
寝る間際にセットしたアラームの音は狭い室内に良く響く。
ヒトハはのっそりと起き上がりアラームを止めると、やっと自分がベッドを占領していたことに気が付いた。
隣にいたはずの人物を探して顔を上げ、ソファの上で額を抑えて眠気と格闘する男を見つける。クルーウェルは昨晩あれだけ言ったのに、いつの間にかソファで寝ていたらしい。
「あれ? 先生、結局そっちで寝たんですか?」
ヒトハは寝起きの低い声で訊ねた。
クルーウェルは髪を搔き上げ、はぁ、と深いため息を落とす。そして椅子の肘掛に片肘をついて眠気の残る顔で質問を質問で返した。
「何でだと思う?」
当然その意味深な問いの答えを持ち合わせず、ヒトハは首を捻った。ぐっすり寝ていたのだから分かるはずもない。
彼は特に追求する気もないのか「気にするな」と言い残すと、さっさと身支度を整え始める。ヒトハは時計を見て跳び起きた。アラームはこれから乗るバスの時刻に合わせてセットしていたから、自分も早く支度を始めなければならない。
こうしてヒトハは朝食の合間にもすっかり朝のことを忘れてしまい、その後バス停でバスを待つ間自分の体が妙に痛むことに気が付いた。
「なんか体が……やっぱり疲れが出てるんですかね?」
隣で欠伸を噛み殺すクルーウェルを見上げながら問うと、彼は再び「何でだと思う?」と意味深な問いをしたのだった。